小说下载尽在 http://www.bookben.cn - 手机访问 m.bookben.cn---书本网下载论坛@bookben.cn 附:【本作品来自互联网,本人不做任何负责】内容版权归作者所有!   十二国記シリーズ 月の影 影の海(上)   十二国記シリーズ 月の影 影の海   小野不由美   月の影 影の海(上) 十二国記   一章   1   |漆黒《しっこく》の|闇《やみ》だった。   彼女はその中に立ちすくんでいる。   どこからか高く澄んだ音色で、|滴《しずく》が水面をたたく音がしていた。ほそい音は闇にこだまして、まるでまっくらな|洞窟《どうくつ》の中にでもいるようだが、そうでないことを彼女は知っていた。闇は深く、広い。その天もなく地もない闇の中に、薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりがともった。闇のかなたに炎でも燃えさかっているように、紅蓮の光は形を変え、踊る。   赤い光を背にして無数の影が見えた。|異形《いぎょう》の獣の群れだった。   こちらはほんとうに|踊《おど》りながら、あかりのほうから駆けてくる。|猿《さる》がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。さまざまな種類の獣の姿をしていたが、どの獣もどこかがすこしずつ図鑑で見る姿とはちがっていた。しかもそのどれもが、実際の何倍も大きい。赤い獣と黒い獣と青い獣と。   |前肢《まえあし》をふりあげ、小走りに駆ける。あるいは跳躍し、宙を旋回し、まるで陽気な祭の行列でも近づいてくるようだった。陽気といえば陽気には違いなく、祭といえば祭にはちがいない。   異形の者たちは犠牲者をめがけて走っているのだ。|生《い》け|贄《にえ》を血祭りにあげる歓喜に、小躍りしながら駆けてくる。   その証拠に殺意が風のように吹き付けてきていた。異形の群の先頭まで、もう四百メートルもない。どの獣も大きく口を開けて、声はいっさい聞こえなかったが、歓声を上げているのだと表情でわかる。声もなく足音もなく、ただ洞窟で水がしたたるような音だけがつづく。   彼女は駆けてくる影をただ目を見開いて見つめていた。   ──あれが、来たら殺される。   そう理解できても、身動きできない。おそらくは|八《や》つ|裂《ざき》にされ、|喰《く》われるのだろうと思ったが、まったく体が動かなかった。たとえ体が動いたにしても、逃げる場所もなく戦う方法もない。   体の中で血液が逆流する気がする。その音が耳に聞こえるような気がする。それはひどく|潮騒《しおさい》に似ていた。   見つめるあいだに、距離は三百メートルに縮まった。   |陽子《ようこ》は飛び起きた。   こめかみを汗がつたう感触がして、目に強い酸味を感じる。あわてて何度もまばたきをして、そうしてやっと深い息をついた。   「夢……」   声に出したのは確認しておきたかったからだった。ちゃんと確認をして、自分に言い聞かせていないと不安になる。   「あれは、夢なんだ」   夢に過ぎない。たとえそれが、このところひと月にわたって続いている夢だろうと。   陽子はゆっくりと首をふる。部屋のなかは厚いカーテンのせいで暗い。枕元の時計を引き寄せてみると、起きる時間にはすこし早かった。体が重い。手を動かすのにも足を動かすのにも|粘《ねば》りついたような抵抗を感じた。   あの夢をはじめてみたのはひと月ほど前だった。   最初はたんなる闇でしかなかった。高くうつろに水滴の音がして、まっくらな闇のなかに自分がただ一人でたたずんでいる。不安で不安で動きたくても身動きができない。   闇の中に|紅蓮《ぐれん》のあかりが見えたのは、同じ夢が三日続いた後だった。夢のなかの陽子は、あかりのほうから|怖《こわ》いものが来ることを知っていた。ただ闇のなかに光がある、それだけの夢に悲鳴をあげて飛び起きて、それを五日も続けたころに影が見えた。   最初は赤い光のなかに浮かんだシミのように見えた。何日か同じ夢を見るうちに、それが近づいてくるのだとわかった。それがなにかの群れだとわかるまでに数日がかかり、異形の獣だとわかるまでにさらに数日を要した。   そうして、と陽子はベッドの上のぬいぐるみを引きよせた。   ──もうあんなに近い。   ひと月をかけて地平線からの距離を連中は駆けぬける。おそらく明日か、明後日には陽子のそばにたどりつく。   ──そうしたら、自分はどうなるのだろう。   そう考えて陽子は頭をふった。   ──あれは夢だ。   たとえひと月続いていても、ましてや日ごとにすすむ夢でも、夢は夢でしかないはずだ。   言い聞かせても不安は胸を去らない。鼓動は速くて、耳の奥で血液が駆け巡る潮騒のような音がしている。荒い呼吸がのどを|灼《や》いた。しばらくのあいだ陽子は、すがるようにしてぬいぐるみを抱きしめていた。   寝不足と疲労で重い体をむりに起こして、制服に着がえて下に下りた。なにをするのもひどくおっくうで、おざなりに顔を洗ってダイニング・キッチンに行く。   「……おはよ」   流しにむかって朝食の用意をしている母親に声をかけた。   「もう起きたの? 最近早いのね」   母親は言って陽子をふりかえる。チラリと投げられた視線が陽子に止まって、すぐに|険《けわ》しい色になった。   「陽子、また赤くなったんじゃない?」   一瞬、なんのことを言われたのかわからずに陽子はきょとんとし、それからあわてて髪を手で|束《たば》ねた。いつもならきっちり編んでからダイニングに顔を出すのだが、|今朝《けさ》は眠る前に編んだ髪をほどいて|櫛《くし》を入れただけだった。   「ちょっとだけ染めてみたら?」   陽子はただ頭をふった。ほどけた髪がふわふわと|頬《ほお》をくすぐった。   陽子の髪は赤い。もともと色が薄いうえに、日に焼けてもプールに入ってもすぐに色が抜けてしまう。背中まで髪を伸ばしているが、伸ばすと毛先の色がぬける。おかげでほんとうに脱色したような色になってしまっていた。   「でなきゃ、もっと短く切る、とか」   陽子は無言でうつむく。うつむいたまま大急ぎで髪を編んだ。きっちり三つ編にすると、すこしだけ色が濃く見える。   「誰に似たのかしら……」   母親は険しい顔でためいきをついた。   「このあいだ、先生にも聞かれたわよ。ほんとうに生まれつきなんですか、って。だから染めてしまいなさい、って言ってるのに」   「染めるのは禁止されてるから」   「だったらうんと短く切れば? そうしたら、すこしはめだたなくなるわよ」   陽子はうつむく。母親はコーヒーを入れながら、冷たい口調でつづけた。   「女の子は|清楚《せいそ》なのがいぢはんいいのよ。目立たず、おとなしくしてるのがいいの。わざわざ目立つよう、はでな格好をしているんじゃないか、なんて疑われるのは恥ずかしいことよ。あなたの人間性まで疑われてる、ってことなんだから」   陽子は黙ってテーブルクロスを見つめる。   「その髪を見て不良だと思うひともいると思うの。遊んでる、っておもわれるのもいやでしょ。お金をあげるから、帰りに切ってらっしゃい」   陽子はひそかにためいきをつく。   「陽子、聞いてるの?」   「……うん」   答えながら窓のそとに目をやった。ゆううつな色の冬空が広がっていた。二月なかば、まだまだ寒さは厳しい。   2   陽子が通っているのは平凡な女子校だった。女子校であるということ以外、なんの特徴もない私立高校。父親が断固として選んだ学校だった。   陽子の中学時代の成績は比較的よいほうだったから、もっと上のレベルの学校も|狙《ねら》えたし、事実教師は強くほかの学校をすすめたのだが、父親はゆずらなかった。家から近いこと、悪い気風も、反対に華やかな校風もないことが気に入ったらしい。   最初は模試の成績表を見て|惜《お》しそうにしていた母親も、すぐに父親に賛成した。両親がうなずけば陽子には選択の余地がない。すこし離れたところに制服が気に入っている学校があったが、制服にこだわってダダをこねるのも気がとがめたので、だまってそれにしたがった。そのせいかどうか、入学して一年になろうとしている学校には、今も特に愛着がわかない。   「おっはよー」   陽子が教室に入ると、あかるい声がした。二、三の女の子が陽子にむかって手を上げている。なかのひとりが駆けよってきた。   「|中嶋《なかじま》さん、数学のプリントやってる?」   「うん」   「ごめーん。見せて」   陽子はうなずく。窓際にある自分の席についてからプリントを引っぱり出した。数人の女の子が机のまわりに集まって、さっそくそれを写しはじめる。   「中嶋さんってまじめなんだねぇ。さっすが、委員長」   言われて陽子はあいまいに|微笑《わら》う。   「ホント、まじめ。あたし宿題なんてきらいだから、すぐ忘れちゃう」   「そう、そう。やろうと思ってもよくわかんないし。ダラダラ時間かかって、それで眠くなっちゃうんだよね。頭のいいひとはいいよなぁ」   「こんなの、一瞬で終わっちゃうんでしょ」   陽子はあわてて首をふる。   「そ、そんなことない」   「じゃ、勉強が好きなんだ」   「まさか」   陽子は笑ってみせた。   「うち、母親が厳しくて」   それは事実ではなかったが、こう言っておいたほうがカドがたたない。   「寝る前にいちいちチェックするから、いやになっちゃう」   母親はむしろ陽子が勉強することをきらう。成績などどうでもいいというわけではなかったが、塾に行く時間があったら家事を覚えなさい、というのが母親の言い分だった。それでもまじめに勉強をするのは、好きだからというわけではない。ただ教師に|叱《しか》られるのが怖いからだった。   「ひゃあ。教育ママなんだ」   「そうなの。勉強、勉強ってうるさくて」   「わかる、わかる。ウチもだよぉ。人の顔見ると、勉強ってさぁ。自分はそんなに勉強が好きだったのか、ってーの」   「だよね」   どこかほっとしながら陽子がうなずいたとき、女の子のひとりが小さな声をあげた。   「あ、|杉本《すぎもと》だ」   教室にひとりの少女が入ってくるところだった。   チラチラと全員の視線が向けられて、そうしてすぐに離れていった。しんとそらぞらしい空気が流れる。   その生徒を無視するのが、ここ半年ほどクラスではやっている遊びだった。彼女はそんなクラスの|様子《ようす》を上目づかいに見わたしてから深くうつむいた。おずおずと陽子のほうに歩いてくると左隣の席に腰をおろす。   「中嶋さん、おはよう」   遠慮がちに声をかけられて陽子はとっさに返事をしそうになり、あわててそれをのみこんだ。いつだったか、うっかり返事をして、あとでクラスメイトに皮肉を言われたことがある。   それでもだまったまま気がつかなかったふりをした。くすくすと周囲でしのび笑いがおこる。   笑われたほうは傷ついたようにうつむいたが、物言いたげに陽子に視線をよこすのをやめなかった。それを感じながら、陽子は周囲の会話に相づちをうつ。無視される彼女を哀れに思うけれど、情けをかけて周囲に逆らえば今度は自分が被害者になる。   「あの……中嶋さん」   隣からおずおずとした声が聞こえたが、陽子はこれにも気がつかなかったふりをした。故意に無視する気分はにがい。それでも陽子には、ほかにどうすればいいのかわからなかった。   「中嶋さん」   彼女は|辛抱《しんぼう》づよく何度もくりかえす。そのたびに周囲の声がとぎれ、やがてその場に集まっていた全員が彼女のほうに冷たい視線を向けた。陽子もそれ以上無視することができなくて、上目づかいに自分を見ている相手に目を向ける。視線を向けたが、返答はしなかった。   「あの……数学の予習やってる?」   彼女のおずおずとした声に、陽子の周囲がどっと笑いくずれた。   「……いちおう」   「悪いけど、見せてくれない?」   数学の教師は授業で当てる生徒を前もって指名する。そういえば彼女が今日指名されていたことを陽子は思い出した。   陽子は視線を友人たちに向ける。誰もなにも言わず、同じ色の視線でそれにこたえた。全員が、彼女を拒絶する陽子の言葉を期待しているのだとわかる。陽子はにがいものをのみこんだ。   「まだ、見直しをしたいところがあるから」   |婉曲《えんきょく》な拒絶は観客の気に入らなかったようだった。すぐさま声がかかる。   「中嶋さんって、やさしーい」   ふがいない、と暗に責めている声だ。陽子は無意識のうちに見をすくめた。別の生徒がそれに同意する。   「中嶋さん、ピシャッと言えばいいのに」   「そうそう。あんたなんかに、声をかけられるの、迷惑だって」   「世の中にはハッキリ言わないとわからないバカっているからさぁ」   陽子は返答に困る。周囲の期待を裏切る勇気は持てないけれど、同時にまた、隣の席でうつむいているクラスメイトにあえてひどい言葉を投げつける勇気も持てなかった。それで陽子はただ困ったように|微笑《わら》う。   「……うーん」   「ホントにら中嶋さんって、ひとがいいんだから。だから誰かさんみたいなのに、アテにされるんだって」   「あたし、いちおう委員長だし……」   「当たるのがわかってるのに、やってこないほうが悪いんだって。そんな奴のめんどうまでみることないよぉ」   「そう。──だいいち」   と言った生徒は|酷薄《こくはく》な笑みをうかべた。   「杉本なんかにノートを貸したら、ノートが汚れるじゃない」   「あ、それは困るかも」   「でしょお?」   どっ、と再び全員が笑いくずれる。いっしに笑いながら陽子は視線のすみで隣の席の様子をうかがう。深くうつむいた少女は涙をこぼしはじめた。   ──杉本さんにも、責任はある。   陽子はそう自分に言い聞かせる。誰もが理由もなく被害者を決めるわけではない。被害者になったからには、彼女の中にそれなりの要因があるのだ。   3   ──天もなく地もない闇のなかに、高く高くうつろに水滴の音がする。   陽子はその闇のなかに立っていた。   顔が向いた方向に、薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。その光を背に無数の影が|蠢《うごめ》いている。|異形《いぎょう》の獣の群れが踊りながら駆けてくる。   群れと自分のあいだはもう二百メートルほどしかない。異形のものたちが大きいだけに、それは恐ろしく短い距離に見える。|哄笑《こうしょう》の形に口をあけた大きな猿の、赤い毛並みが光を|弾《はじ》いて、跳躍するたびに盛り上がってはのびる筋肉の動きが見てとれる。もうそれだけの距離しかない。   体を動かすことも声をあげることもできなかった。まなじりが裂けるほど目を見張って、近づいてくる群れを見守っているしかない。   走る。跳躍する。踊るように駆けてくる。吹きつけてくる殺意は突風のように呼吸を詰まらせた。   ──起きなきゃ。   あれがたどりつく前に、夢から覚めなければ。   そう念じても目覚める方法がわからない。意志の力で起きることができるのなら、とっくにそうしている。   なすすべもなく見つめるあいだに、距離はさらに半分に縮まった。   ──起きなきゃ。   歯ぎしりするほどの|焦燥《しょうそう》に襲われる。|身内《みうち》でうずまいて肌を突き破りそうだ。荒い呼吸と速い鼓動と、駆けめぐる血潮が海鳴りに似た音を立てる。   ──どうにかして、ここから逃げなければ。   そう思ったとき、突然頭上に気配を感じた。殺意が陽子を押しつぶす勢いで落下してくる。陽子は夢のなかで初めて身動きをした。頭上をふりあおいだ。   茶色の翼が見えた。同じく茶色のたくましい脚と、おそろしく鋭い太い爪と。   逃げる、という意志さえ念頭に浮かぶ暇がなかった。一瞬、体の中の潮騒が強くなって、陽子はただ悲鳴をあげた。   「中嶋さん!」   陽子はとっさにその場を逃げた。体が逃げることを切望していて、思わずそれに従ってしまった。逃げた後でようやく周囲の様子が目に入る。   あきれた表情の女教師と、同じくあきれた表情の生徒たち。一拍送れて、どっと笑いがわいた。   ほっと息をついてから、陽子はにわかに赤くなった。   眠っていたのだ。このところ夢のせいで寝つきが悪く、眠りも常に浅かった。ずっと寝不足ぎみだったから授業中にトロトロしたことはよくあるが、夢を見たのははじめてだった。   ツカツカと女教師が近づいてきた。どういうわけだが陽子を目のかたきにしている教師だった。よりによって、と陽子は唇をかむ。陽子はおおむね教師にうけがよかったが、いくら従順にふるまっても、この教師とだけはうまくやっていくことができなかった。   「……まったく」   彼女はそう言って英語の教科書で陽子の机を叩く。   「いねむりをする生徒ならいますけどね、寝ぼけるほどゆっくりお休みいただいたのは、はじめてですよ」   陽子はうなだれて席に戻る。   「あなたは、なにをしに学校へ来てるんですか。眠いんだったら家で寝ていればいいでしょう。授業がいやなら、なにもむりに来ていただかなくてもいいんですよ」   「……すみません」   教師は教科書の角で机を叩く。   「それとも、そんなに夜遊びでいそがしいの?」   どっと生徒たちが笑った。てらいもなく笑った生徒のなかには、友達の姿も混じっている。聞こえよがしの笑い声が左隣からも聞こえた。   女教師はかるく、ひとつに編んで背中にたらした陽子の髪を引っ張った。   「これ、生まれつきなんですって?」   「……はい」   「そう? わたしの高校の友達にもいたわね、こういう髪のひとが。なんだか彼女を思い出すわ」   そう言ってから教師は笑う。   「もっとも、その人はあなたと違って脱色してたんだけど。三年のときに補導されて学校を|辞《や》めちゃったの。今ごろどうしてるかしら。なつかしいわ」   教室のあちこちで、しのび笑う声がおこる。   「──それで? 授業をうける気があるの? ないの?」   「……あります」   「そう? じゃ、時間中立ってなさい。そうすれば起きてられるでしょう?」   教師はそう命じてふくみのある笑い方をしてから、教壇に戻った。   立ったまま授業を受けたその時間中、教室の中ではしのび笑いが絶えることがなかった。   陽子はその日の放課後、担任の呼び出しをうけた。どうやら英語の時間の|所業《しょぎょう》が耳に入ったらしい。   職員室に呼び出されて、どういう生活をしているのか長々と問いただされた。   「夜遊びをしてるんだろう、と言う先生もいるしな」   中年の担任はそう言って顔をしかめる。   「どうなんだ? なにか夜ふかしをするような事情でもあるのか」   「……いえ」   まさかあんな夢の話を他人にできない。   「夜遅くまでテレビでも見てるのか」   「いえ、あの……」   陽子はあわてて理由を探す。   「中間テストで成績が落ちたので……」   担任はあっさり納得したようだった。   「ああ、そういやちょっと悪かったな。それでか。──だがな、中嶋」   「はい」   「いくら家で夜遅くまで勉強しても、かんじんの授業を聞いてなきゃ意味がないぞ」   「すみません」   「あやまってもらうようなことじゃないが。中嶋は誤解されやすいんだよ。けっこうその髪の毛が目立つんだよなぁ。それ、なんとかならんか?」   「今日、切ろうと思ってたんです……」   「そうか」   そう言って担任はうなずく。   「女の子だからなぁ。いやだろうけど、そのほうがおまえのためだとおもうぞ。先生は。染めてるだの、遊んでるだのと言う先生もいるしな」   「はい」   担任は陽子に手をふる。   「じゃ、帰っていいから」   「はい。失礼します」   陽子は頭を下げる。そのときだった。背後から声をかけられたのは。   4   「……見つけた」   声といっしょにかすかに海の匂いがした。   担任が不審そうに酔うこの背後を見て、それで陽子もふりかえる。   陽子のうしろには若い男が立っていた。まったく見覚えのない顔だった。   「あなただ」   男はまっすぐ陽子を見て言う。年は二十代後半といったところだろう。ぽかんとするくらい奇妙な男だった。|裾《すそ》の長い着物に似た服を着ている。能面のような顔に髪を|膝裏《ひざうら》に届くほど長く伸ばして、それだけでも|尋常《じんじょう》でなく奇妙だというのに、その髪がとってつけたように薄い金色をしている。   「誰だ、君は」   担任がとがめるように聞く。男はそれを気にしたふうもなく、さらにあぜんとするようなことをやってのけた。陽子の足元に膝をついて、深く頭を下げたのだ。   「……お探し申しあげました」   「中嶋、おまえの知りあいか?」   担任に聞かれ、ぽかんとしていた陽子はあわてて首をふった。   「ちがいます」   あまりに異常な事態に、陽子はもちろん、担任もうまく反応ができないようだった。困惑した気分で見つめていると、男は立ち上がる。   「どうか私とおいでください」   「はぁ……?」   「中嶋、なんなんだ、こいつは」   「わかりません」   聞きたいのは陽子のほうだった。救いを求めて担任を見る。職員室に残っていたほかの教師たちがけげんそうに集まってきていた。   「なんだ、おまえは? 校内は関係者以外は立ち入り禁止だぞ」   担任がやっとそれに思い至ったように強く言うと、男は無表情に教師を見返す。すこしも悪びれたところがなかった。   「あなたには関係がない」   冷たく言って周囲に集まった教師たちを見わたす。   「あなた方もです。さがりなさい」   あまりにも|居丈高《いたけだが》な物言いに誰もがまず驚いている。同じように驚くばかりの陽子を男は見すえた。   「事情なら、おいおい説明いたします。とにかく私とおいでください」   「失礼ですけど」   誰なんですか、と陽子が聞きかけたとき、ふいに間近で声が響いた。   「タイホ」   人を呼ぶ語調の声に男が顔をあげる。この奇妙な男の名前なのかもしれない。   「どうした」   |眉《まゆ》をひそめて男が問い返した方向にはしかし、声の主は見当たらなかった。どこからともなく再び声が響いた。   「追っ手が。つけられていたようです」   能面のような顔が急に|険《けわ》しい表情になった。ただうなずいて陽子の手首をつかむ。   「失礼を。──ここは危険です。こちらへ」   「……危険、って」   「説明をする余裕はありません」   ぴしゃりといわれて陽子は思わず身をすくめる。   「すぐに敵が来ます」   「……敵?」   なんとはなしに不安を感じて問い返したときだった。もう一度近くで声がした。   「タイホ、来ました」   見回したけれど、やはり声の主の姿は見えない。教師たちが何かを言いかけるのと同時だった。   ──裏庭側の窓ガラスが割れたのは。   割れたのは陽子の間近の一枚だった。とっさに目を閉じた陽子の耳に、ガラスの砕ける音に混じって悲鳴じみた叫びが聞こえた。   「なんだ!?」   担任の声に閉じた目を開くと、教師はガラスが割れた窓に駆け寄るようにして外を見回していた。広い川に面した窓からは冷たい風が吹き込んで、冷気といっしょに、なにか|生臭《なまぐさ》い臭気を外から運んできていた。床には破片が散乱している。比較的窓のそばにいたにもかかわらず陽子が破片をかぶらずにすんだのは、奇妙な男が|盾《たて》になってくれたからだった。   「なに……?」   状況がつかめずに問う陽子に、男がいくぶん冷ややかな声を出した。   「だから危険だと申しあげましたのに」   言って、あらためて陽子の腕をつかむ。   「こちらへ」   強い不安を感じた。つかまれた腕をふりほどこうとしたが、男はまったく離すふうがない。それどころかかえって強く引っ張る。たたらを踏んでよろめいた陽子の肩に手をかけた。   引っ張る男を押しとどめたのは、担任だった。   「これは、おまえのしわざか!?」   男は険をふくんだ目で担任を見る。あげた声は冷ややかで|容赦《ようしゃ》がなかった。   「あなたには関係がない。さがっていなさい」   「えらそうに、なんだ、おまえは。うちの生徒になんの用だ? 外に仲間でもいるのか!?」   男に向かって怒鳴ってから陽子をにらむ。   「中嶋、どういうことなんだ!?」   「……わかりません」   聞きたいのは陽子のほうだった。首をふる陽子を男は引っぱる。   「とにかく、ここは」   「いやです」   こういう誤解は恐ろしい。こんな男と仲間だなんて思われたら。身をよじって男の腕をふりほどくと同時に、再びどこか上のほうから声がした。   「タイホ」   緊張した声だった。教師たちが声の|主《ぬし》を探すように周囲を見まわす。男はあきらかに顔をしかめた。   「まったく、|頑迷《がんめい》な」   吐き捨てるように言ってから、男はいきなり膝をついた。反応する間も与えず陽子の足をつかまえる。   「ゴゼンヲハナレズチュウセイヲチカウトセイヤクスル」   早口に言うやいなや、陽子をにらみすえた。   「許す、と」   「なんなの!?」   「命が惜しくないのですか。──許す、とおっしゃい」   語気荒く言われ、けおされて陽子は思わずうなずいていた。   「許す……」   ついで男がとった行動は、陽子を|呆然《ぼうぜん》とさせるのにじゅうぶんだった。   一拍おいて、周囲からあきれたような声があがる。   「おまえら!」   「なにを考えてるんだ!」   陽子はひたすらあぜんとしていた。この見ず知らずの男は頭をたれて、つかまえた陽子の足の甲に額をあてたのだ。   「なにを──」   するの、と言いかけて陽子は言葉をとぎらせた。   たちくらみがした。なにかが自分のなかを駆け抜けていって、それが一瞬、目の前をまっくらにする。   「中嶋! どういうことだ!?」   顔をまっかにした担任が怒声をあげるのと同時だった。   どん、と低い地響きのような音がして、裏庭側に残ったガラスというガラスが白く|濁《にご》った。   5   その一瞬は、まるで大量の水が吹きこんでくるように見えた。   |砕《くだ》け散ったガラスの破片が鋭利な光を|弾《はじ》いて水平に殺到してくる。   とっさに目を閉じ、腕をあげて顔をそむけた。その腕に、顔に体に小さな痛みが吹きつけてくる。すさまじい音がしたはずだが、陽子の耳には届かなかった。   小石のぶつかるような感触が絶えたことを確認して目を開けると、教室はガラスの破片で光を|撒《ま》いたように見えた。集まってきた教師たちがその場にうずくまっている。陽子の足もとには担任が身を伏せていた。   大丈夫ですか、と問いかけて、彼の体には無数の破片が刺さっているのを発見する。教師たちがあげているうめき声がようやく陽子の耳に入った。   陽子はとっさに自分の体を見おろす。担任の脇に立っていたにもかかわらず、陽子の体には傷ひとつなかった。   ただ驚くしかない陽子の足を担任がつかんだ。   「おまえ……なにをしんたんだ」   「あたしは、なにも」   その血だらけの手を引きはがしたのは男だった。   「行きましょう」   この男も無傷だった。   陽子は首を横にふる。ついてけいばほんとうに仲間だと思われてしまう。それでも手を引かれるままつい足を動かしてしまったのは、その場に残るのが恐ろしかったからだった。敵が来る、という言葉には現実感がない。それよりも|怪我人《けがにん》だらけで血の臭いのたちこめた、この場所にとどまっていることが怖かった。   職員室を飛び出したところで駆けつけてきた教師に会った。   「どうした!?」   初老の教師は怒鳴り、陽子の脇にいる男に目をとめて|眉《まゆ》をひそめる。陽子がなにを言うよりも早く、男が手を上げて職員室を示した。   「手当てを。怪我人がいる」   それだけを言って陽子の手を引く。背後で教師がなにかを叫んだが、なんと言ったのかはわからなかった。   「どこへ、行くんですか」   陽子が声をあげたのは、男が階段を下りようとせず上がろうとしたときだった。この場をとにかく逃げ出して家に帰りたかった。そう意図して階下を指さす陽子の腕を、男は上に向かって引く。   「そっちは屋上……」   「いいから、こちらへ。そちらからは人が来る」   「でも」   「我々が行くとかえって迷惑をかける」   「迷惑、って」   「無関係な物をまきこむことをお望みか」   男は屋上へ通じるドアを開く。強く陽子の手を引いた。   無関係な者をまきこむということは、陽子は無関係ではないということなのだろうか。男が言った「敵」とは、いったいなんだろう。聞きたかったが、なんとなく|気後《きおく》れがした。   手を引かれるまま、なかばよろめくようにして屋上へ出たとき、背後から奇声がとどろいた。   |錆《さ》びた金具がたてたような声に、陽子は背後に視線を走らせる。今出てきたばかりのドアの上に影が見えた。   茶色の翼。毒々しい色合いの曲がった|嘴《くちばし》が大きく開かれて、興奮した猫のような奇声をあげている。   両翼の先までが五メートルはあろうかという巨鳥だった。   ──あれは。   からめとられたように身動きができなかった。   ──あれは、夢のなかの。   建物の屋根から、奇声といっしょに濃厚な殺意が降ってくる。夜をむかえはじめた|曇天《どんてん》の空は暗い。大きな|襞《ひだ》をみせる雲に、どこからかもれた夕陽がかすかに赤い光を投げていた。   |鷲《わし》に似たその鳥には|角《つの》があった。首をふり、大きく一度|羽《は》ばたきすると、いやな臭気のする風が圧力をもって吹きつけてきた。夢と同じように、陽子はそれをただ見ていた。   巨鳥の身体が舞いあがる。ごくかるく浮きあがると、宙でもう一度羽ばたきし、そうして急に翼の角度を変えた。   急降下してくる態勢だ、と陽子は|呆然《ぼうぜん》と思った。太い脚が陽子をまっすぐに示している。茶色の羽毛におおわれた脚には、圧倒されるほど太く鋭い|鉤爪《かぎづめ》が見えた。   陽子が立ち直るひまもなく、鳥の身体が落下してくる。悲鳴をあげることさえできなかった。   陽子の目は見開かれたままだったが、なにも見ていなかった。それで肩に鈍い衝撃が当たったときにも、それが自分を引き裂く鉤爪のせいなのだとすんなり納得した。   「ヒョウキ!」   どこからか声が響いて、目の前に暗い赤い色が流れた。   ──血だ……。   そう思ったが、不思議にさほどの痛みは感じなかった。   陽子はようやく目を閉じる。想像していたよりも楽そうだ、と思った。死ぬことはもっと恐ろしいことだと思っていたのだけれど。   「しっかりなさい!」   強い声の主に肩をゆすられて、陽子は我に返った。   男が顔をのぞきこんでいた。背中にコンクリートの感触がして、左の肩にフェンスの堅い感触が食いこんでいる。   「自失している場合ではない!」   陽子は跳ね起きた。立っていたはずの場所から、かなり遠い場所に陽子は転がっている。   奇声が響いて、ドアの前で巨鳥が翼をふっているのが見えた。   羽ばたくたびに圧力のある風が吹く。鉤爪は屋上のコンクリートをえぐっていた。爪が深く床に食いこんで鳥は身動きがとれないようだった。   いらだったように大きく首をふる。その首に赤い獣が喰らいついているのが見えた。暗い赤の毛並みにおおわれた|豹《ひょう》のような獣だった。   「……なに」   陽子は悲鳴をあげた。   「なんなの、あれは!」   「だから危険だと申しあげたのに」   男は陽子を引き起こす。陽子は一瞬だけ男と鳥を見くらべた。   鳥と獣はもつれ合うようにして|競《せ》り合いを続けている。   「カイコ」   男の声に呼ばれたように、コンクリートの床から一人の女が現れた。まるで水面に浮かびあがってくるように羽毛におおわれた女の上半身が現れる。   女は鳥の翼のようなその腕に一本の剣を抱いていた。宝剣、といっていいような優美な|鞘《さや》の剣だった。|柄《つか》は金、鞘にも金の装飾がある。宝石らしい石を散らし、|玉飾《たまかざ》りをつけたその剣はとうてい実用に耐えるようには見えない。   男は女の腕から剣を取りあげる。手にとったそれをまっすぐ陽子に突きつけた。   「……なに」   「あなたのものです。これをお使いなさい」   陽子はとっさに男と剣を見くらべた。   「……あたしが? あなたじゃなくて?」   男は不快げな顔をして剣を陽子の手に押しこんだ。   「私には剣をふるう趣味はない」   「こういう場合、あなたがそれで助けてくれるんじゃないの!?」   「あいにく剣技を知らない」   「そんな!」   手のなかの剣は見かけよりも重い。とうていふりまわせるとは思えなかった。   「あたしだって知らない」   「おとなしく殺されてさしあげるおつもりか」   「いや」   「ではそれをお使いなさい」   陽子の頭のなかは混乱の極致にあった。殺されたくない、という思念だけが強い。   だからといって剣をふりかざして戦う勇気はない。そんな力や技量があるはずがない。剣を使えという声と、使えるはずがないという声と、両極の声が陽子に第三の行動をとらせた。   つまり、剣を投げつけたのだ。   「なにを──おろかな!」   男の声には|驚愕《きょうがく》と怒りとが混じっている。   鳥をめがけて陽子が投げた剣は、目標に届きもしなかった。打ちふるう翼の先をわずかにかすめて巨鳥の足元に落ちる。   「まったく。──ヒョウキ!」   舌打ちするのが聞こえそうな声だった。   男の声に鳥の翼に爪をたてていた暗赤色の獣が離れる。離れざま身をかがめて落ちた剣をくわえると、矢のように陽子のほうへと駆け戻ってくる。   剣をうけとりながら男は獣に問う。   「持ちこたえられるか」   「なんとか」   驚いたことに返答したのは、まぎれもなくヒョウキと呼ばれた暗赤色の獣だった。   頼む、と短く言って男はだまってひかえていた鳥のような女に声をかける。   「カイコ」   女がうなずいたとき、細かな石が飛んできた。   巨鳥が爪を抜いてコンクリートの|飛沫《ひまつ》があがったところだった。   舞いあがろうとする巨鳥に赤い獣が跳びつく。いつの間にか全身を現して宙に舞い上がっていた女がそれに加わった。女の脚は人そのもの、ただし羽毛におおわれて、さらに長い尾がある。   「ハンキョ。ジュウサク」   男に呼ばれて女が現れたのと同じように、二頭の大きな獣が現れた。一方は大型犬に、一方は|狒狒《ひひ》に似ている。   「ハンキョ、ここは任せる。ジュウサク、この方を」   「|御意《ぎょい》」   二頭の獣は頭を下げた。   うなずき返し、男は背を向ける。ためらいのない動きでフェンスに歩み寄ると、するりと姿をかき消した。   「……そんな! 待って!」   叫んだときだった。狒狒に似た獣が腕を伸ばした。   陽子の身体に手をかけ、有無を言わさず抱え込む。陽子はとっさに悲鳴をあげた。それを無視して狒狒は陽子を小脇に抱える。その場を蹴ってフェンスの外に跳躍した。   6   狒狒は屋根から屋上へ、屋上から電柱へ、驚異的な跳躍を繰り返して風のように駆けた。   陽子がその乱暴な運送から開放されたのは街はずれの海岸、港に面した突堤の上だった。   狒狒は抱えた陽子を地面におろし、陽子が息をついているあいだに一言もなく消えうえせた。どこへ消えたのかと周囲を見渡していると、積みあげられた巨大なテトラポッドのあいだからすべり出るようにして宝剣をさげた男の姿が現れた。   「ごぶじか」   聞かれて陽子はうなずく。|眩暈《めまい》がするが、これは狒狒の跳躍に酔ったせい、そうして次々におこる常識はずれのできごとのせいだと自覚していた。   足腰がなえてその場に座りこむ。意味もなく涙がこぼれた。   「お泣きになっている場合ではない」   陽子はいつの間にか|傍ら《かたわ》に膝をついた男を見た。いったいなにがおこったのか。問うように男を見あげたが、男には説明する気がないようだった。   陽子は目を伏せる。男の態度はあまりにもそっけなくて、あえて質問をする勇気が出ない。それで震える手で膝を抱いた。   「……怖かった」   つぶやいた陽子に、男は強い口調で吐き捨てるように言う。   「なにを悠長なことを言っておられる。じきに追ってくる。ゆっくり息を整えている|猶予《ゆうよ》はないのですよ」   「追って……くる?」   驚いて見あげると、男はうなずく。   「あなたがお|斬《き》りにならなかったのだから、しかたない。ヒョウキたちが足止めをしているが、おそらくそんなにはもたないでしょう」   「あの鳥のこと? あの鳥はなんだったの?」   「コチョウ」   「コチョウって?」   男は|軽蔑《けいべつ》したような目つきをした。   「あれのことです」   陽子は身をすくめる。そんな説明ではわからない、という抗議は声にならなかった。   「あなたは、誰なんですか? どうして助けてくれたんですか?」   短く言ったきり、それ以上の説明はない。陽子はかるくためいきをついた。タイホというのが名前ではないの、と聞きたかったが、とうてい聞けるようなムードではなかった。   こんな|得体《えたい》の知れない男の前から逃げ出して家に帰りたかったが、教室に|鞄《かばん》とコートをおいたままだった。とうていひとりで取りに戻る気にはなれないが、かといってこのまま家に帰るわけにもいかない。   「──もうよろしいか?」   とほうにくれた思いでうずくまっていると、唐突にそう聞かれた。   「よろしい、って」   「もう出発してもよろしいか、とお聞きした」   「出発ってどこへ?」   「あちらへ」   あちら、というのがどこなのか、陽子にはまったくわからなかった。ただほぼんやりしている陽子の手を男がつかんだ。腕を引かれて、これで何度目だろう、と思った。   どうしてこの男は満足な説明もなしに、陽子になにかを強制しようとするのだろう。   「……ちょっと待ってください」   「そんなひまはない」   男はいらだった口調で言う。   「じゅうぶんお待ち申しあげた。これ以上の余裕はない」   「それは、どこなんですか? どれくらいの時間がかかるの」   「まっすぐに行けば、片道に一日」   「そんな、困ります」   「なにを」   とがめるように言われて、陽子をうつむく。とりあえずいってみようと思うには、男はあまりにも得体がしれない。   片道に一日というのも陽子にとっては論外の数字だった。両親になんと言って家を|空《あ》ければよいのか。頭の固い両親が、陽子のひとり旅など許すはずがない。   「……困ります」   なんだか泣きたかった。なにひとつ陽子にはわからない。男はなにも説明してはくれない。それなのに、こんなむりな要求を怖い顔でつきつけるのだ。   泣けばまた叱られるだろうから、必死で涙をこらえた。   ひたすら膝を抱いてだまりこんでいると、突然またあの声が響いた。   「タイホ」   男は空を見あげる。   「コチョウか」   「はい」   ぞっ、と陽子の背筋を|悪寒《おかん》が走った。あの鳥が追ってきたのだ。   「……助けてください」   男の腕をつかむと、男は陽子をふりかえる。手にさげた剣を突きつけた。   「命がおしければ、これを」   「でもあたし、こんなの使えません」   「これはあなたにしか使えない」   「あたしには、むりです!」   「ではヒンマンをお貸しする。──ジョウユウ」   呼ばれて地面から男の顔が半分だけ現れた。   岩でできたような、顔色の悪い男で、くぼんだ目が血のように赤い。   するりと地中から抜け出したその首の下には身体がなかった。半透明のゼリー状のものがくらげのようにまといついているだけだ。   「……なに!?」   小さく悲鳴をあげた陽子をよそに、それは地中からすべり出る。まっすぐ陽子に向かって飛んできた。   「いや!」   逃げようとした陽子の腕をケイキがつかむ。   逃げ出すに逃げ出せない陽子の首のうしろに、ごとんと重いものが乗った。あの首が乗ったのだとわかった。冷たいぶよぶよとしたものが制服の|衿《えり》の中へもぐりこんでくるのを感じて、陽子は悲鳴をあげた。   「いや! とって!」   つかまれていない片腕をめちゃくちゃにふって、背中のものを払い落とそうとするとケイキがその腕までもつかむ。   「やめて! いや!!」   「聞き分けのない。おちつかれよ」   「いや! いやだってば!!」   冷えた|糊《のり》のようなものが背中から腕を|這《は》う。同時に首のうしろに強くなにかが押しつけられるのを感じて、陽子はひたすら悲鳴をあげた。   膝が崩れて座りこみ、がむしゃらに男の腕をふりほどこうと身をよじって、腕が自由になるや、勢いあまってその場に転ぶ。なかばパニックをおこしながら両手で首のうしろを払ったときには、もうなんの手ごたえもなかった。   「なに? なんなの!?」   「ジョウユウが|憑依《ひょうい》しただけです」   「憑依って」   陽子は身体中を両手でこする。身体のどこにも、あのいやな感触はない。   「剣の使い方はジョウユウが知っている。これをお使いなさい」   そう冷淡に言って男は剣をさしだす。   「コチョウは速い。あれだけでも斬っていただかねば、追いつかれる」   「あれ……だけ?」   だけ、ということはほかにも追ってくるものがあるということだろうか。あの夢のなかの光景のように。   「あたし……できない。それより、さっきのジョウユウとかヒンマンとかいうばけものは、どこへ行ったの」   男は答えずに空を見あげる。   「来た」   7   陽子がふりかえるより先に、背後から奇声が聞こえた。   声のほうを見あげる陽子の手のなかに、剣が押しこまれる。それにはかまわず陽子はふりかえる。背後の上空に翼を広げた巨鳥の姿が降下してくるのが見えた。   悲鳴をあげた。逃げられない、ととっさに思った。   逃げるよりも落下してくる鳥のほうが速い。剣なんて使えない。あんな、ばけものに|対峙《たいじ》する勇気なんてない。身を守る方法がない。   太い脚の|鉤爪《かぎづめ》が視野いっぱいに広がった。目を閉じたかったが、できなかった。   目の前を白い光が走って、堅い激しい音がした。岩と岩とを打ちつけたような音をたてて、|斧《おの》のように重量感のある鉤爪が顔のすぐ前で止まった。   とめたのは剣、剣を|鞘《さや》からなかばまで引き抜いて目の前にかかげたのは、ほかでもない自分の両腕だった。   なに? と自問するひまもなかった。   陽子の腕が残りの刀身を引き抜いて、抜きざまコチョウの脚を払う。   赤い血が散って、生暖かな温度をともなって陽子の顔に噴きつけた。   陽子は|呆然《ぼうぜん》としているしかなかった。   断じて剣を使っているのは陽子ではない。手足が勝手に動いて、|狼狽《ろうばい》したように浮上するコチョウの片脚を|斬《き》って落とす。   また鮮血が|飛沫《しぶ》いて顔を汚した。ぬるいものが|顎《あご》から首をつたって、衿のなかに入ってくる。その感触に陽子は震えた。   陽子の足は|血飛沫《ちしぶき》をかわすようにその場をさがった。   宙へ逃げ出した巨鳥は、すぐさま態勢を立て直して突っ込んできた。   その翼に斬りつけながら、陽子は自分の体が動くたび、動きにしたがって冷えたぞろぞろとする感触が身体をつたうのを感じる。   ──あれだ。あの、ジョウユウとかいうばけもの。   翼を傷つけられた巨鳥が、奇声をあげながら地に突っ込む。   それを視野にとらえながら、陽子は|悟《さと》る。   あのジョウユウとかいうばけものが自分の手足を動かしているのだ。   |身悶《みもだ》えするように羽ばたいた巨鳥は、地を巨大な両翼で叩くようにして陽子に向かってきた。   陽子の身体はよどみなく動いて、身をかわしざま、その胴を深く斬って捨てる。   生暖かい|血糊《ちのり》を頭からかぶって、手には肉と骨を断つおぞけのするような感触が残った。   「いや」   口は陽子の意思によってつぶやいたが、身体は動きをやめなかった。   血糊が身体をつたうのもかまわず、地面に落ちてあがくコチョウの翼に深く剣を突き立てる。刺し貫いた剣をそのまま引いて大きな翼を斬り裂いた。   そのまま陽子の身体はきびすを返して、奇声をあげ血泡を噴いてのたうつ首に向かった。   「いや。……やめて」   巨鳥は転がるようにして傷ついた翼を大きく打ちふるっていたが、翼はもはやその体重を浮上させることができなかった。   陽子の腕は、音をたてて宙を|扇《あお》ぐ翼を避けて胴を刺し貫いた。とっさに目をそむけたが、ぶよぶよとした抵抗を斬り裂く感触が手に残る。   その剣を抜きざま振り上げ、|躊躇《ちゅうちょ》なくその首にふりおろした。首の骨に当たって剣が止まる。   あらためて|粘《ねば》る血肉から引き抜いてふりあげ、赤く染まった首を今度は完全に|斬《き》り落とし、そのまだ|痙攣《けいれん》している翼で剣をぬぐったところで手足の勝手な動きが止まった。   陽子は悲鳴をあげて、やっと剣を投げ捨てた。   突堤の端から身を乗り出して陽子は吐いた。   泣きじゃくりながら海中投げこまれたテトラポッドをつたって水のなかに飛びこむ。今は二月もなかばで、海の水は身を切るほど冷たいことは、まったく念頭に浮かばなかった。とにかく、頭からかぶった血糊を洗い落としてしまいたかった。   無我夢中で水をかぶって、それでようやく落ちつくと、水のなかから|這《は》いのぼることさえできないほど震えた。   のろのろと這いのぼって突堤に戻り、そこであらためて声をあげて泣いた。恐怖と|嫌悪《けんお》で泣かずにはおれなかった。   声が|嗄《か》れるほど泣いて、泣く気力さえつきたころにようやくケイキが声をかけてきた。   「もう、よろしいか」   「……なに……」   ぼんやりと顔をあげると、ケイキの表情にはなんの色もない。   「これが追っ手のすべてではありません。じきに次の追っ手が来る」   「……それで?」   神経のどこかが|麻痺《まひ》したようだった。追っ手という言葉に恐怖を感じず、男をまっこうからにらむことにも|気後《きおく》れを感じなかった。   「追っ手は手ごわい。お守り申しあげるには、私ときていただくほかはありません」   陽子はそっけなく返した。   「いや」   「分別のないことをおっしゃる」   「もうたくさん。あたし、家に帰る」   「家に帰ったからといって、決して安全ではない」   「もういいの、どうだって。寒いから家に帰る。……ばけものを取ってよ」   男は陽子を見すえた。その目を陽子も淡々と見返す。   「あたしの身体に張りついてるんでしょ。ジョウユウとかいうばけものを取って」   「それは当面、あなたに必要なものだ」   「必要ない。あたし、家に帰るから」   「どこまでおろかな方か!」   怒鳴られて、陽子は目を見開く。   「死んでいただいては困る。否とおっしゃるなら、むりにでもおいでいただきます」   「勝手なことばかり言わないで!」   陽子は叫んだ。他人を怒鳴りつけたのは記憶にある限り、生まれてはじめてのことだったが、いったん叫んでしまうと、身内には奇妙な|高揚感《こうようかん》があった。   「あたしがなにをしたっていうのよ! あたしは、家に帰るの。こんなことに巻き込まれるのはもういや。どこへも行かない。家に帰る」   突きつけられた剣を、陽子は乱暴に手で払いのけた。   「あたしは、家に帰りたいの! あなたに指図なんかさせない!」   「危険だと申しあげているのがおわかりにならないか!」   陽子は薄く笑ってみせる。   「危険でもいい。あなたには関係ないでしょ」   「関係なくはない」   男は低く吐き捨てて、陽子の背後に目線でうなずく。まえぶれもなく背後から二本の白い腕が伸びて、陽子の腕をつかんだ。   「なにをするのよ!?」   ふりかえると、最初に剣を持って現れた鳥のような女だった。女は陽子の腕をつかんで無理やり剣を抱かせる。そのまま|羽交《はがい》いじめにするようにして抱きかかえた。   「放して!」   「あなたは私の|主《あるじ》です」   言われて陽子はケイキを見あげる。   「主?」   「主命とあれば、どのようなことでもお聞きするが、あなたの命がかかっている。今はお許しいただきます。まずはお身の安全を|図《はか》り、事情をお聞きいただいて、その上でお帰りになりたいとおっしゃるのなら必ずお送り申しあげます」   「あたしがいつあなたの主人になったの? 勝手にやってきて、なんの説明もなしに勝手なことばかり。ふざけないでよ!」   「説明申しあげる猶予はありません」   言ってケイキは、底冷えのする視線を陽子に向ける。   「私としてもこんな主人は願い下げだが、こればかりは私の意のままにならない。主人を見捨てることは許されない。ましてや無関係な人々をまきこむことは絶対に避けねば。否というなら力ずくでもおいでいただく。──カイコ。そのままお連れせよ」   「いや! 放して!」   ケイキは陽子をふりかえらない。   「ハンキョ」   呼ばれて赤い毛並みの獣が物陰から現れる。   「離れて飛べ。血の臭いが移る」   次いでヒョウキ、と呼ばれて巨大な|豹《ひょう》に似た獣が姿を現した。女は陽子を羽交いじめにしたままその背を|跨《また》ぎ越す。   ふうわりと、同じようにハンキョに|跨《またが》った男に陽子は訴えた。   「冗談じゃないわよ! 家に帰して! せめてあの、ばけものを取って!!」   「別に邪魔になるわけではないでしょう。ジョウユウが|憑《つ》いていたからといって、なにかを感じるわけではないはずだ」   「それでも気味が悪いの! 取りなさいよ!」   ジョウユウ、と陽子のほうをふり向いて男は命じる。   「決して姿を現さず、ないものとしてふるまえ」   これに対して返答はなかった。   ケイキがうなずくと、陽子を乗せた獣が立ちあがった。とっさに自分を抱えた女の腕にしがみつくと同時に、獣は音もなく跳躍する。   「……いやだってば!」   陽子の叫びを無視して獣は抵抗なく宙へ向かって駆けあがった。   まるでゆるやかに宙を泳ぐようにして高度を増す。地面が眼下を遠ざかっていかなければ、動いていないのかと錯覚するほど獣の動きは穏やかだった。   獣は宙を駆ける。夢のように地上は遠ざかって、日暮れた街の姿をあらわにした。   8   天には|凍《こご》えた満天の星。地には都市の輪郭を作る一面の星。   獣は海上に踊り出た。   宙を泳ぐように|翔《かけ》て、それでいながらあきれるほど速い。どういうわけか風を切る感触はしないので、さほどでもない気がするが、背後の夜景が遠ざかるスピードを見れば尋常でない速度なのがわかる。   なにを叫んで訴えても、こたえてくれる者はいなかった。ついには哀願さえしたが、返答はない。   暗い海上のこと、高さを暗示するものは見えないので高度に対する恐怖は薄いが、行方に対する恐怖がある。   獣はまっすぐに沖へ向かった。ケイキを乗せたもう一頭の獣の姿は近くには見えない。ケイキの言葉どおり離れているのだろう。   そろそろと背筋を投げやりな気分が這いあがってきて、陽子はようやく叫ぶことをやめた。あきらめてしまえば、思い出したように四肢を動かして宙を駆ける獣の背は心地よかった。背後から回された女の腕が冷えた身体に温かい。   陽子はためらい、そうしてようやく背後の女に聞いてみる。   「あの……追ってきてる?」   半身をひねるようにして聞くと、女はうなずいた。   「はい。追っ手の妖魔が多数」   女の声は耳にまろく優しかった。それに陽子は|安堵《あんど》する。   「あなたたちは……何者?」   「我々はタイホの|僕《しもべ》です。──どうぞ、前を。お落としすると叱られます」   「……うん」   陽子はしぶしぶ前を向く。   視界に映るのは暗い海と暗い空、薄く光る星と波、天高く凍えた月、それでぜんぶだった。   「しっかり剣をお持ちになって。決してお身体からお離しになりませんよう」   その声に陽子は|怯《おび》えた。またさっきのような吐き気のする戦いをしなければならないのだろうか。   「……敵が来そう?」   「居ってきてはおりますが、ヒョウキのほうが速い。心配はございません」   「……じゃあ?」   「万が一にも剣や|鞘《さや》をなくされませんよう」   「剣と、鞘?」   「その剣は鞘と離してはなりません。鞘についております|珠《たま》は、あなたさまのお身を守ります」   陽子は腕のなかの剣を見た。鞘には飾り|紐《ひも》のようなものがついていて、その先にピンポン玉大の青い石がついている。   「これ?」   「はい。お寒いのでしたら、珠を握ってごらんなさいませ」   言われるままに手のなかに握りこんでみると、|掌《てのひら》からじんわりと暖気がしみてくる。   「……暖かい」   「怪我や病気、疲労にも役に立ちます。剣も珠も秘蔵の|宝重《ほうちょう》。決してなくされませんよう」   うなずいて、次の質問を考えようとしたとき、急に獣の高度が下がった。   まっくらな海に白く月が影を映している。波の上に縫いとめられたその影が、勢いを増して近づいていた。海上がその勢いに押されたように泡立つ。   さらに下降すれば、海面は|沸騰《ふっとう》したように水柱をあげて荒れているのがわかった。   獣はその荒れる海の上に輝く、光の円の中へ飛び込もうとしている。それを感じて陽子は悲鳴をあげた。   「あたし、泳げない!」   白い腕にしがみつくと、女はやんわりと腕に力をこめる。   「大事ございません」   「でも!」   それ以上を言うひまはなかった。海面が前に|塞《ふさ》がって、陽子は悲鳴をあげた。   光の中に飛び込んだ瞬間、叩きつけられる衝撃を覚悟したが、そんなものはまったくなかった。   逆巻いた波の|飛沫《しぶき》も、水の冷たさも感じない。ただ光の中にとけこむように、閉じた|瞼《まぶた》の下に白銀の光がさしこんできただけだった。   ごく薄い布で顔をなでる感触がして目を開けると、そこは光のトンネルだった。少なくとも陽子には、そのように見えた。音もなく風もない。たださえざえとした光だけが満ちている。   頭から飛び込んできた足元では、月の形に白い光が闇を切りとっていた。その表面が大きく波立っているのが見て取れる。   「なに……これ」   もぐるように進む頭上には、足元と同じように丸い光が見える。   頭上にある光の円盤が、足元に白く光を投げかけているのか、それとも逆に、足元にある円盤が頭上に光を投げているのだろうか。いずれにしてもそれが出口だとしたら、このトンネルはひどく短い。   |煌煌《こうこう》とした光の中をあっという間に駆け抜けて、陽子を乗せた獣は丸い光の中に飛び込んだ。再び薄い布で体をなでたような感触があって、そうして踊り出たそこは、海の上だった。   突然に耳に音が戻る。鈍い光を|弾《はじ》く海面、目をあげるとそれが見わたす限り続いている。入ったときと同じように、まっくらな海上の月の影から陽子たちは|滑《すべ》り出ていたのだ。   海面の、はるか向こうはわからない。ただ暗い海ばかりが、月の光を浴びてどこまでも広がっているように見えた。   月の影から出ると同時に獣を中心に大きな波が同心円を描いて広がりはじめる。海面はみるみるうちに泡立って、嵐のように荒れ狂う波を打ちあげはじめた。   波頭の飛沫がちぎれていく様子を見れば、恐ろしいほどの風が吹いているのがわかる。ずっと無風に近かった獣のまわりでも、ゆるやかな風が逆巻きはじめ、頭上には雲が流れはじめた。   獣は高度を増して宙を駆ける。荒れた海の上に縫いとめられた月の影が、月の影そのものにしか見えなくなるほど遠ざかってから、ふいに女が声をあげた。   「ヒョウキ」   |堅《かた》い声に陽子は女をふりかえり、そうして彼女の視線を追って背後を見た。夜の海の上、白い月の影から無数の黒い影が踊り出てくるのが見えた。   光を宿したのは天頂の月とその影だけ、それもかき消すように雲におおわれ、やがて完全な闇が訪れた。──まさしく、漆黒の闇。   天も地もない闇のなかに薄く|紅蓮《ぐれん》のあかりが見える。月の影が落ちていた方角だった。その薄いあかりは、炎でも燃えさかっているように形を変え、踊る。   その光を背に無数の影が見えた。異形の獣の群れだった。   こちらはほんとうに躍りながら、あかりのほうからこちらへむけと駆けてくる。猿がいて|鼠《ねずみ》がいて鳥がいる。赤い獣と黒い獣と赤い獣と。   陽子は呆然とした。   「あれは……」   あれは。この風景は──。   陽子は悲鳴をあげた。   「やだ! 逃げてーっ」   女の手があやすように陽子をゆすった。   「そうしております。どうぞご安じくださいまし」   「いや!」   女は陽子の身体を伏せさせる。   「しっかりヒョウキにつかまって」   「あなたは?」   「すこしでも連中の足を止めにまいります。しっかりヒョウキにしがみついて、なによりも決して剣をお放しになりませんよう」   陽子がうなずくのを見て、女は腕を放した。   そのまま漆黒の宙を蹴って背後に向かって駆けてゆく。金茶の|縞《しま》がある背が、あっという|間《ま》にのまれていった。   陽子の周囲にはすでに闇よりほかになにひとつ見えない。風が巻いて、陽子を揺さぶり始めた。   「ヒ……ヒョウキ、さん」   陽子はしっかり背に伏せたまま声をかけた。   「なにか」   「逃げられそう?」   「さて。どうですか」   ごく緊張感のない声が答えてから、   「上! ご注意を!」   「え?」   ふり|仰《あか》いだ陽子の目に、赤いほのかな光が映った。   「ゴユウが」   しがみついた腕の下の獣が、言うやいなや体をかわして宙を横に跳んだ。その脇を恐ろしい勢いでなにかが墜落していく。   「なに? どうしたの!?」   ヒョウキは宙を左右に跳びながら急激に高度を下げていく。   「剣を。──伏兵が。はさまれました」   「そんな!」   叫んだ陽子の目の前の闇に、うっすらと赤い光がともった。その光を背に黒いなにかの影が見える。踊るようにして近づいてくる、なにかの群れ。   「いや! 逃げてーっ!!」   剣をつかうのはいやだ、そう思った瞬間、そろりと足を冷たいものがなでた感触がした。   獣に|跨《またが》った陽子の両膝が音がするほど強くヒョウキの体を挟む。背筋を冷たいものが|這《は》って、陽子の上体をむりにもヒョウキの背から引きはがして起こさせる。   腕が勝手に戦闘の準備を始める。両手をヒョウキから放し、剣を|鞘《さや》から抜き放つと鞘だけを背中へ、スカートのベルトにはさみこんだ。   「……いや。やめて!」   右手は剣を構える。左手がヒョウキの毛並みを|毟《むし》るようにしてつかむ。   「お願い、やめて!!」   近づいてくる群れと、近づいていくヒョウキと、双方が疾風のように突進して交わった。   ヒョウキは異形の群れのなかに躍りこむ。当然のように殺到する巨大な獣を、陽子の手が|斬《き》り捨てた。   「いや!」   陽子は目を閉じた。叫ぶことと目を閉じることだけが陽子の意のままになる。   生き物を殺したことなどない。理科の解剖でさえ直視することができなかった。そんな自分に|殺生《せっしょう》を要求しないで欲しい。   剣の動きが止まった。ヒョウキの声が響く。   「目を閉じるな! それではジョウユウが動けない!!」   「いやっ!!」   がく、と首がのけぞるほどの勢いで獣が横に跳躍する。   前後に左右に去りまわされながら、陽子は堅く目を閉じていた。殺し合いなどみたくない。目をつむることで剣が止まるなら、断じて目など開けるものか。   ヒョウキが強く左に跳ぶ。   突然に、壁にでも突き当たったような衝撃を感じた。ちょうど犬があげる悲鳴のような短い声を聞いて、陽子はとっさに目を開ける。瞳が深い漆黒だけをとらえた。   なにがおこったのか考える間もなく、ヒョウキの体が大きく傾き、両膝の間から毛並みの感触が消えうせた。   悲鳴をあげる余裕もなかった。陽子は宙に投げ出されていた。   驚いて見開いた目に、突進してくる|猪《いのしし》に似た獣が見えて、右手に肉を|斬《き》った重い衝撃を感じた。陽子の耳に刺さったのは獣の|咆哮《ほうこう》と、自分の悲鳴。   それを最後に五感までもが闇のなかに墜落していった。   二章   1   荒れた波が打ち寄せる砂浜だった。   ふと気がつくと、陽子は波打ち際に倒れていた。   陽子が倒れた場所から波が砂を濡らしいている場所まではすこしだけ距離があったが、水の打ち寄せる勢いが激しい。しぶきが陽子の顔にかかって、それで目を覚ましたのだと分かった。   陽子は顔をあげる。ひときわ大きな波が押し寄せてきて、砂の上を|這《は》った水が倒れた陽子の爪先を濡らした。不思議に冷たい気はしなかったので、陽子はそのままそこに横たわっている。爪先を波が洗うにまかせた。   濃く潮の匂いがする。潮の臭いは、血の臭いに似ている、と陽子はぼんやりそう思った。ひとのむ体の中には海水が流れている。だから、耳を澄ますと身内から|潮騒《しおさい》の音がする。そんな、気がする。   また大きな波が打ち寄せてきて、陽子の膝のあたりまで水が押し寄せてきた。波にさらわれた砂が膝をくすぐる。濃厚な潮の匂いがした。   ぼんやりと足元をながめていた陽子は、引いていく水に赤い色が混じっているのに気づいた。ふと目線を沖へ向ける。そこには灰色の海と灰色の空が広がるばかり、赤い色はどこにもない。   また波が打ち寄せてきた。引いてく水がやはり赤い。色の出どころを探して、陽子は目を見開いた。   「……あ」   赤い色の出どころは自分の足だった。波が洗う爪先から、すねから、赤い色が溶け出している。   あわてて両手をついて体を起こした。よくよく見てみると手も足も真っ赤で、制服までが赤黒い色に変色してしまっている。   陽子は小さく悲鳴をあげた。   ──血だ。   全身が、浴びた返り血で真っ赤に染まっている。両手はほとんど黒く見えるほど赤くて、かるく手をにぎってみると恐ろしく粘った。そっと触れると、顔も髪も同じように粘つくものでおおわれている。   陽子の悲鳴に合わせたように、またひときわ高い波が打ち寄せてきた。   今度は身を起こした陽子の周りを波が洗っていく。打ち寄せる水は|濁《にご》った灰色で、引いていく水は赤い色を溶かしこんでいた。   その水をすくって、陽子は両手を洗う。指の間からしたたる水は、血液そのものの色をしていた。   波が打ち寄せるたびに水をすくって手を洗った。洗っても洗っても、両手白い色をとりもどさなかった。いつの|間《ま》にか水は、座り込んだ陽子の腰のあたりに達している。腰の周りから赤い色がにじみ出て、周囲の水面は赤く染まっていた。しかもその赤は徐々に大きく広がっている。灰色ばかりの風景の中で、赤い色が|鮮《あざ》やかだった。 ふと陽子は、自分の手に変化が起こったのをみつけた。赤い手を目の前にかざす。爪が伸びていた。   とがった鋭利な爪が、指の第一関節ほども長く伸びている。   「……どうして」   しみじみと見つめて、さらに変化を|悟《さと》る。手の甲に無数のひび割れができていた。   「なに……?」   ぱら、とちいさな赤い破片が落ちた。風に流されて沖へ飛んでいく。   小さな破片がはがれた、その下から現れたのは、ひとつまみの赤い毛だった。ごく短い毛が小さな面積にびっしりと|生《は》えている。   「まさか……」   かるく手をこする。ぱらぱらと破片が落ちて、さらに赤い毛並みが現れる。身動きするたびに足からも顔からも破片が落ちて、かわりに赤い毛並みが現れてゆく。   荒い波に現れて、制服が|朽《く》ちたようにちぎれていった。その下から現れたのも、やはり赤い毛並みだった。水がさらにその毛並みを洗う。赤い色を溶かし出して、すでに周囲は見わたすかぎり赤い色に染まっている。   凶器のような爪。赤い毛並み。──まるで獣に変化していこうとしているように。   「──うそ!」   叫んだ声はひび割れた。   ──ばかな。どうして、こんな。   制服がちぎれ落ちたあとに現れた腕は、奇妙な形にねじれている。それは犬か猫の|前肢《まえあし》のように見えた。   ──返り血。   ──きっと、返り血のせいだ。   ばけものの返り血が、身体を変えていこうとしている。   ──ばけものに、なる。   (そんな、ばかな)   ──いやだ。   「いや──っ!!」   叫んだ言葉は聞こえなかった。   陽子の耳は荒れる海の波の音と、一匹の獣の|咆哮《ほうこう》だけを聞いた。   ──陽子が目を開けると、|青白《あおじろ》い闇のなかにいた。   息をしたとたん、全身が痛んだ。特に胸の痛みがひどい。   とっさに両手を顔の前にかざして、陽子はかるく息をついた。そこには爪も、赤い毛並みも見えなかった。   「………………」   声にならない|安堵《あんど》のため息をつく。なにが自分におこったのか原因を思い出そうとして、はたと記憶がよみがえった。あわてて体を起こそうとしたが、身体が硬直したように|強《こわ》ばって動かない。   ゆっくりと何度か息をして、それからそろそろと身を起こした。深い息をくりかえすあいだに、痛みはゆるやかに引いていく。半身をおこした陽子の身体からパラパラと松の葉がこぼれ落ちた。   ──松。   確かに松葉のようだった。周囲を見わたすと松林、頭上を見あげると折れた枝の断面が白い。そこから墜落してきたのだろうとわかった。   右手はしっかり今もなお、剣の|柄《つか》をにぎりしめていた。よくも放さなかったものだと思い、ついで自分の身体をあらためて、よくも|怪我《けが》をせずにすんだものだと思う。細かいかすり傷は無数にあったが、怪我と呼べるほどの傷は見当たらなかった。ついでに、なんの変化もない。   陽子はそろそろと背中を探る。スカートのベルトにはさまれて失いもせずにすんだ|鞘《さや》を引き出すと、それに剣を収めた。   白い|靄《もや》が薄く流れている。夜明け前の空気が漂っていた。波の音が響いている。   「それであんな夢をみたんだ……」   気味の悪い返り血の感触と、バケモノと戦わされた経験、そうして、波の音。   「……最低」   つぶやいて、陽子は周囲を見わたした。   あたりは浜辺によくある松林に見える。海の近く、夜明け前。そして自分は死にもせず身動きできぬほどの怪我も受けていない。──それが陽子の得た情報のすべてだった。   林にはなんの気配もなかった。おそらく敵も近くにはいない。そうして──味方も近くにはいない。   海面に映った月の影からすべり出たとき、月は高いところにあった。今は夜明け。それほどの時間、自分がひとりで放っておかれたからには、ケイキたちとはぐれたのにちがいない。   ──|迷子《まいご》になったときは動かないこと。   陽子は小さく口の中でひとりごちた。   きっとケイキたちが探してくれるだろう。あんなにえらそうに守ると言っていたのだから。軽はずみに動けば、かえってすれちがってしまうおそれがある。   そう考えて身体を近くの|幹《みき》にもたせかけると、さやにむすびつけられた|珠《たま》をにぎってみる。あちこちの痛みがそれでゆっくりと引いていった。   不思議だと、そう思う。   あらためて珠を見ても、ただの石にしか見えない。ガラスっぽい光沢の、とろりとした青をしていた。青い|翡翠《ひすい》があるとすれば、こんなものかもしれない。   そんなことを考えてから、|堅《かた》く珠をにぎりなおす。じっとそこに座ったまま目を閉じていた。   目を閉じているあいだにほんのすこしだけ眠ったのだろう、次に陽子が目を開けると、あたりには薄い光が満ちて、風景は早朝の色をしていた。   「遅い……」   彼らはなにをしているのだろう。どうして自分をこんなに長時間放っておくのだろう。ケイキは、カイコは、ヒョウキは。   陽子は迷ったすえに口に出してみる。   「……ジョウユウ、さん」   まだ自分の身体にとり|憑《つ》いているはずだ。そう思って声をかけたが、返答はなかった。自分の体をあらためてみても、そこにジョウユウのいる感触はない。もともと剣をふるうときでなければ、いるのかいないのかわからない相手だから、はぐれたのかどうかわからなかった。   「いるの? ケイキさんたちはどうしたの?」   何度聞いてみても、なんの応答も気配もない。   不安が頭をもたげた。ひょっとしたらケイキたちは、陽子を探したくても探せないのではないだろうか。墜落する直前に聞いた悲鳴がよみがえった。敵の群れのなかに残してしまったヒョウキはぶじなのだろうか。   不安に押されて立ちあがった。ギシギシ悲鳴をあげる身体をなだめて立ちあがり、あたりを見わたす。周囲は松の林、すぐに右手に林の切れ目が見える。とりあえずそこまで行くのは危険なことではないだろう。   林の外はボコボコとした荒地だった。白茶けた土に低い|潅木《かんぼく》がしがみついている。   その先は|断崖《だんがい》だった。断崖の向こうは黒い海が見える。昨夜見た海も黒かったが、夜のせいだと思っていた。夜が開けた今になってもあんなに暗いのは、海の色じたいが相当に深いからなのだろう。   陽子は引きよせられるように崖へ向かって歩いた。   デパートの屋上から見おろしたほども崖の高さはある。そこから海を見て、しばらく陽子は|呆然《ぼうぜん》としていた。   高さのせいではない。足元に広がる海の異様さに打たれて。   海は限りなく黒に近い|紺《こん》に見えた。水面に下っていく崖の線をたどってみると、水に色がついてるわけではない。むしろ恐ろしく澄んでいる。   それは想像を絶するほどふかい海の、深海にわだかまる闇が透明な水のせいであらわになったような印象を与えた。光が届かないほど深い底を見おろしている、という感覚。   そのふかい海の、深いところに小さな光がともっている。それがなんなのかわからないが、砂粒ほどに見える光が点々とともり、あるいは集まって薄い光の集団を作っている。   ──星のように。   |目暈《めまい》がして陽子は崖に座り込んだ。   それはまさしく宇宙の景観だった。写真で見た星や星団や星雲や、そういったものが自分の足元に広がっている。   ──ここは知らない場所だ。   突然にわきあがってきた思考。直視しないようにしてきたものが噴き出してきて止められない。   ここは陽子の知る世界ではない。こんな海を陽子は知らない。まさしく陽子は別世界に紛れこんでしまったのだ。   ──いやだ。   「うそでしょう……」   ここはどこで、どういうところなのか。危険なのか安全なのか。これからいったいどうすればいいのか。   どうしてこんなことになってしまったのか。   「……ジョウユウ、さん」   陽子は目を閉じて声をあげる。   「ジョウユウ! お願い、返事をして!」   身体の中には潮騒のような音だけ。|憑依《ひょうい》したはずの者からは返答がない。   「いないの!? 誰か、助けてよ!!」   一晩がすでにたった。家では母親がさぞ心配しているだろう。父親は今ごろひどく怒っているにちがいない。   「……帰る」   つぶやくと涙がこぼれた。   「あたし、家に帰る……っ」   いったん、あふれ始めると止まらなかった。陽子は|膝《ひざ》を抱いて顔を伏せる。声をあげて泣き始めた。   額が熱を持つほど泣いてから、ようやく陽子は顔をあげた。泣きたいだけ泣いて、すこしだけ落ちついた。   ゆっくりと目を開けてみる。目の前には宇宙のように見える海が広がっている。   「……不思議」   星空を見おろしている気分がした。満天の星空。水の中で星雲はゆるやかに回転している。   「不思議できれい……」   ようやく落ちついた自分を自覚した。   陽子はぼんやりと水の中の星を見つめていた。   2   太陽が天頂を越えるまで、陽子はそこで海を見ていた。   ここはいったいどういう世界で、どんな場所なのだろう。   こちらに来るのには月の影を通ってきたが、あれじたいがそもそもおかしい。月の影をつかまえるなど、夕陽をつかまえるのと同様にできるはずのないことだ。   ケイキと、その周りにいた不可解な獣たち。陽子の世界にあんな獣はいない。まちがいなく、あれはこちらの生き物だろう。──そこまでは理解できるのだけど。   ケイキはいったい、なにを思って陽子をここへ連れてきたのか。危険だといい、守ると言ったが、陽子はこうして放置されている。   ケイキたちはどうしたのか。あの敵はいったい何者で、なにを目的に陽子を襲ったのだろう。それがぜんぶ夢にそっくりだったのはどういうわけなのだろう。──そもそも陽子はなぜひと月もあんな夢を見つづけたのか。   考えはじめるとわからないことばかりで、思考が迷子になりそうだった。ケイキに出会ってからというもの、なにもかもが疑問符でできていて、陽子に理解できることのほうが少ない。   ケイキがうらめしくてならなかった。   突然現れて陽子の事情にはかまわず、得体の知れない世界に無理やり引きずり込んだ。ケイキにさえ会わなければ、こんなところに来ることもなかったし、バケモノとはいえ生き物を殺すような事態にだってならなかったはずだ。   だからなつかしいとは思えないが、ケイキ以外に頼るものがない。なのにケイキたちは陽子を迎えに来ない。あの戦闘でなにかがおこって迎えに来たくても来れないのか、それともなにか事情があるのか。   それでいっそう自分のおかれた状況が困難なものに思えた。   ──どうして自分がこんな思いをしなければならないのだろう。   陽子はなにをしたわけでもない。ぜんぶケイキのせいだ。そう考えると、バケモノに襲われたのまでケイキのせいのような気がする。   職員室で聞いた声は「つけられていた」と言わなかったか。ケイキは「敵」と言っていたが、それは陽子の敵という意味ではないはずだ。陽子にはバケモノに敵を作る心当たりなどない。   陽子はケイキの|主《あるじ》だという。それがそもそもの原因だという気がした。陽子がケイキの主だから、ケイキの敵に|狙《ねら》われた。その敵から身を守るために剣を使わなければならなかったし、こんなところに来なければならなかった。   しかし、主になった覚えなど、陽子にはないのだ。   主と呼ばれるいわれがあるとは思えなかった。だとしたら、ケイキの誤解か、勝手な思いこみだろう。   ケイキは「探した」と言っていた。きっと彼は主を探していて、なにか重大な間違いを犯してしまったのだ。   「なにが、守る、よ」   陽子は小声で毒づく。   「ぜんぶ、あんたのせいじゃない」   短かった影が伸び始めて、ようやく陽子は腰をあげた。ここにずっと座ってケイキに毒づいていても、どうにもならないことだけは確実だった。   陽子は左右を見わたす。崖はどちらの方向へ行っても、切れ目がなさそうに見えた。しかたなくきびすを返し、もといた松林のほうへ戻る。コートはなかったがさほど寒いとは感じなかった。ここは、陽子が住んでいた街よりも気候が良いようだった。   さして深くもない林は、台風のあとのように折れた枝が散乱している。そこを抜けると、沼地が広がっていた。   「……・・・?」   よく見れば、そこは沼地ではなく泥が流れ込んだ|田圃《たんぼ》だった。   ところどころ水面に、まっすぐに整備された|畦《あぜ》が顔を出していた。丈の低い緑の植物が頭だけを泥の上に出して、吹き倒されてしまっている。   見わたす限り泥の海で、離れたところに人家が小さな集落を作っているのが見える。その向こうは|険《けわ》しい山だった。   電柱や鉄柱のようなものは見えない。遠くにある集落にも電線のようなものはいっさい見えないし、建物の屋根にアンテナのようなものもなかった。   屋根は黒い瓦、壁は黄ばんだ土壁に見えた。集落の周りを取り囲むようにして背の低い木が植えられていたが、ほとんどが倒れてしまっている。   覚悟していたような異常な風景があるわけでもなく、建物があるわけでもなく、陽子はひそかに胸をなでおろした。すこしばかり雰囲気は違うが、それは気抜けするくらい日本のあちこちで見かける田園風景に似ていた。   |安堵《あんど》してよくよくあたりを見わたすと、松林からはかなり遠いところに数人の人影が見える。背格好は定かではないが、べつにバケモノじみたシルエットには見えない。田圃で作業をしているようだった。   「よかった……」   思わず声がもれた。最初にあの海を見てすっかり|狼狽《ろうばい》してしまったがこの風景はそれほど異常には見えない。電気が来ていないようだ、という点を無視すれば日本のどこかにありそうな村だ。   陽子はふかく息をつき、それから遠くに見える人々に声をかけてみることに決めた。見ず知らずの人に話し掛けるのは|気後《きおく》れするが、陽子ひとりではどうにもならない。言葉が通じるかどうか、ふと疑問に思ったが、とにかく誰かに助けを求めなければならなかった。   |怖《お》じけづく気分を|励《はげ》ますようにして、陽子は口の中で唱える。   「事情を説明して、ケイキたちを見なかったか聞いてみる」   とにかくそれしか陽子にできることはなかった。   なんとか歩ける|畦《あぜ》を探して、陽子は農作業を続ける人影のほうへ歩いていった。近づくにつれ、彼らが少なくとも日本人でないことはわかった。   茶色い髪の女がいて、赤い髪の男がいる。ひどくケイキに似た雰囲気があった。   顔立ちや体つきはすこしも白人のようでないのに、とってつけたように髪の色だけが違うせいだろう。その点を除けばごく普通の男女のようだった。   着ているものは着物に似たすこし変わった服で、男の全員が髪を伸ばしてくくってはいたが、それ以外に特に異常は見当たらない。彼らはシャベルのようなものを突き立てて、畦を壊そうとしているようだった。   作業をしていた男のひとりが顔をあげた。陽子を見て周囲の人間をつつく。なにか声をかけていたが、特に耳なれない音には聞こえなかった。その場にいた八人ほどの男女が陽子のほうを見て、陽子はかるく頭を下げた。ほかにどうすればいいか思いつかなかった。   すぐに三十前後の黒髪の男がひとり、畦にあがってきた。   「……あんた、どこから来たんだね」   日本語を聞いて、陽子は心底ほっとした。自然に笑みが浮かぶ。思ったほどひどい状況ではないようだ。   「崖のほうからです」   ほかの男女は手を止めて、陽子と男を見守っている。   「崖のほう? ……|郷里《くに》は」   東京です、と言いかけて陽子は口をつぐんだ。事情を話す、と簡単に考えていたが、果たして正直に事情を話して信じてもらえるのだろうか。   陽子が迷っているうちに、男が重ねて聞いてきた。   「妙な格好をしているが、まさか海から来たのかい」   それは事実ではなかったが、かなり事実に近かったので陽子はうなずいた。男が目を丸くする。   「なるほど、そういうことかい。こいつは驚いた」   男は皮肉な笑みを浮かべて、陽子には理解できない納得のしかたをした。不穏な目つきでにらむようにしてから、陽子の右手に視線をとめた。   「たいそうなもんを持ってるな。それはどうしたんだ?」   さげたままの剣のことを言っているのだとわかった。   「これは……もらったんです」   「誰に」   「ケイキというひとです」   男は陽子のすぐそばまで歩み寄ってくる。陽子はなんとなく一歩さがった。   「あんたには重そうだな。──よこしな。俺が預かってやろう」   陽子は男の目つきにすこし|怯《おび》える。親切だけで言っているとは思えなかった。それで剣を胸に抱いて首を横にふる。   「……だいじょうぶです。それより、ここはどこなんですか?」   「ここはハイロウだ。人にものを聞くのに、そんな物騒なものをちらつかせるもんじゃない。それをよこしな」   陽子はあとじさった。   「放してはいけないといわれているんです」   「よこせ」   強く言われて陽子はおじけた。いやです、と言い通す|覇気《はき》を持てなくて、しぶしぶ剣を男に向かってさしだす。男はひったくるようにうけとって、剣をしみじみ眺めた。   「たいした造作だ。これをくれた男は金持ちだったろう」   見守っていた男女が集まってきた。   「どうした。カイキャクか」   「そのようだ。みろや、たいそうなしろものだ」   男は笑って剣を抜こうとする。しかし、どうしたわけか刀身は|鞘《さや》を動かなかった。   「飾りもんか。──まぁ、いい」   男は笑って剣を腰の帯に差す。それからいきなり腕を伸ばして陽子の腕をつかんだ。陽子が悲鳴をあげるのもかまわず、男は乱暴に陽子の腕をねじりあげる。   「……痛い! 放して!」   「そうはいかないなぁ。カイキャクは県知事に届けるのが決まりだ」   笑いながら言って、男は陽子を押し出す。   「さ、歩きな。なぁに、悪いようにはしないからよ」   男は陽子をむりやり歩かせて、周囲のものに声をかける。   「誰か手伝ってくれ。つれて行こう」   ──腕が痛い。この男は正体が知れない。どこへ連れて行かれるのか不安を感じる。   心底放してほしいと思った。思ったとたん、手足に冷たい感触がつたって、陽子は男の手をふりほどいていた。腕が勝手に伸びて男の腰の剣を|鞘《さや》ごと引き抜く。大きく跳んであとじさった。   「……てめえ」   すごむ男に周囲の人間が声をかける。   「気をつけろ、剣を──」   「なぁに。あれは飾りもんさ。おい、娘。おとなしくこっちへ来い」   陽子は首をふった。   「……いや」   「引きずっていかれたいのか? いきがったまねをせずにこっちへ来い」   「……いやです」   遠くからも人が集まりはじめていた。   男が踏み出す。陽子の手は剣を鞘から抜いていた。   「なにぃ!?」   「近づかないで……ください」   棒を飲んだように動けない人々を見わたして、陽子はあとじさる。身をひるがえして逃げ出すと、背後から追ってくる足音がした。   「来ないで!」   ふりかえって追ってくる男たちを認めるやいなや、身体が動いてその場に踏みとどまった。剣が身構えるようにあがる。音を立てて血の気が引いた。   「やめて……!」   突っこんでくる男に向かって剣が動く。   「ジョウユウ、やめて!」   ──だめだ。それだけは、できない。   切っ先が|鮮《あざ》やかな|弧《こ》を描いた。   「人殺しはいやぁっ!!」   叫んで堅く目を閉じた。ぴた、と腕の動きがとまった。   同時に強い力で引き倒される。誰かが馬乗りになって剣をむしり取った。痛みよりも|安堵《あんど》で涙がにじんだ。   「ふざけた娘だ」   乱暴にこづかれたが、痛みを感じる余裕はなかった。引きずるように立たされて、二人の男に両腕をうしろ手にねじりあげられる。   抵抗する気にはなれなかった。ひたすら心の中で、動かないで、とジョウユウに願う。   「村につれていけ。その妙な剣もだ。それごと県知事に届けるんだ」   どんな男が言ったのか、目を閉じた陽子にはわからなかった。   3   陽子は引き立てられ、|田圃《たんぼ》のあいだをうねって続く細い道を歩かされた。   十五分ほど歩いてたどりついたのは、高い|塀《へい》に囲まれた小さな街だった。   さっき見た集落は何軒かの家が集まっただけだったが、ここは高さが四メートル近くもありそうな塀が町の周囲を取りまいていて、四角いその外周の一方に大きな門がある。いかにも頑丈そうな|門扉《もんぴ》は内側に向かって開かれていて、そのむこうに赤く塗られ、何かの絵を描いた壁が見える。壁の手前には、どうしたわけか誰も座っていない木製の椅子がひとつ置き去りにされていた。   背後から押されて陽子は街のなかに踏みこむ。赤い壁を|迂回《うかい》すると門前の通りが一望できた。   その街の風景は、どこかで見たようで、同時にひどく異質な感じがした。   どこかで見たことがあるような気がするのは、建物の雰囲気が東洋的だからだろう。白い|漆喰《しっくい》の壁、黒い|瓦《かわら》屋根、枝を差しかけたひねくれた形の樹木。にもかかわらずすこしも親近感を感じないのは、まったく人の気配がないからにちがいない。   門前からは正面に広い道が、左右に細い道が伸びていたが、そこには人の姿まったくなかった。建物は一階建て、道に面しては|軒《のき》の高さの白い塀が続いている。その塀が一定の間隔で切れて、そこから小さな庭をへだてて建物が見えた。   どの家も大きさに大差はなく、建物の外観も細部は違ってるもののよく似ている。それでひどく無機的な感じがした。   家によっては窓が開いていて、そとへ向かって押しあげる板戸を竹の棒で支えてあったが、窓が開いているのがかえって白々しいほど街はみごとに人の気配がない。道にも家にも犬一匹見あたらなかったし、なんの物音もしなかった。   正面の広い通りは長さが百メートルほどしかなくて、突き当りには広場がある。白い石に鮮やかな彩色をほどこした建物が見えたが、鮮やかな色がひどくそらぞらしい感じがした。左右の細い道は三十メートルほどで直角に曲がって、突き当たりは街の外壁。その曲がり角の向こうからも人の気配は伝わってこない。   見わたしてみても抜きん出て高い屋根はなかった。黒い瓦の屋根の上に、街の外壁がのぞいている。視線をめぐらせれば、外壁の形が見て取れる。それは奥行きの深い細長い四角形をしていた。   |窒息《ちっそく》しそうなほど狭い街だった。広さはおそらく、陽子が通っていた高校の半分もないだろう。街の広さに対して外壁があまりに高い。   まるで|水槽《すいそう》のなかのようだ、と陽子は思った。大きな水槽の、水の底で眠りについた|廃墟《はいきょ》のような街だった。   陽子は、正面に見えた広場を囲むように建った建物のなかにつれて行かれた。   この建物は中華街の建物を思わせる。赤く塗られた柱、鮮やかな色の装飾、なのにどこかそらぞらしい感じがするのは街の雰囲気と変わらない。建物のなかには細長い廊下が真一文字に通っていたが、これも暗く、やはり人の気配はなかった。   陽子をつれてきた男たちは、なにごとかを相談してからこづくようにして陽子を歩かせ、小さな部屋の中に押しこめた。   陽子が閉じ込められた部屋の印象は、一言で言うなら|牢獄《ろうごく》だった。   床には|瓦《かわら》のようなタイルを敷きつめてあったが、割れたり欠けたりしたものが多い。壁はすすけてひびの入った土壁で、高いところに小さな窓がひとつ、そこには|格子《こうし》がはまっている。ドアがひとつ。このドアにも格子のついた窓があって、そこからドアの前に建った男たちが見えた。   木製の椅子がひとつと小さな机がひとつ、畳一枚分の大きさの台があって、それで家具はぜんぶだった。台の上には厚い布が貼ってある。どうやらそれが寝台のようだった。   ここはどこで、どういう場所なのか、自分はこれからどうなるのか、聞きたいことは山ほどあったが、監視者にそれを聞く気にはなれない。男たちのほうも陽子に話しかけるつもりはないようだった。それで寝台に座り、だまってうつむいている。それよりほかにできることがなかった。   建物のなかで人の気配がしたのは、ずいぶんと時間がたってからだった。ドアの前に誰かがやってきて、見張りが代わった。新しい見張りはふたりの男で、どちらも剣道の防具のような青い|革《かわ》の|鎧《よろい》をつけているから、警備員か警察官のようなものなのかもしれない。これからなにがおこるのかと息をつめたが、鎧の男たちは険しい視線を陽子に向けただけで、放しかけてくるわけでもなかった。   それが多少ひどいことでも、なにかがおこっているあいだはいい。放置されていると不安で不安でたまらなかった。何度か外の兵士たちに放しかけてみようとしたが、どうしても声にならない。   叫びたくなるほど長い時間がたって、|陽《ひ》も落ち、牢獄の中がまっくらになってから三人の女がやってきた。先頭に立ってあかりを持った白髪の老婆は、いつか映画で見た古い中国ふうの着物を着ている。   やっと人に会えたこと、それがいかつい男ではなく女であることに陽子は|安堵《あんど》した。   「おまえたちは、おさがり」   老婆は、いろいろなものをたずさえていっしょに入ってきた女たちに言う。ふたりの女は荷物を床におろすと、深く頭を下げて牢獄を出ていった。老婆はそれを見送ってから机を寝台のそばに引きよせ、ランプに似た|燭台《しょくだい》を机の上におく。さらに水の入った桶をおいた。   「とにかく、顔を洗いなさい」   陽子はただうなずいた。のろのろと顔を洗って手足を洗う。手は赤黒く汚れていたが、洗うとすぐにもとの色をとりもどした。   陽子は今になって、手足が重く|強《こわ》ばっているのに気がついた。おそらくはジョウユウのせいだろう。陽子の能力を超えた動きを何度もしたせいで、あちこちの筋肉が硬直してしまっている。   できるだけゆっくりと手足を洗うと、細かい傷に水がしみた。髪を|梳《す》こうとして、うしろでひとつにまとめて三つ編みにしていたのをほどいた。異変に気づいたのはそのときだった。   「……なに、これ」   陽子はまじまじと自分の髪を見る。   陽子の髪は赤い。特に毛先は脱色したような色になってしまっていた。──しかし。   三つ編みをほどいたむ髪はかすかに波打っている。その髪の色。   この異常な色はどうだろう。   それは、赤だった。|血糊《ちのり》を染めつけたように、深い深い紅に変色している。赤毛という言葉があるが、この色がとうてい赤毛と呼べるとは思えなかった。ありえない色だ。こんな異常な。   それは陽子を震えさせた。自分が獣になる夢の中でみた、赤い毛並みの色にあまりにもよく似ていた。   「どうしたんだね?」   老婆が聞いてくるのに、髪の色が変だ、と訴えた。老婆は陽子の言葉に顔をかたむける。   「どうしたんだい? べつになにも変じゃないよ。珍しいけれどきれいな赤だよ」   老婆が言うのに首をふって、陽子は制服のポケットの中を探った。手鏡を引っ張り出す。そうして、間違いなく真紅に変色した自分の髪を確認し、ついでそこにいる他人を見つけた。   陽子には一瞬、それがどういう意味なのかわからなかった。手をあげておそるおそる顔をなで、その動きにつれて鏡のなかの人物の手も動いて、それが自分なのだとわかって|愕然《がくぜん》とした。   ──これはあたしの顔じゃない。   髪の色が変わって雰囲気が変わっていることを差し引いても、これは他人の顔だった。その顔の|美醜《びしゅう》はこの際たいした問題ではない。問題は明らかに他人の顔になっている自分、日に焼けたような肌と、深い緑色に変色した瞳だった。   「これ、あたしじゃない」   |狼狽《ろうばい》して叫んだ陽子に、老婆はけげんそうな顔をした。   「なんだって?」   「こんなの、あたしじゃない!」   とりみだした陽子の手から、老婆は手鏡を取りあげた。ごく落ちついた動作で鏡をのぞきこみ、それから陽子に手鏡を返す。   「鏡がゆがんてるわけじゃないようだね」   「でも、あたしはこんな顔じゃないんです」   そういえば、声もなんだかちがう気がする。まるで別人になってしまったようだ。獣でもバケモノでもない。だが、しかし──。   「それじゃあ、あんたの姿がゆがんでるんだろうね」   |微笑《わら》いまじりの声に陽子は老婆をふりあおいだ。   「……どうして?」   言って陽子はもう一度鏡を見直す。自分がいるべき場所に他人がいるのは妙な気がした。   「さてねえ。それはあたしなんかにはわからないね」   老婆はそう言って、陽子の手をとる。腕についた小さな傷に、なにかを|浸《ひた》した布を当てた。   鏡のなかの自分は、よく見てみるとかすかに見なれた面影を残していた。ほんとうに、ごくかすかにではあったけれど。   陽子は鏡をおいた。もう二度と見ないと決めた。鏡をのぞいてみるのでなければ、自分がどんな顔をしているか関係のないことだ。髪は鏡を使わなくても見えるが、それは染めたと思えば我慢できるだろう。べつに自分の容姿を気に入っていたわけではないが、この変化を二度と直視する勇気が陽子にはなかった。   「あたにはわからないが、そういうこともあるんだろうさ。そのうち気分が落ち着いたら、なれるだろうよ」   老婆はそう言って机から桶をおろすと、かわりに大きなどんぶりをおく。|餅《もち》のようなものが沈んだスープが入っていた。   「おあがり。たりなければ、もっとあるからね」   陽子は首を横にふった。とうてい食事をする気分ではない。   「……食べないのかね?」   「ほしくありません」   「口をつけてみると、意外におなかがすいていたりするものだよ」   陽子はだまって首をふった。老婆はかるく息をついて、背の高い水差しのような|土瓶《どびん》からお茶を注いでくれた。   「あっちから来たんだね?」   聞きながら老婆は椅子を引きよせて腰をおろす。陽子は目をあげた。   「あっち?」   「海の向こうさ。キョカイを渡ってきたんだろう?」   「……キョカイって、なんですか?」   「崖の下の海だよ。なんにもない、まっくらな海」   あれはキョカイというのか、と陽子はその音を頭のなかにしまった。   老婆は机の上に紙を広げた。|硯《すずり》の入った箱をおく。筆を取って陽子にさしだした。   「あんた、名前は?」   陽子はとまどいつつも、おとなしく筆をうけとって名前を書きつけた。   「中嶋、陽子です」   「日本の名前だね」   「……ここは中国なんですか」   陽子が聞くと老婆は首をかたむける。   「ここは|巧国《こうこく》だ。正確には|巧州国《こうしゅうこく》だね」   言いながら老婆は別の筆をとって文字を欠きつけてゆく。   「ここは|淳《じゅん》州|符楊《ふよう》郡、|廬江《ろこう》郷|槙《しん》県|配浪《はいろう》。あたしは配浪の長老だ」   書きつけられた文字は、すこしだけ細部がちがっている。それでも漢字にちがいなかった。   「ここでは漢字をつかうんですか?」   「文字ならつかうともさ。あんたはいくつだね」   「十六です。じゃ、キョカイというのも漢字が?」   「虚無の海と書くね。──仕事は?」   「学生です」   陽子が答えると、老婆はかるく息をつく。   「言葉はしゃべれるようだね。文字も読めるようだし。あの妙な剣のほかに、なにを持ってる?」   問われるまま、陽子はポケットの中をあらためた。ハンカチと|櫛《くし》、手鏡と生徒手帳、壊れた腕時計、それでぜんぶだった。   ならべてみせると、老婆はどういう意味なのか、頭をふる。ため息をつくようにして机の上の品物を着物の|懐《ふところ》におさめた。   「あたし、これからどうなるんですか」   「さてね。そんなのは上の人が決めることだ」   「あたし、なにか悪いことをしたんですか?」   まるで罪人のようにあつかわれている、と陽子は思う。   「べつに悪いことをしたわけじゃない。ただ、カイキャクは県知事へ届けるのが決まりでね。悪く思わないでおくれ」   「カイキャク?」   「海から来る来訪人のことさ。海の客、と書く。虚海のずっと東のほうから来ると、そう言われている。虚海の東の果てには日本という国があるそうだ。べつにたしかめた者がいるわけじゃないけど、実際に海客が流れてくるんだからそうなんだろうね」   老婆は言って陽子を見た。   「日本の人間がときおりショクに巻きこまれて東の海岸に流れつく。あんたのようにね。それを海客というんだよ」   「ショク?」   「食べる、に虫と書くんだ。そうだね、嵐みたいなものかね。嵐とはちがって、突然はじまって、突然終わる。そのあとで海客が流れつくんだ」   言って老婆は困ったような|微笑《わら》いを浮かべる。   「たいがいは姿態だけどね。海客は生きていても死んでいても上へ届けることになってる。上のほうのえらい人があんたをどうするか決めるんだ」   「どうするか?」   「どういうことになるのか、ほんとうのことは知らないよ。ここに生きている海客が流れついたのは、あたしのお|祖母《ばあ》さんのとき以来のことだからね。その海客は県庁に送られる前に死んだそうだ。あんたは|溺《おぼ》れずにたどりついた。運がよかったね」   「あの……」   「なんだえ」   「ここはいったい、どこなんですか?」   「淳州だよ。さっき、ここに」   地名を書きつけた場所を示す老婆を制した。   「そうじゃありません!」   キョトンとする老婆に向かって陽子は訴える。   「あたし、虚海なんて知りません。巧国なんて国、知りません。こんな世界、知らない。ここはどこなんですか!?」   困ったように息をついただけで、老婆はそれに答えなかった。   「……帰る方法を教えてください」   あっさり言われて、陽子は両手をにぎりしめる。   「ない、って」   「人は虚海を越えられないのさ。来ることはできても、行くことはできない。こちらから向こうへ行った人間も、帰った海客もいない」   言葉が胸の底に落ちつくまでにすこしかかった。   「……帰れない? そんなバカな」   「むりだね」   「だって、あたし」   涙がこぼれた。   「両親だって、いるんです。学校にだっていかなきゃならないし。ゆうべだって外泊だし、今日だって無断欠席だし、きっとみんな心配して」   老婆は気まずそうに視線をそらす。立ちあがって、あたりのものをかたづけはじめた。   「……あきらめるしかないね」   「だってあたし、こんなところに来るつもりなんて、ぜんぜんなかった!」   「海客はみんなそうだよ」   「ぜんぶむこうにあるんです。なにひとつ持ってこなかった。なのに帰っちゃいけないの!? あたし……」   それ以上は言葉にならなかった。声をあげて泣きはじめた陽子にはかまわず、老婆は部屋を出ていく。運び込まれたものが運び出されて、ひとすじの光さえなかった。   「あたし、家に帰りたい……!」   体をおこしていることが困難で、寝台に身体を丸めた。そのまま声をあげて泣いて、やがて泣き疲れて気を失うように眠りについた。   夢は、見なかった。   5   「起きろ」   そう言って陽子は叩き起こされた。   泣き疲れた|瞼《まぶた》が重い。ひどく光が目にしみた。疲労と|飢《う》えで深い脱力を感じたが、なにかを食べたいとは思わなかった。   牢に入ってきて陽子を起こした男たちは、陽子の身体にかるく|縄《なわ》をかけた。そのままそとに押し出される。建物から出たところにある広場には馬車が待っていた。   二頭の馬に荷車をつないだ馬車の上に乗せられ、そこから周囲を見わたすと広場のあちこちや道のかどに大勢の人間が集まって陽子のほうを見ていた。   これだけの人間が、昨日見た廃墟のような街のどこにひそんでいたのだろう。   誰もが東洋人のようだが、髪の色がちがう。大勢集まると、それがひどく奇異な感じがした。誰もが好奇心や嫌悪をないまぜにした表情をしている。ほんとうに護送される犯人のようだと陽子は思う。   目を開けてから、ほんとうに目覚めるまでの一瞬のあいだに、ぜんぶが夢だったらどんなにいいだろうか、と心から念じた。それはすぐに陽子を乱暴に引きずりおこす男の手によって破られたのだけれど。   身づくろいするひまも、顔を洗うひまも機会も与えられなかった。海に飛び込んでそのままの制服は、|淀《よどんだ》んだ海の臭気を漂わせている。   男がひとり、陽子の隣に乗りこんで、御者が馬に|手綱《たづな》を繰り出す。それを見ながら、お風呂に入りたいな、と陽子はボンヤリ思った。たっぷりのお湯のなかに身体を沈めて、いい匂いのするソープで身体を洗って。新しい下着とパジャマに着替えて、自分のベッドで眠りたい。   目が覚めたらお母さんの作ったご飯を食べて、学校へ行く。友達とあいさつをして、たあいのないおしゃべりをして。そういえば化学の宿題が半分残っていた。図書館から借りた本ももう返さなくてはならない。ゆうべ、ずっと見ていたドラマがあったのに見逃してしまった。母親が思い出して録画しておいてくれるといいのだけれど。   考えていると|虚《むな》しくて、どっと涙があふれた。陽子はあわててうつむく。顔をおおいたかったが、うしろ手に縛られていてそれもできなかった。   ──あきらめるしかないね。   そんな言葉は信じない。ケイキだって戻れないとは言わなかった。   ずっとこのままでなんてあるはずがない。着がえることも顔を洗うこともできなくて、罪人のように縄をかけられて汚い馬車に乗せられて。たしかに陽子は聖人のように善良ではなかったが、こんな仕打ちをうけるほどの悪人でもなかったはずだ。   頭上を後ろへさがっていく門を見ながら、陽子は縛られたままの肩口に|頬《ほほ》を寄せて涙をぬぐった。隣に座った三十がらみの男は胸に布袋を抱いて淡々と風景を見ている。   「あの……どこへ行くんですか」   おそるおそる陽子が声をかけると、疑うような目つきで見返してきた。   「しゃべれるのかい」   「はい。……あたしはこれから、どこへ行くんですか?」   「どこって。県庁だ。県知事のところにつれて行く」   「それからどうなるんですか? 裁判かなにか、あるんですか」   どうしても自分が罪人だという考えが消えない。   「おまえが良い海客か、悪い海客か、それがはっきりするまでどこかに閉じ込められることになるな」   男の突き放すような物言いに、陽子は首をかたむけた。   「良い海客と、悪い海客?」   「そうだ。おまえが良い海客なら、しからべきお方が後見人について、おまえは適当な場所で生活することになるだろうよ。悪いほうなら|幽閉《ゆうへい》か、あるいは死刑」   陽子は反射的に身をすくめた。背筋に冷たい汗が浮く。   「……死刑?」   「悪い海客は国を滅ぼす。おまえが凶事の前ぶれなら、首を|刎《は》ねられる」   「凶事の前ぶれって?」   「海客が戦乱や災害をつれて来ることがある。そういうときは、早く殺してしまわなくては、国が滅ぶ」   「それをどうやって見きわめるんです?」   男はうっすらと皮肉な色の笑みを浮かべた。   「しばらく閉じこめておけばわかる。おまえが来て、それから悪いことがおこれば、おまえは|凶事《きょうじ》の先触れだ。もっとも」   男は|剣呑《けんのん》な目つきで陽子を見る。   「おまえはどちらかというと凶事を運んできそうだな」   「……そんなこと」   「おまえが来たあの|蝕《しょく》で、どれだけの|田圃《たんぼ》が泥に沈んだと思う。|配浪《はいろう》の今年の収穫は全滅だ」   陽子は目を閉じた。ああ、それで、と思う。それで自分は罪人のようにあつかわれているのか。村人にとってすでに陽子は凶事の前ぶれなのだ。   怖い、と切実に思った。死ぬのは怖い。殺されるのはもっと怖い。こんな異境でもしも死んだとしても、誰も惜しまず泣いてもくれない。たとえ死体だけにしても家に帰ることさえできないのだ。   ──どうしてこんなことに。   どうしてもこれが陽子の命運だとは信じられなかった。|一昨日《おととい》にはいつものように家を出たのだ。母親には行ってきます、とだけ言った。いつものように始まって、いつものように終わるはずだった一日。いったいどこで、なにを踏みちがえてしまったのだろう。   村人に声をかけたのがいけなかったのか。そもそも崖でじっとしているべきだったのか、陽子をこちらにつれてきた、あの連中とはぐれたのがいけなかったのだろうか。──それとも、そもそもあの連中についてきたのがいけなかったのか。   しかし陽子には選択の余地などなかったのだ。ケイキは力ずくでもつれて行く、と言った。ばけものに追われて、陽子だってなんとかして身を守らねばならなかった。   まるでなにかの|罠《わな》の中にはまりこんでしまったようだ。ごくあたりまえに見えたあの朝にはすでになにかの罠のなかにあって、それが時間と共に引き絞られた。おかしいと思ったときにはすでにぬきさしがならなかった。   ──逃げなきゃ。   陽子は身体だけが|焦《あせ》って暴れだしそうになるのを抑える。失敗は許されない。逃げそびれたりしたら、どんな仕打ちを受けるかわからない。機会をうかがって、どうにかしてこの|窮地《きゅうち》から逃げ出さなければ。   陽子の頭のなかで、なにかが猛烈な勢いで回転をはじめた。こんな速度でものを考えたことは生まれて初めてかもしれない。   「……県庁まではどれくらいかるんですか?」   「馬車なら半日、ってところかな」   陽子は頭上を見あげた。空は台風のあとのような青、太陽はすでに真上にある。陽が落ちる前になんとしても逃げ出す機会を見つけなければならない。県庁がどんなところかは知らないが、少なくともこの馬車よりは逃げることが難しいだろう。   「あたしの荷物はどうなったんだてすか」   男はあやしむような目つきで陽子を見た。   「海客が持ってきたものは届け出るのがきまりだ」   「剣も?」   男はさらにあやしげな顔をする。警戒するのがわかった。   「……聞いてどうする」   「あれは大切なものなんです」   かるく背後で手をにぎった。   「あたしをつかまえた男の人が、とてもほしそうにしていたから。ひょっとして彼に盗まれたんじゃないかと思って」   男は鼻を鳴らした。   「そうかしら。あれは飾りものだけど、とても高価なものなんです」   男は陽子の顔を見て、それから|膝《ひざ》の上の布袋を開いた。中から|鮮《あざ》やかに光を|弾《はじ》いて宝剣が現れた。   「飾りものなのか、これは?」   「そうです」   少なくとも身近にあることに|安堵《あんど》しながら、陽子は男を見つめた。男が柄《つか》に手をかける。どうぞ、抜けないで、と祈った。|田圃《たんぼ》で会った男には抜けなかった。ケイキはそれが陽子にしか使えないと言っていた。ひょっとしたら陽子以外には抜けないのではないかと、そう思ったが確信はない。   男が手に力をこめる。柄は|鞘《さや》から|寸分《すんぶん》も動かなかった。   「へえ。ほんとうに飾りもんだ」   「返してください」   陽子が訴えると男は皮肉な色で笑う。   「届けるのが決まりなんでな」それにおまえも首を|斬《き》られちゃ、用がないだろう。眺めようにも眺める目をつむっちゃぁな」   陽子は唇をかむ。この縄さえなければ取り戻すことができるのに。ひょっとしてジョウユウがなんとかしてはくれないか、と思ったが、力をこめてみても縄はもちろん切れなかった。べつに怪力になったわけではないらしい。   なんとか縄を切って剣を取り戻す方法はないものか、とあたりを見回したとき、流れていく風景の中に金色の光を見つけた。   馬車は山道にさしかかろうとしていた。なにかの樹を整然と植えた暗い林のなかに、見覚えのある色を見つけて陽子は目を見開いた。同時にぞろり、とジョウユウの気配が肌を|這《は》う。   林のなかに人がいた。長い金色の髪と白い顔、|裾《すそ》の長い着物に似た服。   ──ケイキ。   陽子が心の中でつぶやくのと同時に、たしかに陽子のものではない声が頭のなかで聞こえた。   ──タイホ。   6   「とめて!」   陽子は馬車から身を乗り出して叫んだ。   「ケイキ! 助けて!!」   隣の男が陽子の肩をつかんで押さえつけた。   「こら」   陽子は男をふりかえる。   「馬車をとめて。知り合いがいるんです!」   「おまえの知り合いはここにはいねえよ」   「いたの! ケイキだった! お願い、とめて!!」   馬の歩みが落ちた。   ふりかえると、すでに金色の光は遠い。それでもそこにはたしかに人がいること、その人のすぐ横にもうひとり誰かがいること、その人物が頭から死神のように暗い色の布をかぶっていること、なにかの獣を幾頭かつれていることは見てとれた。   「ケイキ!!」   叫んで身を乗り出す陽子の肩を男が強く引いた。思わず|尻餅《しりもち》をつき、あらためて顔をあげたときには、もう金色の光は見えなかった。いたはずの場所はまだ見える。そこにいた人物のほうが姿を消してしまってた。   「ケイキ!?」   「いい加減にしろ!」   男が乱暴に陽子を引きずる。   「どこに人がいる。そんなことでだまそうたって、そうはいかねえぞ」   「いたの!」   「やかましい!」   怒鳴られて陽子は身を縮める。動きつづける馬車の上からあきらめ悪く視線だけを投げた。やはりそこには、なんの姿もなかった。   ──なぜ。   ケイキだと思った瞬間聞こえた声は、きっとジョウユウのものだろう。あれはケイキに間違いない。獣の姿も見えた。ケイキたちはぶじだったのだ。   ──だったらなぜ、助けてくれない?   混乱した思いでただ視線をさまよわせる。どこかにもう一度、あの金の光が見えないか。   そのときだった。視線を向けていた林のなかから声が聞こえたのだ。   陽子は声のしたほうを見やり、ついでに隣にいる男が顔をそちらへ向けた。   赤ん坊の泣き声だった。どこかで子供がとぎれとぎれに泣いているのが聞こえる。   「おい……?」   泣き声のする方向を指差して男が声をかけたのは、それまで無言で馬車を|御《ぎょ》していた男だった。御者はちらりと陽子たちを見やってから、|手綱《たづな》を繰り出す。馬の足が速まった。   「赤ん坊が」   「構うな。山の中で赤ん坊の声がしたら、近づかないほうがいい」   「しかし、な」   赤ん坊は火がついたように泣きはじめた。人がみすごすことを許さないような、切迫した声だった。声のありかを探すように馬車の縁から身を乗り出した男に、御者は強い声をかける。   「無視しろ。山の中で人を|喰《く》らう|妖魔《ようま》は、赤ん坊の声で鳴くそうだ」   妖魔、の言葉に陽子は背筋を緊張させた。   男は納得のいかない顔で、林と御者を見くらべている。御者は硬い顔でさらに手綱を打った。両側の林のせいでかげった坂道を、馬車は大きく揺れながら走りはじめる。   一瞬だけ、ケイキが自分を助けるためになにかをしているのだろうか、と思ったが、ジョウユウの感触が濃厚で、恐ろしく全身が緊張している。助けだと単純に喜ぶわけには、とうていいかなかった。   おああ、と赤ん坊の声がすぐ間近から聞こえた。それは明らかに近づいてきている。その声に|応《こた》えるようにべつの方向から泣き声がする。あちらからもこちらからも泣き声が聞こえて、馬車の周囲を取りまくように張りつめた声が坂道に響きあった。   「ひ……」   男は身を硬直させて周囲を見回す。疾走する馬車の速度を意に介さないように、声はただ近づいてくる。赤ん坊ではない。子供ではありえない。陽子は身をよじった。鼓動が跳ねあがる。身内に何かが充満する。それはジョウユウの気配だけではなく、|潮騒《しおさい》のような音をたてる何かだ。   「縄をほどいて!」   男は目を見開いたまま陽子を見やり、首を横にふった。   「襲われたら身を守る方法はあるの?」   これにも|狼狽《ろうばい》したように頭をふるだけ。   「縄をほどいて。その剣をあたしにください」   馬車を取り囲んだ声は、徐々にその半径をせばめている。馬は疾走する。車は乗り手をふり落とすように何度も跳ねた。   「早く!!」   陽子が怒鳴ると、男はなにかに突かれたように身動きした。その瞬間だった。ひときわ大きな衝撃が突きあげてきた。   てひどく地面に投げ出されて、陽子はようやく馬車が転倒したことに気がついた。つまった息とともに、軽い吐き気がこみあげるのをやり過ごしてから見ると、馬車も車もきれいに横倒しになってしまっていた。   間近に投げ出された男が頭をふりながら身をおこす。それでも彼はしっかり布の袋を抱きしめていた。赤ん坊の声は林の縁から聞こえた。   「お願い! 縄をほどいて!!」   叫ぶやいなや、馬が悲痛な声をあげるのが聞こえた。あわてて目をやると馬の一頭に黒い毛並みの大きな犬が襲いかかっていた。犬はおそろしく|顎《あご》が発達している。口を開けると顔面がふたつに裂けたように見えた。その|鼻面《はなづら》は白い。それが一瞬のうちに赤く染まった。男たちが悲鳴をあげる。   「これをほどいて剣をよこして!」   男にはもう、陽子の声は聞こえていないようだった。あわてふためいて立ちあがり、しっかり袋を抱いたまま片手で宙を|掻《か》くようにして坂を下へ走っていく。   その背に向かって林の中から数匹の黒い獣が飛び出してきた。   男の姿と黒い獣の姿が交錯する。獣がちに降り立ち、あとには立ちすくんだ男が残された。   ──いや、たちすくんでいるのではない。男の身体には、すでに首と片腕がなかった。一瞬の後にその身体が倒れる。放水のように噴き出した鮮血がくっきりと軌跡を描いて、あたり一面に赤く水滴を降らせた。陽子の背後で馬が高く|嘶《いなな》いた。   陽子は馬車に身を寄せる。その肩になにかが触れて、驚いてふりかえると御者だった。   彼は陽子のうしろ手にくくられた手をつかむ。小刀をにぎっているのが見えた。   「逃げな。今なら奴らのそばをすりぬけられる」   言って御者は立ちあがる。陽子を拘束していた|戒《いまし》めがゆるんだ。   御者は陽子を引き立て、坂の下へ向かって押し出した。坂の上には馬に群がった犬がいる。坂の下には倒れた男に群がった犬。身体の上に小山を作った黒い獣を、すこし離れた場所から首だけが見つめていた。   この降って湧いたような|殺戮《さつりく》に身をすくめる陽子には関係なく、戒めをとかれた身体は戦闘の準備をする。手近の石をかき集めるようにして拾いあげた。   ──そんな小石でなにができるの。   陽子の身体は立ちあがる。坂の下に向かった。がつがつといやな音をさせている毛皮の群れから、その音に調子をあわせて揺れる男の足が見えていた。目が毛皮の数を数える。一、二、……、五、六。   陽子は群れに近づく。あたりは赤ん坊の声がやんで、今は骨肉をかむ音だけが満ちていた。   ふいに犬の一頭が顔をあげた。白いはずの鼻面は真っ赤に染まっている。その犬が声をかけでもしたように、次々とほかの犬が頭をあげた。   ──どうするの。   陽子の身体は小走りに駆け出した。最初に飛びかかってきた犬の鼻面に小石が命中する。むろん、そんなもので倒せるものでもない。獣の足を一瞬のあいだ、とめることしかできなかった。   ──むだよ。   群れが退いたあとには、すでに人の原形をとどめていない男の身体があった。   ──ここで、死ぬんだ。   喰われるんだ、あんなふうに。あの|顎《あご》と|牙《きば》で|咬《か》み裂かれて、肉のかたまりになり、その肉さえ喰いつくされてしまう。   そんな絶望的な思いにかられながらも、小石で犬を散らして陽子は駆ける。動き出したジョウユウをとめる方法はない。できるだけジョウユウのさまたげにならないよう意識をこらし、せめて痛みを感じるひまがないように祈るしかなかった。   駆ける陽子の足に腕に背中に、鈍い衝撃と鈍い痛みが次々に生じる。   救援を求めてとっさに背後をふりかえった陽子の目に、小刀をやみくもにふりまわしながら走り出した男の姿が見えた。御者は陽子とは反対側の林に向かって駆けこむ。下草をかきわけたところで、なにかが彼の体を木陰に引きずりこんだ。   どうしてあんな方向へ、と疑問がわいて、瞬時に自分が|囮《おとり》に使われたのだと悟った。逃げだした陽子が襲われているあいだに、自分は林のなかに逃げこむつもりだったのにちがいない。男のもくろみは失敗に終わった。彼は襲われ、そうして陽子もぶじでいられるとは思えない。   手のなかの石が尽きた。すでに人の形をとどめていない男の死体までは三歩の距離。   空の手が右から襲ってきた鼻面をうちすえる。足首にがっきとつかまれる感触を感じてすくいあげられるのを、前のめりに逃げる。背中に重い衝撃があたったのをさらに前のめりになってかわし、頭から男の死体に突っこんだ。   ──いやだ。   悲鳴は出なかった。心のどこかがひどく|麻痺《まひ》していて、ごく淡い|嫌悪《けんお》が浮かんだだけだった。   体が起きあがり、背後に向かって身構える。このばけものに|睨《にら》み合いが通用するとは思えなかったが、意外にも犬は頭を低くたれて間合いをはかっている。だからといって、いつまでもそれが続くはずもない。   陽子は右手を死体にかけて、伏せた男の肉塊の下を探った。   この男が一瞬のうちに死体になった姿が目によみがえる。時間がない。連中が決心すれば、一瞬で決着がついてしまう。   探る指先に、硬いものが触れた。   陽子には、手のなかに|柄《つか》が飛びこんできたような気がした。   ──あ……ああ。   命綱をつかんだ。|鞘《さや》ごと男の肉塊の下から引き抜こうとしたが、どうしたわけか鞘がなかばまで現れたところで動かない。剣と鞘とは離してはならないといわれた。しかし。   陽子は迷い、迷うひまさえないことに思い至り、思いきって刀身だけを引き抜いた。切っ先で|珠《たま》を結んだ|紐《ひも》を切って、珠を手のなかににぎりこむ。にぎりこむと同時に、犬が動いた。   それを視野にとらえるやいなや、右手が動いて白刃が走る。   「ぁあ──ああぁ!!」   言葉にならない叫びが|喉《のど》を突いた。   襲ってきた犬を左右に|斬《き》り捨てて、開いた|間隙《かんげき》に飛びこむようにして走り出す。なおも追いすがってくる獣を斬り退け、全力でその場を駆け去った。   7   陽子は太い幹に身体をあずけて座りこんだ。   あの坂を下り、途中から山に分け入って、足が動かなくなった場所がここだった。   汗をぬぐうつもりで腕をあげると、制服は血で重く濡れている。顔をしかめて上着を脱いだ。脱いだセーラー服で剣をぬぐう。ぬぐった切っ先を目の前にかざしてみた。   いつだったか日本史の授業で、日本刀で切れるのは数人が限界、と聞いたことがある。刃こぼれと血油で使いものにならなくなる、と。さぞかし|傷《いた》んでいるだろうと思ったのに、かるく布でぬぐっただけで曇りひとつない。   「……不思議」   陽子にしか抜けないことといい、妙な剣だと思った。最初に持ったときには重いような気がしたが、|鞘《さや》を払えばひどく手に軽い。   陽子はすでに鋭利な|煌《きらめ》きを取り戻している刀身を脱いだ服でくるむ。それを腕のなかに抱き込んで、しばらく息を整えていた。   鞘をあの場に残してしまった。取りにもどるべきだろうか。   剣と鞘とは離してはならないと、そういわれたが、それは鞘にもなにかの意味があるということなのだろうか。それとも、鞘には|珠《たま》がついていたからだろうか。   汗が引くと制服の下に着ていたTシャツだけでは寒かったが、もう一度汚れた上着に|袖《そで》を通す気にはなれない。落ちついてみると全身が痛んだ。腕も足も傷だらけだった。   Tシャツの袖には牙が通った|痕《あと》がいくつもある。下から血がにじんで白い色を|斑《まだら》に染めていた。スカートは裂けてしまっているし、その下の足にも無数の傷ができている。傷の大半からまだ血が出ていたが、男を一瞬のうちに殺した牙がつけた傷にしては、おそろしく軽傷だといってよかった。   おかしい、と思う。どう考えてもこんなに軽傷ですむはずがない。そういえば職員室のガラスが割れたときにも、周りの教師たちが大怪我をした中で、陽子だけは無傷だった。獣の背から落ちたときも、そこが空の上だったというのに|擦《す》り傷しかなかった。   変だとは思うがしかし、姿形までが変わってしまったことを思うと取り立てて悩むほどのことでもないのかもしれない。   陽子はなんとなく息をつく。ためいきに似た呼吸をしてから、自分の左手が堅く|拳《こぶし》をにぎったままなのに気がついた。|強《こわ》ばるてのひらを開くと、青い珠が転がり出てくる。あらためてにぎり直すと、そこから痛みが引いていくのがわかった。   珠をにぎってしばらくうとうとし、目覚めてみるとあちこちの傷はすでに乾いていた。   「……不思議」   しくしくと身体を|蝕《むしば》むような痛みは消えている。疲労が薄らいでいるのを感じる。たしかにこれは、なくしてはならないものだ。陽子にはこのうえもなくありがたい。   おそらくは、これが結びつけられていたから、|鞘《さや》をなくすなといわれたのだろう。   制服からスカーフを外し、剣を使って細く裂いた。それを堅くねじって珠にあいた穴に通すと、首にかけておくのにちょうど良い長さだった。   珠を首にかけて、陽子は周囲を見わたす。斜面に続く林の中だった。すでに|陽《ひ》はかたむいて、枝の下には薄闇が漂いはじめている。方角はわからない。これからどうしたらいいのかも、わからなかった。   「……ジョウユウ」   背後に意識を向けて問いかけてみたが、返答はなかった。   「お願いだから、なにか言ってよ」   やはり返答はない。   「これから、どうしたらいいの? どこへ行ってなにをすればいいわけ?」   どこからも声はしなかった。いないはずはないのに、自分の身体に意識をこらしてもそれがいる感触は見いだせなかった。かすかにかさかさと葉ずれの音がするのが、かえって静かな気がする。   「あたし、右も左もわからないのよ」   陽子は不毛なひとりごとを続ける。   「あたしはこっちのこと、なにひとつわからないんだよ。それであたしにどうしろって言うわけ。人のいるところに出れば、またつかまるんでしょ? つかまったら殺されるんじゃない。誰にも会わないように逃げまわって、それでなんとかなるの? どっかにドアでもあって、それを探して開けたら、家に帰れるわけ? そうじゃないでしょう」   なにかをしなければならないのに、なにをしたらいいのかわからない。ここに座っていてもなにひとつ救われないとわかっているのに、どこへ行ったらいいのかわからない。   林の中は急速にたそがれていこうとしていた。あかりを|灯《とも》す方法も、今夜の寝床のあてもなかった。食べるものも飲むものもない。人のいる場所は危険で近づけず、人のいない場所をあてもなくうろつくのは怖い。   「あたしにどうしろっていうの。せめて、なにをどうすればいいのか、それだけでも教えてよ!」   やはり返答はなかった。   「いったいなにがどうなってるの。ケイキたちはどうしたの? さっきいたのはケイキでしょう? どうして姿を消したの。どうして助けてくれなかったの。ねぇ。どうして!?」   かさこそと葉ずれの音だけがする。   「お願いだから、なにかしゃべってよ……」   点々と涙がこぼれた。   「……帰りたい」   もといた世界を好きだったとは言わない。それでも離れてみれば、ただなつかしいばかりで涙が出てくる。もう一度帰れるならなんでもする。帰ったら二度と離れない。   「家に……帰りたいよぉ」   子供のように泣きじゃくりながらふと思う。   陽子はなんとか逃げだすことができた。県庁に送られることも、あの獣に喰われることもなかった。こうして生きて自分の|膝《ひざ》を抱いていられる。   それはしかし、ほんとうに幸いなことだったのだろうか?   ──痛みなら……。   浮上してきた考えを、頭をふってむりにも散らす。それを考えるのは怖かった。きっと今はどんな言葉よりも説得力がある。陽子はしっかりと膝を抱きしめた。   突然、声が聞こえたのはそのときだった。   妙にかんだかい老人のような声は、陽子が強いて考えないようにした思考を笑いを含んで言ってのけた。   「痛みなら、一瞬で終わったのにナァ」   陽子は周囲を見わたした。すでに右手は剣の柄をにぎりしめている。林の中はすっかり夜の顔をしていた。かろうじて幹や下草の高さがわかるていどのあかりしかない。   そのなかにボンヤリとした光がある。陽子の座った場所から二メートルほどの地点。下草の中から|薄青《うすあお》い|燐光《りんこう》を放つものがのぞいている。   それを見すえて陽子はかすかに息を飲んだ。   |鬼火《おにび》のように光る毛並みを持った、一匹の|猿《さる》だった。丈の高い雑草のあいだから首だけを出して、陽子のほうを見ながらあざ笑うように|歯茎《はぐき》をむき出しにしている。   猿はきゃらきゃらと耳に刺さる音で笑った。   「喰われてしまえば、一瞬だったのにサァ」   陽子は巻きつけた制服のあいだから剣を抜き出す。   「……あなた、なに?」   猿はさらに高く笑う。   「オレはオレさァ。バカな娘だよ、逃げるなんてヨォ。あのまま喰われてれば、つらい思いをせずにすんだのになァ」   陽子は剣を構える。   「何者、なの?」   「オレはオレだってば。あんたの味方さァ。あんたにいいことを教えてやろうと思ってな」   「・・・・・いいこと?」   猿の言葉は|鵜《う》のみにできない。ジョウユウが緊張する様子を見せないので敵ではないのだろうが、怪しげな見かけからしても、とうていまっとうな生き物とは思えなかった。   「おまえ、帰れねえよ」   あっさり言われて陽子は猿をにらみつけた。   「黙んなさいよ」   「帰れねえよ。ぜったいムリだ。そもそも帰る方法なんか、ねえのさ。──もっといいことを教えてやろうか?」   「聞きたくない」   「教えてやるってばさ。おまえ、だまされたんだよォ」   きゃらきゃらと猿は大笑いした。   「だま……された?」   水を浴びせられた気がした。   「バカな娘だよ、ナァ? おまえは、そもそも|罠《わな》にはめられたのサァ」   陽子は息を飲んだ。   ──罠。   ケイキの? ケイキの!?   柄をにぎる手が震えたが、否定する言葉を思いつけなかった。   「思い当たるフシがあるだろう? おまえは、こっちにつれて来られた。二度とあっちに帰さない罠だったのサァ」   かんだかい声が耳に突き刺さった。   「やめて!」   無我夢中で剣を払っていた。鈍い乾いた音がして草の先が舞う。陽子が自力でやみくもにふりまわした切っ先は猿に届かなかった。   「そうやって耳を|塞《ふさ》いでも、事実は変わらないよォ。そんなもんを|後生大事《ごしょうだいじ》にふりまわしているからさァ、死にぞこなっちまうのサァ」   「やめてっ!」   「せっかくいいもん持ってんだから、もっとマシなことに使いなよォ。──それでちょいと自分の首を|刎《は》ねるのさァ」   きゃらきゃらと猿は天を仰いで大笑いをした。   「黙れぇっ!!」   手を伸ばして払った先に猿はいない。すこしばかり遠ざかって、やはり首だけがのぞいていた。   「いいのかい? オレを|斬《き》っちまってサァ。オレがいなかったら、おまえ、口をきく相手もいないんだぜ」   はっ、と陽子は目を見開いた。   「オレがなにか悪さをしたかい。こうして親切にも、おまえに声をかけてやってんじゃないかァ」   陽子は歯を食いしばる。堅く目を閉じた。   「かわいそうになァ」こんなところにつれて来られて」   「……どうすればいいの」   「どうしようもないのさ」   「……死ぬのはいや」   それはあまりに恐ろしい。   「勝手にするがいいさ。オレはおまえに死んでほしいわけじゃないからさァ」   「どこへ行けばいいの?」   「どこへ行っても同じだ。人間からも妖魔からも追われるんだからヨォ」   陽子は顔をおおう。また涙がこぼれた。   「泣けるうちに泣いておきな。そのうち涙なんて|涸《か》れちまうからサァ」   きゃらきゃらと声高く猿は笑った。笑い声が遠ざかっていくのを耳にして、陽子は顔をあげた。   「──待って!」   おいて行かれたくない。たとえ得体のしれない相手でも、こんなところにひとりで話す相手もなしに途方にくれているよりはずっといい。   しかし、顔をあげた先に猿の姿は見えなかった。まっくらになった闇の中に高笑いだけが遠ざかり遠ざかりしつつ、いつまでも響いていた。   8   ──痛みなら、一瞬ですむ。   その言葉は胸のなかに重く沈んで、どうしても忘れることができなかった。   陽子は何度も膝の上にのせた剣に眼をやる。あるかなしかの光を|昏《くら》く|弾《はじ》いて、冷たく|硬《かた》いものが横たわっている。   ──痛みなら……。   思考がそこで立ち止まる。頭をふって払い落としても、いつの間にかそこに戻っている。   戻ることも進むこともできずに、陽子はただ刀身をながめる。   やがてそれがかすかに光を放ち始めて、陽子は目を見開いた。   ゆっくりと、夜目にも白く刀身の形が浮かびあがる。手にとってかざしてみる。自らが放った光で鋭利なきらめきを作ったその剣は、両刃のさしわたしが中指の長さほどもある。その刃にふしぎな色が|躍《おど》って、陽子は目をこらした。   なにかが映っているのだと悟り、自分の顔だろうと納得しかけ、そうしてそうではないのに気づいた。刃になにかが映っていることはまちがいないが、それは陽子の顔などではない。刀身を近づけてよくよく見ると、人影だった。誰かが動いている姿が映っている。   高く水の音がした。|洞窟《どうくつ》の中で水滴が水面を叩くような音には聞き覚えがあった。刃に映った人影は、目をこらすうちにどんどん鮮明になってくる。波紋を描いた水面が水の音とともに落ちついてしっかりと像をむすぶような、そんなふうに見えた。   人だった。女で、どこか部屋の中を動いている。   そこまで見て取って、陽子の目に涙が浮かんだ。   「……お母さん」   そこに映っているのは母親で、その部屋は陽子の部屋にまちがいなかった。   白地にアイボリーの模様が入った壁紙、小花模様のカーテン、パッチワークのベッドカバー、棚の上のぬいぐるみ、机の上の『長い冬』。   母親はうろうろと部屋の中を歩いては、そのあたりのものに触れる。本を手に取り、ページをかるくめくり、机の引出しを開けて中をのぞきこみ、かと思うとベッドに腰をおろしてためいきをつく。   (お母さん……)   母親はどことなくやつれたように見えた。沈んだ顔色に陽子は胸が痛くなる。   きっと陽子を心配している。あちらを|発《た》って、すでに二日がたった。一度だって夕飯の用意に遅れたこともなければ、行く先を告げずに出かけたこともないのに。   ひととおりそのあたりのものをいじった母親は、やがてベッドに座りこんだ。壁際にならべたぬいぐるみを取ってかるく叩く。そうしてそれをなでながら、声を殺して泣きはじめた。   「お母さん!」   まるで目の前にいるようで、陽子は思わず叫んだ。   叫んだとたんに風景がとぎれる。ふと我に返ったように目の焦点を合わせると、そこには一振りの剣。すでに輝きをなくして、刃に影は見えない。水の音もやんでいた。   「──なんだったの」   今のはいったいなんだったのだろう。まるで現実のようにリアルに見えた。   陽子はもう一度剣を目の前にかざす。じっと刃に目をこらしても、もう影は見えなかった。水の音も聞こえない。……水滴の音。   陽子はふと思い出す。   あれは夢の中でも聞いた音だった。ひと月続いたあの夢の中、かならず高い水滴の音がしていた。あの夢は現実になった。──では、今見た幻影は?   考えてもわからなくて、陽子は首をふる。母親の姿を見てしまえば、ただもう帰りたくてたまらなかった。   陽子は猿の消えた方角を見やった。   帰れない、|罠《わな》だ、と認めればすべての希望が失われてしまう。   罠ではない。きっとケイキが助けてくれなかったのだって、陽子を見捨てたからではない。きっとなにか事情があったのにちがいない。   ──いや、そもそもはっきり顔を見たわけではない。あれがケイキだったというのは、陽子の勘違いだったかもしれない。   「きっと、そうだ」   ケイキに似ていたが、あれはケイキではなかった。ここにはさまざまな色の髪を持った人間がいる。金髪でケイキだと思ったが、しっかり顔を確認したわけではない。そう思ってみるとあの人影は、ケイキよりもすこし小さかったような気がした。   「そうよ、そうなんだわ」   あれはケイキじゃない。ケイキが陽子を見捨てるなんてことはありえない。だからケイキを探しさえすれば、きっと帰れる。   |堅《かた》く堅く|柄《つか》をにぎりしためとき、ふいに背筋をぞろりとしたものが走った。   「ジョウユウ?」   体が勝手に起きあがる。剣から上着をほどいて身構えようとする。   「……なに?」   返事がないことは承知で問いかけながら、陽子は周囲に目を配った。鼓動が速まる。ざわ、と下草をかき分ける音が正面からした。   ──なにかが来る。   ついで、聞こえたのはうなり声だった。犬がほかを|威嚇《いかく》するときに出す音。   ──あの連中。   馬車を襲った連中だろうか?   なんにしても、こう暗くては戦うのには不利だ。陽子はそう考えて背後に目をやる。どこかすこしでもあかるいところへ行きたい、と足をかるく踏み出すと、ぞろりとした感触がそれを助けた。陽子は駆け出す。同時に背後で、なにか大きなものが草むらをかき分けて突進してくる音が聞こえた。   陽子は暗い林の中を駆ける。追っ手の足がじゅうぶんに速いようなのに追いつかれることがなかったのは、どうやらあまり機敏な相手ではなかったからのようだった。   |幹《みき》から幹へ伝うようにして走ると左右にふりまわされる音がする。ときおり幹にぶつかるらしい音さえ聞こえた。   光の見える方向に走って、陽子は林から飛び出した。   山の中腹の木立が切れてテラスのように張りだしたところだった。白々とした月光に照らされて、眼下になだらかな山の連なりが一望できる。平野でなかったことに舌打ちしながら背後に向かって身構える。盛大な音をたてて大きな影が飛び出してきた。   それは牛に似ていた。長い毛並みをまとっていて、それを呼吸といっしょに逆立てる。犬のような声で低く|唸《うな》った。   驚きも恐怖も感じなかった。鼓動は速いし、息も喉を|灼《や》くようだが、それでもすでに|異形《いぎょう》のものに対する|畏《おそれ》が薄れていた。ジョウユウの気配に注意を向ける。身内で|潮騒《しおさい》に似た音がする。これ以上返り血を浴びるのはいやだな、とそんなことをのんきに考えた。   いつの間にか月が高い。|冴《さ》え冴えと白い光を浴びて刃がさらに白かった。   その白刃が夜目には黒く染まって、三撃で大きなバケモノは横倒しになった。歩み寄ってとどめを刺すあいだに、周囲の林の暗がりのなかに、赤く光る目が集まっているのを見てとった。   あかるい場所を選んで歩きながら、幾度となく襲ってくる妖魔と戦わなくてはならなかった。   長い夜のあいだに何度も襲撃を受けて、バケモノはやはり夜に出没するものなのだと悟る。ひっきりなしというわけではなかったが、珠の力を借りても疲労はたまっていく。|人気《ひとけ》のない山道に夜明けが訪れたときには、剣を血に突き刺し、杖のかわりにしても歩くことがつらかった。   あかるくなりはじめると同時に襲撃は間遠になり、朝の光が射したころには完全に止んだ。そのまま道端で泥のように眠ってしまいたかったが、人に見つかっては危険だ。なえた手足を引きずるようにして動かし、道のわきの林のなかに|這《は》いこんだ。山道からさほど遠くもなく近くもない場所にやわからな茂みを見つけて、そこで剣を抱いて墜落するように眠りについた。   三章   1   夕方近くに起きて、あてもなく歩き、夜を|戦《たたか》って過ごす。寝る場所は草むらで、食べるものはわずかの木の実で、それで三日を数えた。   疲労が大きいのでそんな場所でも眠れないということはなかったが、それでも|飢餓《きが》は深い。|珠《たま》をにぎっていればどうやら|飢《う》えて死ぬことはないようだったが、それで空腹が満たされるわけではなく、胃のなかに身内を|噛《か》む虫を無数に飼っているような気が、陽子にはした。   四日目になって、ただあてもなく歩きつづけることに見切りをつけた。   なにかに──それがなにかは陽子もわからない──突き当たりはしないだろうかと思って歩きつづけ、ただ歩くだけではなにひとつ進展がないことを認めないわけにはいかなかった。   ケイキを探さなくてはならない。探すためには人のいる場所へ行かなくてはならない。しかし、|海客《かいきゃく》だと知れればまたつかまって、同じことがおこるのにちがいない。   陽子は自分の姿を見下ろした。   どこかでせめて着るものを手に入れる必要がある。着るものなりとも変われば、一見して陽子が海客だとばれることはないかもしれない。   問題は着るものを手に入れる方法だった。   こちらの通貨がなんなのかは知らないが、陽子には所持金がない。買うことは不可能だった。だとすれば方法は限られている。剣にものを言わせておどし取るか、あるいは盗み取るか。   着るものの問題には早くから気づいていたが、盗みを働く勇気が陽子にはなかった。四日あてもなく山をさまよって、ようやく決心がついた。   陽子は太い|幹《みき》の影から、間近に見える小さな村落に目をやった。貧しいたたずまいの家が谷間の中程に密集している。|陽《ひ》はまだ高く、遠目に見える|田圃《たんぼ》に人影がある。住人はきっと、農作業をしている最中だろう。   意を決してそろそろと林を出た。集落の一番近くに見える家に近づいてみる。|塀《へい》のようなものはなくて、周囲を小さな畑に囲まれている。黒い|瓦《かわら》の屋根、半分|剥《は》げかけた白い土壁。窓らしき穴があいているが、ガラスは入っていない。|鎧戸《よろいど》のように板戸がついていたが、どれも開いたままになっていた。   陽子は周囲に注意をはらいながら建物に近寄る。最近ではどんなバケモノを見ても震えないのに、歯を食いしばっていなければ奥歯が鳴るのをとめられなかった。   そっと窓から中をうかがうと、小さな土間に|竈《かまど》とテーブルがあるのが見えた。ダイニング・キッチンという感じだった。人影は見えず、耳をすましても物音もない。   足音を殺して壁伝いに歩き、井戸のそばに戸口らしい板戸を見つけて手をかけてみる。ドアのように引いて開く板戸は難なく動いた。   息を殺して中をうかがい、それでようやくこの家が無人なのだと確認する。かるく息を吐いて陽子は家のなかに入った。   六畳ていどの土間の部屋だった。質素なつくりだが「家」の匂いがする。四方に壁があって家具があって生活の道具があって。それだけのことが泣きたいくらいなつかしかった。   この部屋にあるのは棚がいくつかだけだと見てとって、陽子はたったひとつあったドアに近づく。そっと開けてみると、中は寝室のようだった。いつか牢獄にあったのよりいくらかましな寝台が部屋の両端にふたつあり、棚や小卓や大きな木箱がおいてある。どうやらこの家にある部屋はこの二間きりのようだった。   窓が開いているのを確認し、陽子は部屋のなかに入ってドアを閉じる。まっさきに棚をあらため、そこにたいしたものはないのを確認してから、ついで木箱の|蓋《ふた》を取った。   大型のテレビぐらいの大きさをしているその箱を|空《から》にして、そこに入っているのは雑多なものを入れた小箱がいくつかとシーツや薄い|布団《ふとん》、陽子にはとうてい着られそうもない子供用の着物だけだとわかった。   着るものがないはずはないのに、とあらためて部屋を見わたしたとき、隣の部屋のドアが開く音がした。   陽子は文字どおり跳びあがった。一気に鼓動が跳ねあがる。ちらりと一瞬窓のほうを見たが、そこまでは恐ろしく遠く感じる。ドアの外の相手に気づかれずに、そこまで移動するのは不可能なことに思えた。   ──来ないで。   軽い足音が隣の部屋を動きまわって、そしていきなり寝室のドアが動いた。ついに身動きできなかった陽子は、箱の前、布が散乱したなかに|呆然《ぼうぜん》と立っていた。反射的に剣の|柄《つか》をにぎろうとしたが、やめた。   生きのびるために必要だから盗みに入った。いなおって剣でおどすことは簡単なことだけれど、相手がおびえなければ剣を使わなくてはならない。人に向かって剣は振れない。だとしたらこれが命運というものだろう。陽子は生きのびるための|賭《か》けに負けたのだ。   ──痛みなら、一瞬ですむ。   ドアが開いて中へ踏みこもうとした女が|痙攣《けいれん》するように震えて硬直した。中年にさしかかったばかりという年頃の大柄な女だった。   逃げる気にはなれなかった。それでだまって立っていた。すとんと気分が落ちついた自分を感じる。つかまってこづかれながら県庁に送られ、そこでしかるべき刑罰を受ける。それでぜんぶがおわりになれば、ようやく|飢《う》えも疲労も忘れることができるというものだ。   女は陽子と足元に散らばった布を見くらべ、そうして震える声で言った。   「うちには盗む値うちのあるものなんて、ないよ」   陽子は女が叫びだすのを待っていた。   「……それとも着るもの? 着物がほしいのかい?」   陽子は困惑し、ただだまっていた。女はその様子から肯定を感じとったのだろう、部屋のなかに入ってきた。   「着るものならここだよ」   女は陽子の間近を通って寝台に近寄り、|膝《ひざ》をついた。広げてあった布団をめくると、寝台の下が引き出しになっていた。   「その箱の中はつかわないものばかりなのさ。死んだ子供の着物とかね」   言いながら引き出しを開けて、なかの着物を引っ張り出しはじめた。   「どんな着物がいい? あたしのものしか、ありゃしないんだけど」   女は陽子をふりかえる。陽子は目を丸くした。答えられずにいると女は勝手に着物を広げはじめる。   「娘が生きてりゃよかったんだろうけどね。どれもこれもあんたにゃ、じみかね」   「……なぜ」   ぽつり、と声がもれた。   どうしてこの女は騒ぎ出さないのだろう。どうして、逃げださないのだろう。   「なぜ?」   女がふりかえったが、陽子にはその先の言葉が見つけられなかった。女はわずかに|強《こわ》ばった顔で笑い、それから着物を広げる作業を続ける。   「あんた、|配浪《はいろう》から来たんだろう?」   「……ええ」   「海客が逃げた、って大騒ぎさ」   陽子はだまりこむ。女は苦笑した。   「頭の固い人間が多くてねぇ。海客は国を滅ぼすだの、悪いことがおこるだの。|蝕《しょく》がおこったのまで、まるで海客がおこしたといわんばかりだからお笑いさ」   言ってから陽子を上から下まで見る。   「……あんた、その血、どうしたんだい?」   「山の中で、|妖魔《ようま》が……」   それ以上は言葉にならない。   「ああ、妖魔に襲われたのか。最近、多いからね。よくぶじだったねぇ」   女はそう言って立ちあがる。   「とにかくお座り。ひもじくはないかい? ちゃんとものは食べていたのかい。ひどい顔色をしているよ」   陽子はただ頭をふった。自然に頭が下がった。   「とにかくなにか食べるものをあげようね。湯を使って汚れを落として。着物のことはそれから考えよう」   女はいそいそと隣の部屋に戻ろうとする。動けない陽子をドアのところからふりかえった。   「あんた、名前は?」   答えようとしたが、声が出なかった。次から次へ涙がこぼれてその場にうずくまった。   「かわいそうに」   女の声がして、温かなてのひらが陽子の背中を叩いた。   「かわいそうに、つらかったろうね」   こらえていたものがどっとこみあげ、|嗚咽《おえつ》になって喉を突き破った。その場に胎児のように丸くなって、声をあげて泣いた。   2   「とにかくこれに、着がえなよ」   女は|衝立《ついたて》の陰から白い着物を渡してくれた。   「泊まっていくだろ? とりあえず寝間着を着ておいで」   陽子は深く頭を下げる。   女は泣きじゃくる陽子をなぐさめてくれて、|小豆《あずき》の入った甘いお|粥《かゆ》を作ってくれて、そうして大きな|盥《たらい》に湯を張って、風呂の用意をしてくれた。   長いあいだ苦痛を訴えつづけていた飢えがおさまって、熱いお湯で身体を洗って、清潔な寝間着に|袖《そで》を通すとそれでようやく人間に戻った気がする。   「ほんとうに、ありがとうございます」   風呂を使っていた衝立の陰を出て、陽子はあらためて頭を下げる。   「……申し訳ありませんでした」   陽子はこの女からものを盗み取ろうとしていたのだ。   まっすぐに見てみると、女の目は青い。その|碧眼《へきがん》をなごませて女は笑った。   「いいんだよ、このくらいのこと。それより暖かいものでもおあがり。これを飲んで、今夜はゆっくりと寝るといい。布団を出してあげたからね」   「すみません」   「いいんだって。それより、その……悪いけど剣をしまわせてもらったよ。どうも心臓に悪くって」   「はい……。すみません」   「あやまりっこなしだ。それより、名前を聞きそびれたままだったね」   「中嶋陽子です」   「さすがに海客の名前は変わってるや。あたしはタッキってみんな呼ぶね」   言いながら、彼女は陽子に湯飲みをさしだした。陽子はそれをうけとり、   「タッキ? どんな字を?」   達姐《たっき》、と女は指でテーブルに文字を書いた。   「ところで陽子は、これから先のあてがあるのかい?」   聞かれて陽子は首をふった。   「なにも……。達姐さん、ケイキという人を知らないでしょうか」   「ケイキ? あたしの知り合いにゃいないが。──人探しかい?」   「はい」   「そりゃ、どこの人? |巧国《こうこく》の?」   「こちらの人だとしか……」   達姐は苦笑した。   「それだけじゃねぇ。せめてどの国のどのあたりか、それくらいはわからないと」   陽子はうつむいた。   「あたし、まったくこちらのことがわからないものだから……」   「そうだろうね」   言ってから達姐は湯飲みをおく。   「こちらには国が十二、ある。ここはそのうちの南東の国だ。巧国っていう」   陽子はうなずいた。   「|陽《ひ》の昇るほうが東?」   「そうだよ。そうして、ここは巧国の東だ。|五曽《ごそ》っていう。ここから北に十日ほど歩くと、高い山に出る。そこを越えた向こうが|慶国《けいこく》だね」   陽子は達姐が机の上に書いた文字を見すえる。   「|配浪《はいろう》は東の海岸に、ここからまっすぐ東に行ったあたりだ。街道沿いに歩いて五日ってとこだね」   まったく|把握《はあく》が不可能であったものがようやく形を現してきて、やっとひとつの世界にいるのだという気がした。   「巧国はどのくらいの広さがあるんですか?」   達姐は困惑したように首をかしげる。   「どのくらいと聞かれてもね。そうだね、この巧国を東西に端から端まで歩いて、三ヶ月ってとこかね」   「……そんなに?」   陽子は目を見張った。歩いて、という時間の単位はよく把握できないが、東京都を横断しても七日かかるとは思えない。   「そりやあ、そうさ。かりにもひとつの国なんだから。南北に歩くのにも、そのくらいはかかる。隣の国に行くには山か海を越えなきゃならないから、四ヶ月近くの旅になるね」   「……そてし、十二国……」   「そうだよ」   陽子は目を閉じた。わけもなく箱庭のような世界を想像していた自分に気がついた。この広大な場所で、たったひとりの人間を探せというのか。なんの手がかりもなく、ケイキという名前だけで。ただこの世界を一周するだけで、四年はかかるというのに。   「そのケイキという人は、どういう人なんだい?」   「……わかりません。たぶん、こちらの人だとしか。あたしをこちらへつれてきた人なんです」   「つれてきた?」   「はい」   「へえぇ、そういうこともあるんだねぇ」   達姐は感心したように言った。   「珍しいことなんですか?」   「あたしはあんまり学がないんでね」   達姐は苦笑する。   「海客についてもくわしくないのさ。海客なんて、めったにお目にかかるものでもなし」   「……そうなんですか」   「そうだよ。──なんにしても、そりゃあ、普通の人間じゃないだろう。あたしたちにはできないことだからさ。神さまの仲間か仙人か、人妖か……」   陽子はキョトンと達姐を見返した。達姐は|笑《え》みを浮かべる。   「あちらに行くとか、人をつれてくるとか、普通の人間にできることじゃないんだよ。普通の人間じゃないとなれば、神仙か妖魔だってことになるね」   「妖魔がいるのはわかりますけど……神さまや仙人もいるんですか?」   「いるね。あたしたちには縁のない上の世界のことだけど。神も仙人も上で暮らす。めったに下には下りてこない」   「上?」   「空の上さ。下にいる仙人もいないじゃないけどね。|州侯《しゅうこう》がそうだね」   陽子が首をかしげると達姐は苦笑する。   「それぞれの州には領主がひとりいる。ここ|淳《じゅん》州なら淳候だ。王から候に任ぜられて、淳州を治めている。州侯ともなれば普通の人じゃない。不老長寿で、神通力をあやつったりする。まあ、べつの世界の人だねぇ」   「それじゃ、ケイキもそういうひとなんでしょうか」   「さてね」   達姐はさらに苦笑した。   「仙人というなら、国のえらい役人もそうだし、王宮で働くものは小間使いにいたるまでみんな仙人さ。人は空の上には行けない。王宮は上にあるから、そういうことになるね。王なら神の一族だ。仙人は王が任命する。それ以外にも自力で昇仙する奴もいるけどね、そういうのはだいたい世捨て人だ。なんにしてもあたしたちとは別の世界の人だし、あうこともありゃしない」   陽子は達姐の言葉をたんねんに頭の中へしまいこむ。どんな知識も重要だった。   「海には竜王がいて海の中を治めるというけれど、ほんとうのことか、おとぎ話かは知らない。ほんとうに|竜国《りゅうこく》があるんだったら、そこの人間も普通の人じゃないんだろうさ。そのほかにも妖魔のなかに人の形になれるものがいるそうだ。人妖っていうんだが。たいがいは人に似てるってだけだが、なかには普通の人間と区別がつかない姿に化けられるものもいる」   達姐は言って|土瓶《どびん》から冷めたお茶をつぎたした。   「この世界のどこかに妖魔の国があるというけど、ほんとうかどうかはわからない。人と妖魔も、結局のところ別の世界の生き物だからね」   陽子はうつむいた。情報は増えたのに、事態はかえって|混沌《こんとん》としてきた気がする。   ケイキは人ではないという。では、いったい何者だったのだろう。ハンキョやカイコや、あの奇妙な獣たちは妖魔の一種だろう。だとしたら、ケイキもまた人妖なのだろうか。   「あの……ヒョウキとか、カイコとかジョウユウという妖魔はいますか?」   達姐は不思議そうな顔をした。   「……そういう妖魔は聞いたことがないねぇ。どうしたんだい?」   「ヒンマンとか」   達姐はすこしけげんそうにする。   「|賓満《ひんまん》だろう。戦場や軍隊に出る妖魔だ。身体がなくて、赤い目をしているそうだよ。──なんでそんなもんを知っているんだい」   陽子はすこし身を震わせる。では、ジョウユウは賓満という妖魔なのだ。それが今も自分の身体に|憑依《ひょうい》している。   それを言ったら達姐に気味悪く思われそうで、陽子はただ首をふった。   「……コチョウとか」   「コチョウ」   身じろぎをして、達姐は|蠱雕《こちょう》という文字を書く。   「|角《つの》のある鳥だろう。人を喰う|獰猛《どうもう》なやつだ。蠱雕がどうしたんだい?」   「襲われたんです」   「ばかな。どこで」   「あちらで……。蠱雕に襲われて、あたしは逃げてきたんです。あたしかケイキを|狙《ねら》って現れたみたいで……。身を守るためにはこちらへ来るしかないと、ケイキがそう言って」   「そんなことがあるもんかね」   達姐が低く言う。陽子は重いためいきをつく達姐を見返した。   「なにか変ですか?」   「変だね。どこぞの山に妖魔が出るというだけでも、こっちの人間にはおおごとなんだよ。もともと妖魔ってのは、そうそう人里に出るもんじゃない」   「そう……なんですか?」   目を見張る陽子に、達姐はうなずいて見せる。   「最近はどういうわけか多いけどね。危なくって、日が暮れたから外に出られやしない。蠱雕みたいな獰猛なやつが出るとなったら大騒ぎさ。だけどねぇ」   達姐は難しい顔をする。   「妖魔ってのは猛獣みたいなもんで、特に誰かを狙ったりはしない生き物なのさ。しかもわざわざあちらへ、なんてね。そんな話ははじめて聞いたよ。──陽子はひょっとしたら、なにかおおごとに行きあっちまったんじゃないのかい」   「そうなんでしょうか」   「あたしにゃ、よくわからないけどね。ちかごろ妖魔が多いことといい、どうにもいやな感じだねぇ」   達姐の不安そうな声が陽子までも不安にする。山に妖魔がいることも、妖魔がひとを襲うことも、こちらではあたりまえのことだと思っていたのに。   ──いったい、自分は何にまきこまれているのだろう?   考え込んだ陽子をはげますように、達姐があかるい声を投げてきた。   「そんな難しいことをあたしたちで考えてもしかたないさ。それより、陽子はこれからあてがあるのかい?」   聞かれて陽子は顔をあげる。達姐の顔を見返して首を横にふった。   「……ケイキを探すことしか、あたしにできることはないんです」   たとえケイキたちが妖魔だとしても、彼らが陽子に危害を加えないことは知っている。   「それは時間がかかる。簡単にできることじゃないよ」   「……とりあえず生活しなきゃならないだろ? ここにいてくれてもいいけど、近所の連中に見つかると、また県庁に突き出されることになるよ。|親戚《しんせき》の子だと言えば通るだろうけど、そんなに長い時間はむりだ」   「……そんなご迷惑はおかけしません」   「東に行ったところに|河西《かさい》という街があるんだが、そこにあたしのおっかさんがいる」   陽子は達姐を見返した。達姐は笑う。   「宿屋をやっているんだけどね。おっかさんなら、事情を聞いてもあんたを県庁に突き出したりしない。|雇《やと》ってくれるよ。──働く気はあるかい?」   「はい」   陽子は即座にうなずいた。ケイキを探すのは、とてもむずかしいことだろう。だとしたら、どこかに生活する場所を持っていなければ話にならない。妖魔と戦う夜も、食べるものもなく野宿する夜も、できることならもう終わりにしたかった。   達姐は笑ってうなずく。   「えらいね。なぁに、そんなに大変な仕事じゃない。ほかに働いているのも気のいい子ばかりだし、きっと気にいるよ。──明日には|発《た》てるかい?」   「だいじょうぶです」   よかった、と達姐は笑った。   「だったらおやすみ。ゆっくり休んで。もしも明日起きて旅がつらいようだったら、しばらくここにいていいんだからね」   陽子はうなずくかわりに深く深く頭を下げた。   3   こちらの寝台は畳の上に薄い布団をしいているような感触がした。一度は寝入った陽子は深夜に目を覚ました。   部屋の向かい側にある寝台を見ると、気のいい女は深く眠っている。寝台の上に起きあがって膝を抱くと清潔な肌に清潔な寝間着がサラサラと音をたてた。   音のない深夜、窓の板戸をしめ切った部屋は暗い。重い屋根と厚い壁に守られて、小さな動物のたてる物音が眠りを妨げることもない。空気までが穏やかによどんで、人の眠る場所だという気がしみじみした。   陽子は寝台を下りてダイニングに向かう。棚の中に収めた剣を取り出した。   深夜は起きておくのが短いあいだについた習慣で、すでに|柄《つか》をにぎっていないとなんとはなしに不安を感じた。椅子に腰をおろし、達姐にもらった新しい布を巻いた剣を腕に抱きしめて、そっと息をつく。   |達姐《たっき》の母親が宿を営んでいる|河西《かさい》という街まで、歩いて三日の距離だと聞いた。そこへ着けば陽子はこの世界に居場所を得ることができる。   働いた経験はないが、不安よりも期待が大きかった。達姐の母親はどういう人物だろうか。そこで働く同僚はどんな人たちなのだろうか。   建物の中で眠って朝には起きて、一日を働いて夜には眠る。働きはじめれば仕事のことよりほかに考えられなくなるだろう。ひょっとしたらあちらの世界の家に帰ることも、ケイキを探すこともできないかもしれなかったが、それでもかまわないという気が、今はしていた。   やっと足場を見つけて陽子はうっとりと目を閉じる。   額を当てた布の下で高く澄んだ音がしたのはそのときだった。   陽子はあわてて剣を見る。巻きつけた布の下で淡い光がともっているのが目に入った。おそるおそる布をほどくと、刀身がいつかの夜のように淡く輝いている。その刃に薄く小さな影が見えた。   ぼやけた目の焦点が合うようにして、影が実像を結んだ。まるで映画でも見るように陽子の目の前に現れたのは、陽子自身の部屋だった。手を伸ばせば触れそうなほどリアルだけれど、決して現実ではない。げんに|洞窟《どうくつ》に反響するような水の音が絶え間なく続いている。   刀身に見えたのは、例によって母親の姿だった。陽子の部屋の中をウロウロとさまよっている。   母親は部屋の中を歩き回り、引き出しを開け、棚をいじる。なにかを探すようにそれを続ける。何度目かに整理ダンスの引き出しを開いたとき、部屋のドアが開いて父親が現れた。   「おい。風呂」   父親の声がはっきりと聞こえた。   母親はチラと視線を向けて、そのまま引き出しをあらためる。   「……どうぞ。お湯なら入ってます」   「着がえは」   「そのくらい、出してください」   母親の声には|棘《とげ》が含まれている。それに対する父親の声にも棘があらわだった。   「こんなところでグダグダしていても、しかたがないだろう」   「グダグダしているわけじゃないわ。用があるの。着がえくらい、自分で出してください」   父親は低い声で言う。   「陽子は出ていったんだ。こんなところでいつまでもウロウロしていたって、帰ってくるわけじゃない」   (出ていった?)   「出ていったんじゃないわ」   「家出したんだ。学校に妙な男が迎えに来ていたそうじゃないか。ほかにも外に仲間がいて、窓ガラスを割ったんだろう。陽子は隠れて妙な連中とつきあっていたんじゃないのか」   「そんな子じゃありません」   「おまえが気がつかなかっただけだろう。陽子の髪だって、実は染めてたんじゃないのか」   「ちがいます」   「子供が不良の仲間に入って、あげくに家を出て行くなんてことは、|掃《は》いて捨てるほどあることだ。そのうち家出にあきたら帰ってくる」   「あの子はそんな子じゃないわ。わたしはそんな育て方はしてません」   にらむ母親を父親もにらみ返した。   「どこの親もそういうんだ。学校に押し入った男も髪を染めてたらしいし、おおかたそういう連中とつきあってたんだろう。あの子はそういう子だったんだ」   (お父さん、ちがう……!)   「ひどいことを言わないで!」   母親の言葉にはうらみがこもる。   「あなたになにがわかるの。仕事、仕事って、子供のことはぜんぶわたしに押しつけて!」   「それでもわかる。父親だからな」   「父親? 誰が?」   「|律子《りつこ》」   「会社に行ってお金を持って帰ってくれば父親なの? 娘が姿を消しても、会社も休まなきゃなにをするでもない。そういう人が父親なの!? そういう子だった、ですって? 陽子のことを知りもしないで勝手なことをいわないで!!」   父親は怒るよりも先に驚いていた。   「すこし落ちつけ、バカ者」   「わたしは落ちついてます。今までにないくらい落ちついてるわ。陽子が大変なときなんですもの、わたしがしっりしなくてどうするんですか」   「おまえにはおまえの役目があるだろう。落ちついてるんだったら、やることをやって心配をしろ」   「……着替えを出すのが役目なの? 子供の心配をするよりも優先しなきゃいけない、たいそうな役目なの!? あなたって人は、自分のことしか考えてないのね!」   怒気で顔を真っ赤にして黙りこんだ父親を、母親は見すえる。   「そんな子だった、ですって? あの子はずっと、いい子だったでしょう。口答えをしたことも反抗したこともない。おとなしい素直な子だわ。心配をかけたことなんて、一度だってない。わたしにはなんでも話してくれた。家出なんかする子じゃないわ。あの子は家に不満なんてなかったんですからね」   父親はそっぽを向いて黙っている。   「陽子は学校に|鞄《かばん》を残したままなのよ? コートだって残ってた。それでどうして家出なの? なにかあったのよ。そうとしか考えられないでしょう」   「だったらどうした」   母親は目を見開く。   「どうした、ですって?」   父親は苦々しげに答える。   「なにか事件に巻き込まれたとして、それでおまえがなにをしよというんだ。警察にだってちゃんと届けたろう。私たちがここで右往左往して、それで陽子が帰ってくるのか」   「なんなの、その言いぐさは!」   「事実だろうが! それともビラでも電柱に貼るのか。そんなことをして、陽子が帰ってくるのか。──はっきり言ってやるが」   「やめて」   「家出じゃなくて、なにかの事件に巻きこまれたなら、陽子はもう生きてない」   「やめてください!」   「ニュースで見てわかってるだろう。こういう例で生きていたためしがあるか! だから家出だといってやってるんだろうが!!」   母親が泣き崩れた。父親はその姿を見やって乱暴な足取りで部屋を出ていく。   (お父さん、お母さん……)   見ていることがあまりにつらかった。   風景がぼやけて思わず目を閉じ、頬に涙がこぼれたのを感じて目を開けると、視界は澄んで、すでに幻は見えなかった。   目の前には光を失った一振りの剣。すでに光を失った剣を陽子は力なくおろした。   涙が止まらなかった。   4   「……あたし、死んでない」   死んだほうがましかもしれない状況だが、それでもとりあえず生きてはいる。   「家出なんか、してない……」   どんなに家に帰りたいか。どれほど両親と家がなつかしいか。   「お父さんとお母さんがケンカするの、はじめて見たなあ……」   陽子はテーブルに額を当てて目を閉じる。次から次へ涙がこぼれた。   「……バカみたい……」   今見たものがなんだかわかりもしないのに。真実だとは限らないのに。   陽子は身をおこし、涙をぬぐって剣に布を巻く。これはどうやら剣の見せる幻影らしい。真偽のほどはわからない。それなのに、真実にちがいないという直感がはたらいた。   せつなくてせつなくて、たちあがった。裏口を開けて夜のなかにさまよい出る。   空は満点の星、しかしながら陽子の知っている星座は見えなかった。もともと星座を鑑賞する趣味はない。ひょっとしたらようこにはわからないだけなのかもしれなかった。   井戸端に座りこんだ。冷えた石の感触と冷たい夜風がすこしだけ気分をなぐさめた。|膝《ひざ》を抱いてうずくまっていると、ふいに背後から声がした。耳に刺さるようないやな声だった。   「帰れないよォ」   ゆっくり背後をふりかえると、しっかりした石で作られた井戸の縁に、|蒼《あお》い|猿《さる》の首が見えた。まるで切断されて石の上にすえてあるように、身体のない首だけが石の上で笑っている。   「まだあきらめてなかったのかい。おまえは帰れないんだよォ。帰りたいだろ? 母親に会いたいだろ? いくら願っても帰れやしない」   陽子は手探りをしたが、剣を持っていなかった。   「だから言ってるのによォ。自分の首を|刎《は》ねちまえよ。そうしたら楽になるからサァ。恋しいのもせつないのも、ぜんぶ終わりになるんだぜ」   「あたしはあきらめない。いつか帰る。それがずっと先のことでも」   きゃらきゃらと猿は笑った。   「好きにするサァ。──ついでに教えてやるけどな」   「聞きたくない」   陽子は立ちあがった。   「いいのかい、聞かないで? あの女はナァ」   「達姐さん……?」   ふりかえった陽子に向かって猿は歯を|剥《む》いた。   「あの女は信用しないほうがいい」   「……なに、それ」   「おまえが期待しているほど、善人じゃないってことサァ。よかったなぁ、飯のなかに毒が入ってなくてナァ」   「いいかげんにして」   「おまえを殺して身ぐるみ|剥《は》ごうって|魂胆《こんたん》か、おまえを生かして売り飛ばそうって魂胆か、どっちにしたってそんなもんサァ。それをありがたがっているんだからなナァ。甘い、甘い」   「ふざけたこを」   「オレは親切で言ってんだぜェ? まだわからないのかい。ここにはおまえの味方なんていやしないのさァ。おまえが死んでも気にしない。むしろ生きてちゃ迷惑だからな」   陽子は猿をにらみすえる。猿はそれに対してきゃらきゃらと笑ってこたえた。   「だから言ってるのに。痛いのだったら、一瞬ですんだのにサァ」   大笑いしてから、猿は|凄《すご》みのある顔をする。   「悪いことは言わないから、|斬《き》っちまいな」   「なに……」   「あの女を斬って、あり金持って逃げるのサァ。|往生際《おうじょうぎわ》悪く生きる気があるんだったら、そうしたほうが身のためだぜ」   「いいかげんにしろ!」   きゃらきゃらと狂ったように笑って、猿はかきけすように消えた。いつかの夜のように耳に刺さる笑い声だけが遠ざかってゆく。   陽子はその方角をただ、にらみすえていた。なんのうらみがあっての中傷だろう。   ──信じない。   あんなバケモノの言うことなど決して信じたりしない。   翌朝、陽子は身体をゆすられて目を覚ました。   目を開けるとそこは粗末な部屋のなかで、大柄な女が困ったように陽子をのぞきこんでいる。   「目が覚めたかい? 疲れてるようだけど、とにかく起きてご飯をお食べ」   「……すいません」   陽子はあわてて身をおこす。達姐の表情を見れば、自分がかなりのあいだ眠りこけていたのがわかる。   「謝ることはないさ。どうだい? 出かけられそうかい? それとも明日にしようかね」   「だいじょうぶです」   起き上がってそう答えると、達姐は笑う。それから自分の寝台を指さした。   「着るものはそこだよ。着方はわかるかい?」   「たぶん……」   「わからなかったらお呼びね」   言って達姐は隣の部屋に消える。陽子は寝台を下りて、彼女がそろえてくれた着物を手に取った。   |紐《ひも》でくくりつける|踝丈《くるぶしたけ》のスカートと、短い着物のようなブラウス、同じく短い上着でひとそろいだった。初めて身につける衣服は落ちつかない気分にさせる。何度も首をひねりながらそれを身につけて隣の部屋に行くと、テーブルの上に朝食がならんでいた。   「おや。よくお似合いだ」   達姐はスープの入った大きな|器《うつわ》を置きながら笑う。   「すこし、じみかね。若いころの着物があればよかったんだけどね」   「……とんでもない。ありがとうございます」   「あたしにはちょっと派手なのさ。どうせそろそろ人にあげようと思ってた。──さ、ご飯にしよう。うんと食べておきなよ。これからずいぶん歩かなきゃならないんだからね」   「はい」   陽子はうなずいて頭を下げ、テーブルについた。|箸《はし》を手にとるとき、一瞬だけ昨夜の猿が言った言葉を思いだしたが、現実味を感じなかった。   ──良い人だ。   |匿《かくま》ったことがわかれば、それなりの|咎《とが》めもあるだろうに、ほんとうによくしてくれる。疑っては罰があたるというものだろう。   5   昼過ぎには|達姐《たっき》の家を出た。   そこから|河西《かさい》までの道のりは驚くほど楽しい旅になった。最初の頃こそ人に会うたびにビクビクしたが、達姐に言われて髪を染めたせいもあってか、誰ひとり陽子の素性を怪しまないことに慣れてからは、あちこちで人に会うことさえ楽しみになった。   国は古い中国のようなたたずまいをしていたが、そこに住む人のなかにはいろんなタイプの人間がいた。顔立ちこそ誰もが東洋人に見えたが、髪や肌の色はさまざまだった。   肌の色は白人のような白から黒人のような黒まであったし、目の色も黒から水色までさまざま、髪の色にいたってはほんとうに千差万別だった。なかには|紫《むらさき》がかった赤毛や青みがかった白髪まであって、もっとも変わった場合には染め分けたように一部の色だけちがっていたりした。   最初は奇妙に感じたが、すぐになれた。なれてみれば、変化があって面白い。ただ、ケイキのような純然たる金髪というのは見かけなかった。   服装は古い中国風、男は上着と丈の短いズボン、女は長いスカートが基本のようだった。ときどき、東洋風であることだけは確実だが、どこの国のどの時代風ともいえない服装をした旅人のグループがいたりしたが、それは旅芸人なのだと達姐が教えてくれた。   陽子はただ歩くだけでよかった。道は達姐が示してくれ、食事の調達から宿の手配までぜんぶ彼女がやってくれた。むろん陽子には所持金がないので、ぜんぶ達姐の支払いである。   「……ほんとうにすみません」   街道を歩きながら言うと、達姐は豪快に笑う。   「あたしはおせっかいなのさ。気にすることはない」   「なんのお返しもできなくて」   「なぁに。ひさしぶりでおっかさんに会える。あんたのおかげだ」   そういってくれる心根が嬉しかった。   「達姐さんは、|五曽《ごそ》へお嫁にいったんですか?」   「いいや。あそこにふり分けられたのさ」   「ふり分け?」   達姐はうなずく。   二十歳になったら、お上から|田圃《たんぼ》をもらうんだよ。あたしがもらった田圃はあそこだった、ってことだね」   「二十歳になったら、誰もがもらうんですか?」   「そうさ。誰でもね。──亭主は隣に住んでるじじいだ。もっとも子供が死んでから別れたけどね」   陽子は笑った達姐の顔を見返す。そういえば、死んだ子供がいると、この女は言っていた。   「……すみません」   「気にすることはない。あたしの性分が悪かったんだろうさ。せっかくさずかった子供を死なせたんだからね」   「そんな」   「子供は天からさずかるもんだ。天がそれを取り返したってことは、あたしにゃ任せておけないってことだからね。まぁ、人間ができてなかったんだからしかたない。子供がかわいそうだったけどね」   陽子は対応に困ってあいまいに|微笑《わら》う。達姐はすこしだけ|寂《さび》しそうにしてみせた。   「あんたのおっかさんも、今ごろせつない思いをしてるんだろう。早く帰ってやれるといいねぇ」   陽子はうなずく。   「……はい。でも、戻れるんでしょうか。|配浪《はいろう》の長老さんは、戻れないって」   「来れたもんなら帰れるさ。きっとね」   陽子は目をしばたく。屈託のない笑顔が心底嬉しかった。   「……そうですね」   「そうさ。──ああ、こっちだよ」   |三叉路《さんさろ》で達姐は左を示す。街道のかどにはかならず小さな石碑が立っていて、行先と距離を|刻《きざ》んであった。距離の単位には「|里《り》」をつかうらしい。その石碑には「|成《せい》 五里」と刻んである。   日本史の教科書で習った知識によれば一里は四キロのはずだが、こちらの一里はもっとずっと短い。多くても数百メートルといったところだろう。五里ならば、あまり遠くない。   風景は決して豊かなようには見えなかったが、のどかで美しかった。土地は起伏が多く、山は概して険しく高い。遠くに薄く見える山のなかには雲を|衝《つ》くほど高い山もあったが、雪をかぶっている様子はなかった。空はなんだかとても低く見えた。   こちらは東京よりも一足早く春を迎えたところのようだった。|畦《あぜ》には花がちらほらと咲いている。陽子が知っている花もあれば知らない花もあった。   その田園風景のところどころに、小さな家が身を寄せ合うように建っている集落がある。それを「|村《むら》」というのだと、達姐が教えてくれた。|田圃《たんぼ》ではたらく者が住む家なのだと。しばらく歩けば、周囲を高い壁に囲まれたすこし大きな集落に出会う。それは「|里《さと》」といって、近辺の人々が冬のあいだ住む街らしい。   「冬とほかの季節とでは、住む場所がちがうんですね」   「冬は田圃にいてもしかたないからね。冬にも村で暮らす変わり者もいるが、里に戻ったほうがひとがいて楽しい。それに里のほうが安全だしね」   「厚い壁がありますもんね。やっぱり妖魔に備えてあるんですか?」   「妖魔ってのはそう簡単に里を襲ったりしない。むしろ内乱や獣に備えているのさ」   「獣?」   「|狼《おおかみ》や|熊《くま》や。このあたりにはいないけど、|虎《とら》や|豹《ひょう》だっているところにはいる。冬になると山に獲物がなくなるから、人里に降りてくるからね」   「冬のあいだ住む家はどうするんですか? 借りるの?」   「それも二十歳になるとお上がくれる。たいがい売っ払っちまうけどね。村にいってる間、商人に貸す連中もいるけどさ。売って、冬には家を借りる、そのほうが普通だね」   「へえ……」   街はすべて高い城壁に守られていた。街の入り口はひとつだけで、そこには|堅牢《けんろう》な門がある。門には|衛士《えじ》がいて出入りする旅人を監視していた。   いつもは衛士はただ門を守っているだけだと、達姐は言う。旅人のうち、特に赤毛の若い女が呼び止められていたから、配浪から逃げた海客に対する警戒なのだろう。   門を入った中には家が密集し、縦横に走った道には店が並んでいる。街には浮浪者が多かった。街の内壁の下にはテントのような家を建てて生活している人々がいた。   「かならず土地をもらうのに、どうしてなんですか?」   陽子が壁の下を示すと、達姐はすこし|眉《まゆ》をひそめる。   「あれは|慶国《けいこく》から逃げてきた連中さ。かわいそうにね」   「逃げてきた?」   「慶国は今、国が乱れていてね。妖魔や戦争から逃げてきた連中がああして集まっているのさ。暖かくなってきたから、これからもっと増えるだろうよ」   「こちらにも内乱があるんですね」   「あるともさ。慶国だけじゃない。北のほうの|戴国《たいこく》だってそうだ。戴国のほうはもっとひどいって話だよ」   陽子はただうなずいた。こちらに比べれば日本は平和な国だったと思う。ここには戦乱があり、しかも治安は格段に悪い。荷物は片時も離せなかった。ガラの悪い男が声をかけてくることは再三だったし、さらにガラの悪い危険そうな連中に囲まれたこともあった。そのたびに達姐が豪快なタンカを切って陽子を守ってくれた。   そのせいか、人は決して夜の旅をしない。街の門は夜には閉まる。したがって|陽《ひ》が落ちるまでにはかならず次の街にたどりついていなければならなかった。   「ひとつの国から次の国に行くまでに、だいたい四ヶ月近くかかるんですよね?」   「そうだよ」   「歩く以外に旅行をする方法はないんですか?」   「馬や馬車をつかうこともあるけどね。そういうのは金持ちのすることだ。あたしぐらいじゃ一生むりかねえ」   こちらは陽子の知る世界に比べてあまりに貧しい。自動車はもちろん、ガスもなければ電気もない。水道もなかった。それがどうやら、たんに文明が遅れているということのせいだけではなく、こちらには石油や石炭が存在しないことが大きな原因のようだと、話をするうちに推測がついた。   「なのにどうして、よその国のことがわかるんですか? 達姐さんは慶国や戴国に行ったことがあるの?」   まさか、と達姐は笑った。   「|巧国《こうこく》から出たことはないよ。農民はあまり長旅をしないからね。|田圃《たんぼ》があるからさ。よその国のことは芸人に聞くんだ」   「芸人? 旅芸人に?」   「そう。芸人のなかにはね、世界中を回ってる連中がいる。出し物のなかに|小説《しょうせつ》ってのがあってね、それはどこそこでこんなことがありました、っていのを聞かせてくれる。いろんな国の話や、よその街の話なんかをね」   「へぇぇ……」   陽子の住んでいた世界でも、ずっと昔には映画館でニュースをやっていたというし、そんなものなのかしら、と陽子は思う。   なんにしても、疑問に答えてくれるひとがいるのは嬉しかった。陽子にはこの世界のことがなにひとつわからない。わからないままなら不安で怖いが、横に親切なひとがいて、ひとつずつ解説してくれればおもしろかった。   達姐に守られてする旅はなんの造作もなく、あれほどつらいばかりに思われた世界はもの珍しく興味深い世界に変容した。   夜毎に奇妙な幻が訪れ、家がなつかしくて落ち込んだし、あの|蒼《あお》い|猿《さる》も訪れては陽子を不安にさせたが、せつない気分は長続きしなかった。   朝起きて里を出れば珍しいものばかりだったし、達姐はこれ以上にないほど親切にしてくれた。|珠《たま》の力を借りれば歩きつづけることに苦労はない。夜にはちゃんと食事ができ、ちゃんとした宿で眠れるとわかってればなおさらだった。   故国を離れたことはつらいが、少なくとも今は親切な保護者がそばにいてくれる。めぐり会わせてくれた好運に感謝せずにおれなかった。   6   三日の旅はすぐに終わって、陽子をすこしものたりない気分にさせた。三日目にたどりついた|河西《かさい》の街は、川のほとりに大きなビルのような姿で現れた。こちらに来てからはじめて見る、都市らしい街だった。   「へえ……。大きい」   門をくぐりながら周囲を見わたす陽子に|達姐《たっき》は笑う。   「このあたりで河西以上に大きい街となると、|郷庁《ごうちょう》のある|拓丘《たっきゅう》ぐらいしかないね」   郷とは県の一段階広い区分らしい。それがどのていどの規模のものなのかは、よくわからない。達姐もあまりよくは知らないようだった。役所といえば里の里庁、ちょっとおおごとで県庁、それで用がたりるらしい。   門を入った目抜き通りには、大小の店が軒を連ねている。これまで通過してきた里とはちがって店の構えも豪華で大きく、その光景は中華街を思わせた。大きな建物の窓にはガラスが入っているのがひどく印象に強い。夕刻にはまだかなり早く、通りに人の姿は少なかったが、旅人が駆け込む時間帯になれば人でごったがえすのだろうと、想像がついた。   この活気ある都市で生活することになるのだと思うと、すこしだけ気分がよかった。どこかで落ちつけるのなら里でも不満はないが、にぎやかな街ならなお良いことは言うまでもない。   達姐は目抜き通りを折れて、一回り小規模な店の立ちならぶ|一郭《いっかく》に足を向けた。どことなくうらびれた|風情《ふぜい》はあったが、やはりにぎやかなことに変わりはない。|軒《のき》を連ねた店のうち、達姐は比較的立派な建物に入っていった。   建物は緑の柱が|鮮《あざ》やかな三階建ての建物だった。大きな戸口を入った一回は広い食堂になっている。華やかな店構えを見回す陽子をよそに、達姐は対応に出た従業員らしき男をつかまえた。   「|女将《おかみ》さんを呼んでくれるかい。娘の達姐が来たと言ってくれりゃ、わかる」   男は満面に笑みを浮かべて、奥へ消える。達姐はそれを見送って陽子を手近のテーブルに座らせた。   「ここに座っておいで。なにかもらおうね。ここのものはけっこうおいしいよ」   「……いいんですか?」   これまで入ったどんな宿よりも食堂よりも、この店は大きい。   「かまうもんか、おっかさんのおごりだ。なんでも好きなものをおあがりよ」   そうは言われても、陽子にはまだ献立がよくわからない。それを察したように達姐は笑い、店員を呼んで二、三の品を注文する。店員が頭を下げてさがったところで、店の奥から老婆といっていい年頃の女が現れた。   「おっかさん」   達姐は立ちあがって笑みを浮かべる。老婆がそれに嬉しげな笑顔でこたえた。陽子はそれを見守って、気のよさそうな人だと|安堵《あんど》する。彼女が主人ならそんなにつらい仕事ではないだろう。   「陽子はここで待ってておくれね。あたしはおっかさんと話をしてくる」   「はい」   陽子がうなずくと達姐は笑って母親のもとに駆けよる。ふたりは背中を叩きあって笑いあい、そうして店の奥に消えていった。陽子はそれをなんとなく|微笑《ほほえ》んで見送り、達姐がおいていった荷物を手近に引きよせて店の中を見わたした。   どうやら今店の中には女の店員はいないようだった。テーブルのあいだを飛び回っている店員はぜんぶが男で、客もまた男が多い。そのうちの何人かがうかがうように陽子のほうを見ているのに気がついて、なんとなく陽子は落ちつかない気分になった。   すこしして入ってきた男の四人連れは、陽子の近くのテーブルに陣取って露骨に野卑な視線を向ける。何事かを|囁《ささやき》きあっては笑うのがどうにも居心地が悪かった。   店の奥に視線を向けても、達姐が戻ってくる気配はない。しばらくはじっとがまんしていたが、四人組のうちひとりが立ちあがって陽子のほうに歩いてきたのを認めてがまんがならずに立ちあがった。   声をかけてこようとした男を無視して陽子は店員をつかまえる。   「あの……達姐さんはどこに行ったんでしょうか」   店員はただそつけなく奥を示した。行ってみてもいいということだろうかと考えて、陽子は荷物を抱えて奥に向かう。とめる者は誰もいなかった。   奥の細い廊下をたどっていくと、いかにも店の裏舞台らしい雑然とした一角に出た。なんとはなしにうしろめたくてそっと奥へ歩いていくと、きれいな|彫《ほ》り物をしたドアが開いていて、なかを隠すようにすえられた|衝立《ついたて》の向こうから達姐の声が聞こえた。   「そうオドオドおしでないよ」   「だっておまえ、手配されてるあの海客なんだろう」   陽子は足を止める。老婆はどうやら、しぶっているような音声だった。急に不安が首をもたげた。やはり海客では雇ってもらえないのだろうか。   お願いします、と頭を下げに行きたい気がしたが、それは出すぎたまねというものだろう。かといって店に戻るのは心細くてできない。   「海客がなんだい。ちょいとこちらに迷いこんだだけじゃないか。悪いことがおこるだの、そんな迷信をおっかさんも信じてるのかい」   「……そういうわけじゃないが、役人に知れたら」   「だまっていればわかりゃしないさ。あの子だって自分から言いやしないよ。そう考えりゃ滅多にない掘り出しものだろう? 器量だっていいし、年頃だって手ごろなんだからさ」   「けどねぇ」   「育ちだって悪くないようだ。ちょっと客のあつかいを教えれば、すぐにでも店に出せる。それをこれだけで譲ろうってんだ。どうして迷うのさ」   陽子は首をかしげた。達姐の口調はなにかがおかしい。立ち聞きはいけないことだと思いながらも耳をすますことをやめられなかった。耳にひそかな音が聞こえはじめる。|潮騒《しおさい》に似た、かすかな音。   「だって海客じゃ……」   「あとくされがなくていいじゃないか。親や兄弟が怒鳴りこんでくることもない。最初からいない人間と同じなんだから、いろいろと面倒も減るだろう?」   「……それで、あの子はほんとうにここで働く気があるのかえ」   「あるって本人が言ったんだ。あたしはちゃんと宿だって言った。下働きかなにかだと勘ちがいしてるなら、そりゃあの子がバカなのさ」   陽子はただ声に聞き入る。なにかがひどくおかしい。「あの子」とは陽子のことだろう。なのにこれまで陽子を呼ぶときにこめられていた温かみが、かけらも感じられなかった。どうしたというのだろう。声の主は達姐でないかのようだ。   「でも」   「緑の柱は|女郎宿《じょろうやど》だと決まっている。それを知らないほうが悪い。──さ、分別をつけて代金をおよこし」   陽子は目を見開く。ただ荷物を抱きしめて衝撃をやり過ごした。   あの猿はなんと言った。どうして自分はあの忠告にもっと真剣に耳を貸さなかったのだろう。   衝撃でか怒りでか、鼓動が振りきれるほど速い。押し殺した息が熱く喉を|焦《こ》がして、耳を|聾《ろう》するほど荒々しい海鳴りの音がする。   そういうことだったのか、と右手に持った布を巻いた包みを握りしめた。   一瞬のあとには力をゆるめて、かわりにそっときびすを返す。細い廊下を逆にたどり、なんでもない顔を装って店を横切り、外に向かった。   足早に戸口を出てもう一度見あげた店は、柱や|梁《はり》や、窓枠までが緑の塗装をほどこされている。その毒々しい様式に、やっとのことで陽子は気づいた。腕には達姐の荷物を抱えたままだったが、帰しに戻る気にはもちろんなれなかった。   計ったようにそのときに二階の窓が開いた。バルコニー風になった窓の、飾りをほどこした手すりに女がもたれて外を眺める。|艶《あで》やかな着物はしどけないほど大きく|衿《えり》が開かれて、その女の身上があきらかだった。   陽子はひとつ震えた。どっと嫌悪が浮かんだ。見あげる視線に気づいたように陽子を見おろした女は、小バカにしたような笑みを浮かべて窓を閉めた。   7   「嬢ちゃん」   声をかけられて陽子は、あわてて視線を建物の二階から外した。自分の間近に立っているのは、あの四人組のなかのひとりだった。   「おまえ、ここの者か?」   「ちがいます」   無意識のうちに吐き捨てる口調になった。一言答えてきびすを返した陽子の腕を男がつかむ。体を入れかえて前に立ちふさがるようにした。   「ちがうって、おまえ。女がこんなところに飯を食いにくるもんかい」   「連れがこの店の人と知り合いなんです」   「その連れはどうした。おまえ、売られてきたんじゃねぇのか」   男の手が|顎先《あごさき》にかかって、陽子はとっさに叩き落した。   「ちがう。触らないで」   「気が強いなぁ」   男は笑って、つかんだ腕を引きよせる。   「なぁ、俺とどっかに飲みにいかねえか?」   「いやです。手を離して」   「ほんとうは売られてきたんだろう? 逃げようってのを見逃してやってもいいって言ってんだ。え?」   「あたしは」   陽子は男の腕を|渾身《こんしん》の力で叩き落した。   「こんなところで働いたりしない。売られてきたわけじゃない」   言い捨ててその場を去ろうとする陽子の肩をあらためて男がつかむ。それを身をよじって逃げて、さらにつかまえられるより先に剣の|柄《つか》をにぎりしめた。   ひとは身内に海を抱いている。それが今、激しい勢いで逆巻いているのが分かる。表皮を突き破って、目の前の男にそれを叩きつけたい衝動。   「触らないで」   腕を振ると巻いた布がほどける。男がぎょっとしたように身を引いた。   「おい……」   「|怪我《けが》をしたくなかったら、そこをどいて」   男は陽子と剣を見くらべる。すぐに引きつった笑いを浮かべた。   「そんなもん、おまえに使えるのか?」   陽子は無言で剣をあげる。迷わず切っ先を男の喉元に突きつけた。   これが爪だ。陽子の持った鋭利な凶器。   「どいて。さっさとお店に戻れば。お友達が待ってるんじゃない」   すぐ近くで誰かが叫ぶ声がしたが、陽子にはそちらを見る気になれなかった。往来のまんなかで剣をあげれば騒ぎになるだろうと思ったが、今は|気後《おきく》れを感じない。   男は何度も陽子と切っ先を見くらべてから、じりじりとさがる。身をひるがえして店のなかに駆けこもうとしたところで、かんだかい声が響いた。   「その子! その子をつかまえとくれ!」   視線を向けると戸口から叫んでいる|達姐《たっき》の姿が見えた。陽子のなかで苦いものが広がった。それは夢のなかで見た、海に赤いものが広がっていくさまにひどくよく似ていた。   「足抜けだ! つかまえとくれ!!」   吐き気のように嫌悪がこみあげた。それは善人の顔で陽子をだました達姐に向けたものかもしれなかったし、あるいはうかうかとだまされた自分に対するものかもしれなかった。   店の中から周囲から人が集まる。陽子は迷わず剣を構えた。手の中で|柄《つか》を転がし、幅広い刀身を向ける。これで人を殺さずにすむかどうか、それはもうジョウユウしだいだった。少なくとも陽子は今、つかまるくらいなら人殺しも辞さないくらいすさんだ気分になっている。   ──この世界には陽子の味方などいないのだ。   助けだと思った。彼女に感謝し、めぐり会えた好運に感謝した。それが心からの思いだったから、吐き気がするほどいまいましい。   突進してきた男たちを認めて、ぞろりとした感触が手足を|這《は》う。ごく自然に体が動いて前を|遮《さえぎ》るものを排除にかかった。   「つかまえとくれ! 大損だ!!」   ヒステリックな達姐の声に、女をふりかえる。だました者とだまされた者の視線が合った。なにかを叫びかけた達姐はふいに黙る。おじけたように二、三歩さがった。それを冷えた目で見やって、突進してくる男に構える。ひとり、ふたりと体をかわして、三人目を刀身で殴打した。   いつのまにか集まった人間で人垣ができている。人垣の厚みを見て陽子はかるく舌打ちをした。この包囲をほんとうに殺さずに切り抜けられるのか。   「誰か! 礼ははずむよ、つかまえとくれ!」   達姐が地団太を踏んだときだった。   人波のうしろから叫び声が聞こえた。全員がつられたように視線を向けると、あっという|間《ま》に悲鳴混じりの|喧騒《けんそう》が近づいてくる。   「どうした」   「足抜けだとよ」   「ちがう、あっちだ」   ざわ、と人垣がゆれた。   見わたす路地の向こうに、人の波が押し寄せるのが見えた。悲鳴をあげながら、なにかから逃げるように我先に駆けてくる。   「──妖魔」   ぴく、と陽子の手が反応した。   「妖魔が」   「バフク」   「逃げろ!!」   どっと人垣が崩れた。   逃げまどう人の波の中で陽子も駆け出す。すぐに背後から悲鳴が響いて人をなぎ倒しながら駆けてくる獣が見えた。   巨大な虎だった。まるで人そのもののような顔を持っていたが、それはすでに赤い|斑《まだら》に染まっていた。周囲の店に飛び込む人々をよけながら陽子は走る。   すぐに距離を縮められて、しかたなくその場に踏みとどまった。   妖魔の首が人面であることにとまどいながらも|柄《つか》をにぎりなおして構える。突風のような速度で突進してくる巨虎をかわしざまに|渾身《こんしん》の力で剣を払った。   音をたてて鮮血が|飛沫《しぶ》いたが、相手を切った一瞬に目をそらさなければそれを避けることが可能なのを発見した。   ぼやけた|縞《しま》の足を|掻《か》き斬られて横倒しになった巨体を避け、陽子は駆け出す。なおも身をおこし、追いすがってくる獣を剣と足とでかわしながら路地を駆けぬける。   大通りに出たところには、事情を把握しきれないで集まった人垣ができていた。   「どいてっ!」   叫ぶ陽子の声と、背後から駆けてくる獣の姿に、人垣がくずれる。そして。   「……なに!?」   そのはずれに陽子は金色の光を見つけた。   人垣の向こう、遠目で顔立ちはわからない。しげしげと見つめている余裕はなかったが、今の陽子は金髪がこちらでは珍しいことを知っている。   「ケイキ!」   思わずその姿を追いかけたが、我先に逃げる人々の流れが、あっという間に金色の光をのみこんでしまった。   「ケイキ!?」   ふいに陽が陰った。巨虎が陽子の頭上を跳び越えたところだった。   妖魔は逃げる人波の上に降り立った。太い前足の下で、踏み倒された人々が悲鳴をあげる。行く手をさえぎられ、陽子は身をひるがえす。   ──ケイキ? それとも。   考えている|猶予《ゆうよ》はなかった。追ってきた獣にもう一太刀を浴びせ、人々の混乱に乗じて河西の街を抜け出した。   8   「だからオレが言ったろう」   夜の中、街道に立った石碑の上に|蒼《あお》い猿の首がある。   |河西《かさい》を出た陽子は、わずかに迷ってから街道を先に進んだ。   ひとりの旅に戻ったわけだが、陽子には結果として奪ったことになる|達姐《たっき》の荷物がある。   荷物には達姐の着がえと財布が入っていた。財布のなかには宿も食事も最低のランクへ落とせば、しばらく旅ができそうなほどの金銭がある。それをつかうことに良心の痛みは感じない。   「忠告してやったのにサァ。バカな娘だぜ」   陽子は猿を無視する。無言で歩いていくと、すべるようにして蒼く|燐光《りんこう》を放つ首がついて来た。高笑いを続ける猿を陽子は視野に入れない。だまされた自分をおろかだと思うから、今は猿の声を聞きたくなかった。   そして、猿の存在よりも気にかかるのは、河西で見た金髪の人物と街なかに現れた妖魔のことだった。   ──妖魔は人里には出ないのではなかったろうか。   少なくとも達姐はそう言っていた。それは珍しいことだと。   ──妖魔は昼には出ないのではなかったろうか。   夕方、あるいは昼間。妖魔がその時間に現れたのは、河西の巨虎、馬車を襲った犬のような妖魔、学校に現れた|蠱雕《こちょう》、それだけだった。   ──かならずそこにケイキがいるのはなぜ?   思ったところで猿のかんだかい声が耳に刺さる。   「だからおまえは、だまされたんだってばヨォ」   これを無視することはできなかった。   「ちがう!」   「ちがわねぇサァ。よぉく考えてみろよ。おまえもおかしいと思うだろう。エェ?」   陽子は唇をかんだ。ケイキを信じると決めた。信じなければすがるものを失ってしまう。なのに、どうしても迷いが生じる。   「おまえはだまされたんだ。はめられたんだよ。あいつにサァ」   「ちがう」   「そう言い張りたい気分はわかるけどよォ。ちがってくれねえと、困ったことになるからなァ」   猿はそう言って|哄笑《こうしょう》する。   「ケイキは|蠱雕《こちょう》から守ってくれた。ケイキは味方だ」   「そうかい? こっちに来てからは、とんと助けてくれねえなァ? あのときだけだった気がしねえかい?」   陽子は猿をまじまじと見る。まさか、おちらでのことをこの猿は知っているのだろうか。そんな口調なのが不思議だった。   「あのときって?」   「おちらでヨォ、蠱雕に襲われたときさ」   「どうして、あのときのことをあんだが知ってるの?」   猿は高笑いする。   「オレはおまえのことなら、なんでも知っているのサァ。おまえがケイキをうたがってるのも知ってる。それを否定しようとしているのもな。信じたくねえよなァ。あいつにはめられたなんてヨォ」   陽子は視線をそらせて暗い街道を見つめる。   「そんなんじゃ、ない」   「だったらどうして助けに来ないんだ?」   「なにか事情があるんだ」   「どんな事情があるんだ? おまえを守ってくれるんじゃなかったのかい? ──よぉく考えてみなよ。|罠《わな》だよ、ナァ? わかるだろう?」   「学校でのことはともかく、あとの二度ははっきり顔を見たわけじゃない。あれはケイキじゃないに決まってる」   「金の髪がほかにいるのかい」   ──聞きたくない。   「ジョウユウも、ケイキだって認めたんじゃなかったのかい?」   なぜ、ジョウユウを、知っているのか。そう思って見つめる視線と、猿の|嘲《あざける》るような視線がぶつかった。   「オレはなんでも知ってるんだ。そう言ったろう」   タイホ、という声がよみがって陽子は頭をふった。たった一言にこめられた|驚愕《きょうがく》した調子が忘れられない。   「──ちがう。なにかのまちがいだ。ケイキは敵じゃない」   「そうかナァ? ほんとうにそうかナァ? そうだといいなァ」   「やかましい!」   叫んだ陽子を天を仰いで笑って、猿は|囁《ささや》く。   「ナァ、こう考えてみる気はねえかい?」   「聞きたくない」   「……ケイキが妖魔をおまえに差し向けているんだ」   陽子は立ちすくんだ。目を見開いて凝視する陽子を、猿は口元をゆがめてながめる。   「……ありえない」   「どうだかなァ」   「そんなことをする、理由がないじゃない!」   「そうかい?」   猿はゆがんだ笑いを浮かべている。   「ケイキがどうして、そんなことをするわけ? |蠱雕《こちょう》から助けてくれたのはケイキなんだよ? この剣をくれて、ジョウユウを|憑《つ》けてくれた。おかけであたしは、生きていられる」   きゃらきゃらと猿はただ笑う。   「あたしを殺したいんなら、あのとき、ほうっておけばよかったんじゃない」   「自分で襲わせておいて、それを助けて仲間になる。そういう手もあるけどナァ」   ぎり、と陽子は唇をかんだ。   「それでも、ジョウユウがいるかぎり、そう簡単にやられたりしない。あたしを殺したいんなら、ジョウユウを呼び戻すなり、なにかするはずだよ」   「殺すのが目的じゃねえのかもナァ」   「だったら、なにが目的?」   「さてなァ。そんなことはそのうち分かるさ。これからも襲撃が続くんだからよォ」   陽子はその笑いを浮かべた顔をねめつけて、そうして足を速める。   「帰れねえよ」   声が追いかけてきた。   「おまえ、帰れねえよ。おまえはここで死ぬんだ」   「いやだ」   「いやがることはねえだろう? ──痛みなら一瞬ですむんだぜ」   「うるさい!」   陽子の叫びは夜の中に吸い込まれていった。   四章   1   |蒼猿《あおざる》だけを道連れに、街道をあてもなくただ|配浪《はいろう》から、|河西《かさい》から遠ざかる旅を二日続けた。   どの街も門の警備がきびしくなっており、旅人のあらためも注意深くなっていた。ひょっとしたら、配浪から逃げだした|海客《かいきゃく》が河西にいたことが、ばれてしまったのかもしれない。小さな街では出入りする旅人の数も少なくて、人込みにまぎれて門を通るわけにもいかなかった。   しかたなく街道にそって|野営《やえい》を続けて、三日目についたのは高く|堅牢《けんろう》な|城郭《じょうかく》に囲まれた河西よりもさらに大きな街だった。門にかかった|拓丘城《たっきゅうじよう》という|扁額《へんがく》で、そこが郷庁のある街なのだとわかった。   拓丘では門前にまで店があふれ出していた。   どの街も城壁のすぐ外は|田圃《たんぼ》が広がるばかりだが、拓丘では門前と城壁の下にテントを広げた物売りが集まって城外市場をつくっている。城壁を取り巻く道は売り手と買い手でごったがえしていた。   粗末なテントの中に、あらゆるものがあった。門前の雑踏を歩きながら、陽子は着物を積みあげてあるテントを見つけ、ふと思いついて男物の古着を買った。   若い女のひとり旅にはトラブルがつきまとう。ジョウユウの助けがあるので逃げ出すことは簡単だが、最初からトラブルに巻きこまれずにすむのなら、それにこしたことはない。   陽子が買ったその服は、|帆布《はんぷ》[#フリガナ原文ママ「はんぷ」ではなく「ほぬの」では?]に似た厚い生地のもので、|膝丈《ひざたけ》の|袂《たもと》のない着物と短めのズボンのひと|揃《そろ》い、それは農夫がよく着ている服だが、貧しい人々や|慶国《けいこく》から逃れてきたという難民の中には女でも来ている者が多い。   いったん街を離れ、人目につかない物陰で着がえた。たった半月ほどのあいだに体の丸みはもののみごとに|殺《そ》げ落ちて、男物の着物でもそれほどの違和感がなかった。   脂肪の落ちた体を|目《ま》の当たりにして、陽子は複雑な気分になる。腕も足も苛酷な労働を|強《し》いられるせいだろう、貧弱ながら筋肉の線があらわだった。家にいる頃には体重計に神経をとがらせ、つづきもしないダイエットに熱を入れていたのが|滑稽《こっけい》な気がする。   唐突に青い色が目に浮かんだ。|藍染《あいぞめ》のすこしあかるい|紺《こん》。ジーンズの色だ。陽子はずっとジーンズがほしかった。   小学校のとき、遠足でフィールドアスレチックに行くことになった。行ったら男の子と女の子に別れて競争をしようという話になった。スカートでは動けないので母親にねだって、ジーンズを買ってきてもらったのだが、それを見て父親が怒った。   (お父さんは女の子がそういう格好をするのが好きじゃない)   (だってみんな、はいてるんだよ)   (そういうのが好きでないんだ。女の子が男の子のような格好をしたり、男みたいな言葉づかいをするのはみっともない。お父さんはきらいだ)   (でも、競争があるの。スカートじゃ負けちゃうよ)   (女の子が男の子に勝たなくていいんだ)   でも、と言いつのりたかった陽子を母親が制した。母親は深く頭を下げたのだ。   (すみませんでした。──陽子もお父さんにあやまりなさい)   父親に言われて、店に返品に行った。   (返すの、いや)   (陽子、がまんしないさい)   (どうしてお父さんにあやまるの。あたし悪いことなんてしてない)   (おまえも将来お嫁に行ったらわかるわ。こうするのが一番いいの……)   思い出していた陽子はふと笑った。   今の自分を見たら父親はさぞ|嫌《いや》な顔をするだろう。男物の服で剣をふりまわして、宿がとれなければ野宿もする。それを知ったら顔を真っ赤にして怒るかもしれない。   ──そういう人だもの、お父さんは。   女の子は|清楚《せいそ》で可愛いのが一番。従順で素直なほうがいい。おとなしすぎるぐらい内気でじゅうぶん。|賢《かしこ》くなくていいし、強くなくていい。   陽子自身も、ずっとそう思ってきたのだけど。   「そんなの、うそだ……」   おとなしくつかまればいいのだろうか。|達姐《たっき》に売られていればよかったのだろうか。   陽子は布を巻いた剣の|柄《つか》をにぎりしめた。多少なりとも陽子に|覇気《はき》があったら、そもそもケイキに会ったときにもうすこし強い態度でのぞめたはずだ。せめてなんのために、どこに行くのか、行き先はどういう場所でいつ帰れるのか、最低限のことぐらい聞けたはずだった。そうすればこんなふうに、とほうにくれることもなかった。   強くなくてはぶじでいられない。頭も体も限界まで使わなくては、生きのびることができない。   ──生きのびる。   生きのびて、かならず帰る。それだけが陽子にゆるされた望みだった。   着ていた服を達姐の着がえといっしょにして古着屋に持っていくと、わずかの金銭に|換《か》えてくれた。   それをにぎって、陽子は人込みにまぎれて門を入る。|衛士《えじ》に声はかけられなかった。入った街の道を奥へ向かう。門から遠ざかるにしたがって宿代が安くなることを達姐との旅で聞いて知っていた。   「坊主、なんにする」   入った宿屋でそう聞かれて、陽子はかすかに笑った。宿屋はたいがい食堂と兼業になっている。入るとまずオーダーを聞かれるのが常だった。   陽子は店の中を見わたす。食堂の雰囲気を見れば、宿のていどがわかる。この宿は良くはないが、そうひどくもなさそうだった。   「泊まれますか」   宿屋の男は陽子をうさんくさそうに見る。   「坊主、ひとりかい」   陽子はただうなずくと、   「百銭だ。金はあるんだろうな」   陽子はだまって財布を示してみせる。宿では後払いが普通だった。   通貨は硬貨で、四角いものと丸いものが何種類もあり、四角いもののほうが価値が高い。単位はどうやら「|銭《せん》」で、硬貨にはそれぞれ値が|彫《ほ》ってあった。金貨や銀貨もあるようだが、|紙幣《しへい》はみかけない。   「なにかいるかい」   男に聞かれて陽子は首を横にふる。宿で無料のサービスは井戸を使わせてもらうことぐらいで、風呂をつかうのにもお茶を頼むのにも料金がいった。それを達姐との旅で知っていたから、食事は門前の屋台ですませた。   男はぶっきらぼうにうなずいて、店の奥に声をかける。   「おい、泊まりだ。案内しな」   ちょうど奥から出てきた老人がそれにこたえて頭を下げた。老人はニコリともせずに陽子に目線で奥を示す。ちゃんと自分で宿を取れたことに|安堵《あんど》して、陽子はそれについていった。   2   奥にある階段を上がり、老人は四階に上がっていく。こちらの建物はほとんどが木造で、大きな街では三階建てになっている。この宿屋は四階建てになっているようだった。そのぶん天井はうんと低くて、陽子がごく軽く腕をあげて届くほどしかない。達姐のような大きな女なら、身をかがめなければならないだろう。   案内された部屋は小さかった。畳二枚ほどの面積で、床は板張り、奥に天井から下がった棚があって、そこに薄い|布団《ふとん》が何組か入っているのが見える。寝台はないから床の上に布団を敷いて寝るのだろう。   部屋の奥は棚があるので膝をついても身をかがめなければならない。立って一畳、寝ると二畳というわけだった。達姐と泊まったのは天井の高い、寝台もテーブルもある小ぎれいな部屋で、その料金はふたりで五百銭ほどしたようだった。   治安が悪いせいだろう、こんな宿でもドアにはきちんと内外から鍵を使って開ける錠がついていた。その鍵を陽子に手渡して去っていこうとする老人を呼びとめる。   「すみません、井戸の場所は?」   陽子が声をかけると、老人は|弾《はじ》かれたようにふりかえって目を見開いた。しばらく、まじまじと陽子を見ている。   「あの……」   聞こえなかったのだろうか、同じことをくりかえす陽子に、老人は目を見開いたままで言った。   「日本語じゃ……」   言うなり、老人は廊下を小走りに戻ってくる。   「……おまん、日本から来たがか?」   答えられない陽子の腕を老人はつかむ。   「海客か? いつこっちに来た? 出身はどこぜ? もう一度しゃべってくれ」   陽子はただ目を見開いて老人の顔を見る。   「頼むからしゃべってくれかえ。俺はもう四十何年も日本語を聞いてないがよ」   「あの……」   「俺も日本から来たがやき。なあ、日本語を聞かせてくれ」   老人の|皺《しわ》のなかに沈んだ目に、みるみる透明なものが盛りあがって、陽子もまた泣きたい気分になった。なんという偶然だろう。異境にまぎれこんだ人間が、この大きな街の片隅で出会うなんて。   「おじいさんも海客なんですか?」   老人はうなずく。何度も何度ももどかしげにうなずいて、声が出ないようだった。節のたった指が陽子の腕をにぎりしめてきて、その力に彼の今までの孤独が見えたような気がして、陽子はその手をにぎり返した。   「……茶」   震える声で老人がつぶやいた。   「茶はどうぜ?」   陽子は首をかたむける。   「茶ぐらい飲まんかえ。ちょっとだけやけんど、|煎茶《せんちゃ》があるがよ。持ってくるきに。……な?」   「……ありがとうございます」   老人は、しばらくして湯飲みを二つ持ってきた。部屋に現れたときには彼の落ちくぼんだ目は真っ赤になっていた。   「……あまりええ茶やないがやけんど」   「ありがとうございます」   からりとした緑茶の匂いが、なつかしかった。そっと口に含む陽子を見守りながら、彼は陽子の正面の床に腰をおろした。   「あんま嬉しいき、|仮病《けびょう》をつこうて店をさぼってしもうた。……坊ちゃん、それとも嬢ちゃんかえ。名前は?」   「中嶋、陽子です」   そうか、と老人は目をしばたいた。   「俺は|松山《まつやま》|誠三《せいぞう》いうが。……嬢ちゃん、俺の日本語は妙じゃないろうか」   陽子は内心首をかしげつつ、うなずいた。なまりはあるが、おおよそ理解はできる。   「そうかえ」   老人はほんとうに嬉しそうに笑う。やはり泣き笑いになった。   「生まれはどこなが?」   「生まれですか? 東京です」   誠三は湯飲みをにぎる。   「東京? ほんなら、東京はまだあるがやな」   「え?」   問い返す陽子にはかまわず、彼は上着の|衿《えり》で頬をぬぐった。   「俺は、高地の生まれよ。こっちに来たときには|呉《くれ》におった」   「呉?」   「広島の呉じゃ。知っちゅうかえ」   陽子は首をかたむけながら、昔にならった地理の授業を思い出そうとした。   「……聞いたことはあるような気がするんですけど」   老人は苦く笑う。   「軍港があって、|工廠《こうしょう》があった。俺は港で働きよった」   「高知から、広島へ、ですか?」   「ああ。母親の実家が呉のほうじゃったきに。七月三日の空襲で家が焼けてしもうて、|伯父《おじ》さんの家にあずけられたがよ。無駄飯は食えんきに働きに出たがやけんど、それが空襲があっての。港に入ってた船があらかた沈んだが。そのどさくさで海に落ちたがよえ」   それが第二次世界大戦のことを言っているのだと、陽子は|悟《さと》る。   「……気がついたら虚海《きょかい》じゃった。海を漂流しよったところを助けられたがや」   老人が口にした「虚海」はすこしイントネーションがちがう。音の「キョカイ」よりは「コカイ」に近かった。   「そう……なんですか」   「その前にも何度かひどい空襲があって、工廠はもうあってなきがごとしじゃったわ。軍港にしたって、船はあったが使いもんにはならんかったし、第一、瀬戸内海と|周防灘《すおうなだ》は機雷だらけで通れやせんかった」   陽子はただ相づちを打つ。   「三月には東京が大空襲で焼け野原になったらしいし、六月には大阪じやち大空襲で焼け野原よ。ルソンも|沖縄《おきなわ》も陥落して、正直勝てるとは思うちゃあせんかった。……負けたかよ」   「……はい」   老人は重いためいきを落とした。   「やっぱりのぉ。……ずっとそれが気にかかちょったがよ、俺は」   陽子にはよくわからない。陽子の両親は戦後の生まれで、戦争について語ってくれるような祖父母も身近にはいなかった。はるか遠い昔の話だ。教科書や映画やテレビの中だけで知っている世界。   それでも老人が語る世界はこちらの世界ほど陽子にとって遠くない。うまくイメージがつかめないなりに、耳になじみの深い地名や歴史を聞くのは嬉しかった。   「東京はまだあるがやな。やっぱり米国の属国になったがかえ?」   「とんでもない」   陽子は目を見開いた。老人もまた目を見開く。   「そうか。……そうかえ。けんど、嬢ちゃん、その目はどうしたが?」   陽子は一瞬キョトンとし、自分の緑色に変色してしまった瞳のことを言われたのだと悟った。   「……これはべつに」   言い|淀《よど》む、老人は顔を伏せて頭をふった。   「えい、えい。言いとうないがやったら、かまんき。俺はてっきり、日本がアメリカの属国になったせいじゃと思うたがよ。ちがうんなら、かまんき」   きっとこの老人は、自分が見とどけることのできなかった故国の運命を、遠い異境の空の下で案じつづけていたのだろう。故国がどんな運命をたどるのかわからないのは陽子も同じだが、立ち去った時期が時期だけに老人の思いは深かったにちがいない。   こんな世界に放り込まれて、それだけでもこんなにつらいのに、その上さらにこの老人は四十数年もの時間を故国の心配までしつづけたのだと思うと胸が痛かった。   「……陛下はごぶじか?」   「昭和天皇ですか? だったら、そう……ぶじでした。もう、し……」   死にました、と言いかけて、あわてて陽子は言葉を変える。   「亡くなりましたけど」   老人はパッと顔をあげて、そうして深く頭を下げて|袖《そで》で目元を押さえた。陽子はためらったあげく、丸めた背中をそっとなでた。老人がいやがる様子を見せなかったので、ひとしきり|嗚咽《おえつ》が治まるまでそうやつて骨の感触のあらわな背中をなでていた。   3   「……すまんのぉ。年を取ると涙もろうてなぁ」   陽子はだまって首をふる。   「……で、何年やった?」   「え?」   問い返す陽子を老人は表情のうかがえない目で見る。   「|大東亜《だいとうあ》戦争が終わったがは?」   「たしか……一九四五年だったと……」   「昭和?」   「ええと」   陽子はしばらく考えて、受験勉強のときに暗記した年表をむりやり掘りおこした。   「昭和二十年だと思います」   「昭和二十年?」   老人は陽子を|凝視《ぎょうし》する。   「俺がこっちに来たのも二十年じゃ。二十年のいつぜよ?」   「八月……十五日だったと」   老人は|拳《こぶし》をにぎった。   「八月? 昭和二十年の八月十五日?」   「はい……」   「俺が海に落ちたのは七月の二十八日じゃったがやき」   彼は陽子をにらむ。   「たった半月じゃいか!」   陽子はただうつむく。なんと言葉をかけていいのかわからなかった。それでだまって、老人が涙混じりに戦争のために犠牲にしてきたものを数えあげるのをじっと聞いていた。   夜半が近づくにつれて、老人は陽子について質問をはじめた。家族は、家は、どんな家だったのか、どんな生活をしてたのか。質問に答えるのはすこしだけつらかった。ここに陽子が生まれる前から捕らわれて帰れない人がいることが、いやおうなく胸にしみた。   陽子もまたこうして生きるのだろうか。一生を帰れないままこの異境ですごすのだろうか。せめて海客どうし、出会えたことは好運なことなのかもしれない。老人がたったひとりで過ごしてきたことを思えば、それはほんとうに幸福なことなのかもしれなかった。   「俺が何をしたいうがじゃろうのぉ」   老人はあぐらをかいた|膝《ひざ》に|肘《ひじ》をついて頭を抱えた。   「仲間も家族も放り出して、こんな妙なところに来た。どうせ空襲で死ぬがやろうと覚悟しちょったけんど、たったの半月で終わったがよ。あと、たった半月で」   陽子はただ口を閉ざしている。   「戦争が終われば良い目が見れたのに、腹いっぱい食わんまんま、楽しいこともないまんまで、こがいなところに来てしもうて」   「そうですね……」   「いっそ空襲で死んだほうがましじゃったような気がするわえ。こんな得体の知れん、地理もわからんなら、言葉もわからん、こがいなところになぁ……」   陽子は目を見開いた。   「……言葉が、わからない?」   「俺にはさっぱりよ。今でも片言しかしゃべれん。おかけでこんな職しかないわえ」   言ってから陽子をけげんそうに見る。   「嬢ちゃんはわかるがか?」   「はい……」   陽子は老人を凝視する。   「日本語なんだと思ってました」   「バカな」   老人も|呆然《ぼうぜん》とした顔をする。   「日本語なもんかえ。日本語を聞いたがは自分のひとり言をのぞけば、今日がはじめてやき。どこの言葉だか、ようはわからん。中国語に似てる気もするけんど、だいぶんちがう」   「漢字をつかうでしょう?」   「つかう。けんど、中国語じゃないき。港には中国人もおったけんど、こんな言葉じゃなかったき」   「そんなはず、ありません」   陽子は混乱した気分で老人を見つめる。   「あたしはこちらに来てから、一度だって言葉に困ったことはありません。日本語以外ならわかるはずがありません」   「店の連中の言葉もわかるが?」   「わかります」   老人は首をふった。   「ほんなら、おまんが聞きゆうがは日本語じゃない。ここには日本語を話す奴なんかおらん」   これはいったいどういうことなのだろう。陽子は混乱を極める。   自分はたしかに日本語を聞いてきた。なのにそれは日本語ではないと、老人は言う。ずっと聞いてきた言葉と、老人が話す言葉と、なんの差異もないように聞こえるのに。   「ここは|巧国《こうこく》ですよね。|巧《たく》みな国、と書く」   「そうだ」   「わたしたちは海客で、虚海から来た」   「そうだ」   「この街には郷庁がある」   「郷庁? |郷城《ごうじょう》のことか、郷のことかえ」   「県庁みたいなものだと」   「県庁」   「県知事のいる」   「県知事じゃいうのは、ここにはないき。県のいちばんえらい人なら|県正《けんせい》よ」   そんな、と陽子はつぶやいた。   「わたしはずっと、県知事って」   「そんなものはないき」   「人は冬には|里《さと》に住んで、春がきたら村に帰る」   「冬に人が住むがは|里《り》。春に住むがは|廬《ろ》」   「でも、あたしは」   老人は陽子をにらみすえる。   「おまん、何者ぜよ!?」   「あたし……」   「おまんは、俺と同じ海客やない。俺はずっとこの異国でたったひとりじゃったる戦争中の日本から、言葉も習慣もわからん場所に放り出されて、この年まで女房も子供もおらん、正真正銘のたったひとりよ」   なぜこんなことがおこるのか。陽子は必死に原因を探ろうとする。どう考えても今まで見聞きしてきた現実のなかに手がかりはありそうになかった。   「最低のところから、最低のところへ来た。どうして戦後の、俺たちの犠牲の上で|安穏《あんのん》と生活しよったおまんが、ここに来てまでまたそんな楽な目を見るが」   「わかりません!」   陽子が叫んだとき、ドアの外から声がかけられた。   「お客さん、どうかしましたか」   老人はあわてて口元に指を当て、陽子はドアのほうを見る。   「すみません。なんでもありませんから」   「そうですか? ほかのお客さんもいるんでね」   「静かにするよう、気をつけます」   ドアの外に遠ざかっていく足音を聞いて、陽子はかるく息をつく。そんなよう子を老人は|険《けわ》しい色の表情で見ていた。   「今のもわかったがか?」   言葉のことだと気づいて陽子はうなずく。   「……わかりました」   「今のはこっちの言葉やき」   「あたしは……どちらの言葉でしゃべっていました?」   「日本語に聞こえたな」   「でも、ちゃんと相手に通じてました」   「そのようじゃな」   陽子は常にたったひとつの言語しかしゃべっていない。常に聞くのもたったひとつの言語だ。なのにどうしてこんな現象がおこるのだろう。   老人は表情をやわらげた。   「……おまんは、海客じゃないき。少なくとも、ただの海客じゃない」   カイキャクという音はイントネーションだけでなく、すこしだけ陽子が耳なれた音とはちがって聞こえた。   「……おまん、どうして言葉がわかるが?」   「わかりません」   「わからない、かよ」   「あたしにはぜんぜんわからないんです。どうして自分がここに来ることになったのか、どうしておじいさんとあたしはちがうのか」   どうして姿が変わってしまったのか、と心の中でつぶやきながら染めて|硬《かた》い手ごたえになった髪に触れる。   「……どうやったら帰れるのか」   「俺も探した。答えは、帰れん、ってそれだけよ」   言ってから、彼は乾いた声で笑う。   「帰れたらとっくに帰っちゅうき。もっとも、帰ったところで今浦島じゃけんど」   言ってから彼は気落ちしたように陽子を見た。   「……嬢ちゃんはどこに行くが?」   「あてはありません。──ひとつ、聞いてもいいですか?」   「なんぜ?」   「おじいさんはつかまらなかったんですか?」   「つかまる?」   誠三は目を見開いてから、なにかに思い至った表情をした。   「……そうか、ここじゃ海客はつかまるがやな。いいや、俺はちがうき。俺は|慶国《けいこく》に流れついたがよ」   「──え?」   「海客のあつかいは国によってちがうらしいがよえ。俺は慶国にたどりついて、そこで戸籍をもろうたが、昨年まで慶国におったけんど、王様が|崩御《ほうぎょ》なすって国が荒れた。住むに住めんなって逃げてきたがよ」   陽子は街で見かけた難民を思い出す。   「……じゃあ、慶国なら、逃げずにすむんですか?」   誠三はうなずく。   「そういうことやな。もっとも今はいかんき。内戦があっての、国はひどいありさまよ。俺の住みよった村は妖魔に襲われて半分が死んだ」   「妖魔? 内乱のせいじゃなくて?」   「国が乱れると妖魔が現れるき。妖魔だけじゃない。日照りに洪水、地震。悪いことばっかりよえ。それで俺は逃げてきたが」   陽子は目を伏せる。慶国なら追われずにすむ。このまま巧国を逃げ回るのと慶国に行ってみるのと、どちらが安全だろうか。考えていると誠三が続けた。   「女はもっと前から逃げ出しちょったな。王様がなにを考えたのか国から女を追い出そうとしての」   「まさか」   「ほんとうじゃ。都の|堯天《ぎょうてん》じゃ残った女は殺されるという話じゃった。もともとろくな国じゃなかったきに、これを機会に逃げ出した連中も多いろうよ。近づかんほうがえいぜ。あそこはもう|妖怪《ようかい》の巣よ。いっときまでは、ずいぶんたくさんの人間が逃げ出しよったけんど、最近じゃそれもめっきり減ったわ。おそらく国境を越えられんがやろう」   「そう……なんですか」   つぶやいた陽子に誠三は|自嘲《じちょう》めいて笑ってみせた。   「日本のことは聞かんとわからんけど、こちらのことなら教えちゃれるき。……俺はこっちの人間になってしもうたがやなぁ」   「そんな」   誠三は笑って手をあげた。   「巧は慶にくらべりゃ、ずっとマシな国やき。けんど海客じゃゆうてつかまるがじゃ、マシでもしかたないわな」   「おじいさん、あたし……」   誠三は笑った。半分泣いたような笑顔だった。   「わかっちゅう。嬢ちゃんのせいじゃないきに。わかっちゆうけんどなんだかせつのうてなぁ。あたってすまざったの。逃げにゃいかんがじゃ、嬢ちゃんのほうがたいへんじゃのにのぉ」   陽子はただ首をふった。   「俺は仕事に戻らんと。朝飯の仕込みがあるき。──道中気をつけての」   それだけを言って彼は外にすべり出た。   陽子は誠三を呼び止めかけて、それをやめ、おやすみなさい、とそれだけを言った。   4   棚から薄い布団を引っぱり出し、陽子はそこに寝ころんでためいきをついた。久しぶりに布団の上で眠れるのに、ひどく目が|冴《さ》えてしまっていた。気にかかかることがあるからだと、わかっている。   どうして陽子は言葉に困らなかったのだろう。もしも自分が言葉を理解できなかったら、今ごろなにが起こっているか想像するまでもない。しかしながら、なぜこんなことがおこるのかは想像がつかなかった。   ここで通用しているのが日本語でないなら、それが陽子に理解できるはずがない。ドアの外の人物と話したとき、陽子はいったい何語でしゃべっていたのだろう。それが老人には日本の言葉に聞こえ、ほかの人間にはこちらの言葉に聞こえた──。   老人の話すこちらの単語は、すこしだけ音が変わって聞こえた。それすらも奇妙なことに思える。ましてや、県知事などという言葉はないという。では、ずっと陽子が聞いてきた県庁だの県知事だのという言葉は、いったいなんだったのか。   陽子は低い天井をじっと見た。   ──|翻訳《ほんやく》されている。   陽子が聞いている言葉は、どこかでなにかによって陽子が理解できるよう、つごう良く翻訳されてはいないか。   「ジョウユウ? あなた?」   自分の背中に向けてつぶやいた言葉に、もちろん返答はなかった。   いつものように|懐《ふところ》に剣を抱きこんで眠って、そうして目覚めたとき、部屋のすみにおいた陽子の荷物は消えていた。   陽子は飛び起き、あわててドアをあらためる。ドアにはきちんと鍵がかかっていた。   店の者をつかまえて、事情を話す。ドアと室内とをけげんそうにあらためた従業員たちは、陽子を|剣呑《けんのん》な目つきでにらんだ。   「──そんな荷物が、ほんとうにあったのか?」   「あった。あのなかに、財布だって入ってる。誰かに盗まれたんだ」   「しかし、鍵はかかってるぜ」   「合鍵は?」   陽子が聞くと男たちはさらに剣呑な目つきをした。   「店の者が盗んだ、と言いたいのか」   「そもそもありゃしねえんだろう? 最初から|難癖《なんくせ》つけて逃げるつもりだったな」   男たちは陽子ににじり寄る。陽子はそっと剣の|柄《つか》に手をかけた。   「ちがう」   「とにかく代金を払ってもらおうか」   「財布は盗まれた、と言ってる」   「それじゃあ役所に突き出すまでだ」   「ちょっと待って」   陽子は布をほどきかけ、それからふと気づいて男たちに言った。   「昨日のおじいさんを呼んでくれる」   とっさに浮かんだのは彼に口添えを頼もう、という考えだった。   「じいさんだ?」   「|慶国《けいこく》から来た。松山、という」   男たちは顔を見合わせた。   「あいつが、どうした?」   「呼んで。彼が荷物を見てる」   男のひとりが入り口に|仁王《におう》立ちになり、背後の若い男に|顎《あご》で合図をした。若い男が走って廊下を去っていく。   「その左手の荷物はなんだ?」   「これにはお金は入っていない」   「俺があらためてやるよ」   「おじいさんが来てから」   ぴしゃりと言うと、男はうさんくさそうに陽子を眺める。すぐにけたたましい足音がして、若い男が戻ってきた。   「いないぜ」   「いないだ?」   「荷物もない。あのしじい、出て行きやがった」   ドアに立ちはだかった男が舌打ちをして、陽子はその音に歯を食いしばった。   ──彼だ。   あの、老人がやったのだ。   陽子は目を閉じる。同じ海客でさえ、陽子を裏切るのか。   陽子が戦後の豊かな時代に育ったのが許せなかったのか、それとも言葉を理解できるのが許せなかったのか、あるいは、そもそもそのていどのつもりだったのか。   同胞を見つけたと思った。老人のほうもそう思ってくれたのだと信じこんでいた。|達姐《たっき》にだまされ、陽子にはもはやこの国の人間を信じる勇気が持てない。なのに同じ海客の誠三までが裏切るのだ。   にがいものが、せりあがってきた。怒りは陽子のなかに荒れた海の幻影を呼びおこす。そのたびに自分が何かの獣になり変わっていく気がした。   陽子が波にゆさぶられるまま吐き捨てた。   「あいつが盗んだんだ」   「あいつは流れ者だ。きっとここが気にいらなかったんだろうよ」   「つべこべ言わずにそいつをよこしな。金目のものが入ってないか、俺が見てやる」   陽子は|柄《つか》をにぎりしめた。   「……わたしは、被害者だ」   「こっちも商売なんでな。タダで泊めてやるわけにはいかねえんだ」   「そっちの管理が悪い」   「うるせぇ。それを、よこせ」   男が間合いをつめてきて、陽子は身構えた。巻いた布を腕をふってほどく。小さな窓から入った光が刀身をきらめかせたのが視野に入った。   「て、てめえ」   「……そこをどけ。わたしは被害者だと言っている」   若い男が声をあげて走り去り、ひとり残された男がうろたえたようにたたらを踏んだ。   「どけ。金がほしかったら、あいつを探せば」   「……最初からこういうつもりだったな」   「ちがうと言っている。じいさんをつかまえたら、荷物の中から代金は取っておいて」   剣を前に出すと、男がさがる。さらに突きつけたまま三歩進むと、男があわてて転がる勢いで逃げだした。   陽子はそのあとを追うようにして駆け出す。   若いほうの男が呼んだのだろう、駆けつけてきた数人を剣でおどして宿から外に飛びたした。雑踏をかき分けて走る。   腕がひどく痛い気がした。あの老人が切なる力でつかんだ場所が。   二度と人を信じるなという、これはその|戒《いましめ》めなのだ。   5   そこからはまた野営を続ける旅が始まった。   なんとはなしに街道をたどって次の街についたが、どうせ所持金もなし、宿に泊まれるわけでも食事ができるわけでもない。せめて門を入って難民のように城壁の下で眠ればよかったのかもしれないが、城門には|衛士《えじ》が構えていたし、陽子には大勢の人のあいだに混じることが苦痛でならなかった。   ここには味方はいない。誰も陽子助けない。   ここには陽子に許されるものは、なにひとつないのだ。   だまされて裏切られることを思えば、妖魔を剣ひとつで追い払いながら野宿したほうがずっとましなことに思えた。   着物を着がえてからは女に見られないかわりに、年齢よりも年下に見られることが増えた。こちらの治安は悪い。目つきの悪い連中にからまれることが何度かあって、人に対して剣を向けおどすことの|躊躇《ちゅうちょ》が完全に消えた。   昼にはすれ違う人間に注意をしながら歩き、夜には妖魔と戦いながら歩く。夜に眠れば妖魔の急襲があるかもしれず、いきおい夜に歩いて昼には寝る生活になる。   街道沿いの|廬《ろ》には食べ物を売る家もあったが、それも昼に限られていたし、なによりも陽子には所持金がなかったので、食事をすることは当然のように絶えた。   何度か|飢餓《きが》に耐えかねて、嫌悪を抑えて仕事を探してみたが、大量の難民が流入した街には職がない。非力そうに見える子供ならば、なおさら雇ってくれるところなどありはしなかった。   妖魔は夜毎に現れ、ときおり昼にも現れて陽子に苦渋を|強《し》いた。疲労と飢餓は間断なく陽子を悩ませつづけた。それ以上に陽子を|懊悩《おうのう》させるのは、剣の見せる幻影と、|蒼《あお》い猿だった。   母親が泣く姿を見るのはつらかった。蒼猿は死んだほうがマシだろうと誘惑を続ける。それでも母親の姿を、自分の生活していた場所をせめて見たいという欲求に勝てず、せめて誰かと会話したいという欲求には勝てなかった。   剣の見せる幻影が訪れるのはかならず夜で、それは陽子の帰りたいという思いに反応する。剣が不思議な力を現すのが夜なのか、そもそも夜にしか起きていないから夜なのか、それは陽子にもわからない。   妖魔の襲撃がひきもきらず故郷を思うひまもない夜は体につらく、すこしでも余裕のある夜は心につらかった。剣が光りはじめても無視すれば良いのだとわかってはいても、それをできるほど心強くはなれない。   そうして陽子は今夜も|燐光《りんこう》を浮かべはじめた剣を見ている。妖魔から逃げて分け入った山の中、背中を白い樹にあずけていた。   山の深いところでときおり見かけるその白い樹は、陽子の知るいかなる樹とも似ていない。樹皮はほとんど純白で、枝のさしわたしが一軒の家ほどもあるが、高さは低い。いちばん上の枝はどんなに高くても二メートルを越えないだろうと思われた。   葉のない枝は地に|垂《た》れるほど低く、細いが恐ろしく|堅牢《けんろう》で、剣を使っても断ち切ることができなかった。それはほとんど白い金属でできた作り物の樹を思わせる。枝には黄色い木の実がなっていたが、溶接されたようにもぎ取ることができなかった。   白い枝は夜目にもはんなりと白い。月があればいっそう白くて陽子は気にいっていた。   枝は低いが、それをかき分けて幹のほうへもぐりこむと、根元には座っていられるぐらいの|隙間《すきま》がある。白い樹の下にいると、どういうわけか妖魔の襲撃が間遠だったし、野獣の襲撃はほとんどなかったので休憩を取るには申し分がなかった。   その樹の下にもぐりこみ、幹に背中をあずけて陽子は剣を見ている。|拓丘《たっきゅう》で海客の老人に会ってからすでに十日以上がたっていた。   剣は淡く光を放って、それに照らされて間近の枝が白く輝く。木の実は金色に光った。   当然のように母親の姿を待った陽子の目の前に、複数の人影が動くのが見えた。   大勢の人間。黒い服。若い女の子。広い部屋と並んだ机。   ──教室の風景だった。   教室には制服を着た少女たちがたむろしていた。あまりに見慣れた休み時間の光景だった。きれいにブローした髪とプレスされた制服。清潔そうな白い肌。見ている自分との対比がおかしくて、|自嘲《じちょう》の笑みがもれた。   「中嶋、家出したんだって」   聞きなれた友人の声を皮切りに、どっと雑談をする|喧騒《けんそう》が陽子の耳に押し寄せてきた。   「家出? うそぉ」   「ほんと、ほんと。中嶋、|昨日《きのう》休んでたじゃない。あれって家出なんだって。ゆうべ中嶋の母親から電話かかってきて、ビックリよぉ」   (ずいぶん前のことだな)   「おどろきぃ」   「あの委員長がねぇ」   「やっぱ、まじめな人ほど陰でなにをしているかわからない、ってことじゃないの」   「かもなぁ」   陽子はさらに笑った。自分のおかれた状況との差がおかしかった。   「なにかさぁ、学校に妙な仲間が迎えに来たらしいよ。それがけっこうアブなそうな男だったんだって」   「男ぉ? やるー」   「じゃ、駆け落ちじゃない」   「そうとも言うね。ほら、職員室のガラスさ、ぜんぶ割れてたじゃない。あれ、中嶋の仲間がやったんだって」   「まじ?」   「ね、男って、どんな?」   「よくは知らないけど。髪をロングにして脱色した奴だったらしいよ。ずるずるした妙な格好をしてたって」   「中嶋って、実はヘビメタだったんだ」   「だったりしてー」   (ケイキ……)   陽子は喧騒を前に、亡霊のように身動きできずにいる。   「やっばりねー。あの髪ってさぁ、ぜったい染めてるって思ったんだよね」   「生まれつきだって言ってたじゃない」   「ウソにきまってんじゃん。生まれつきであんな色になるわけないだろ」   「けどさー、教室に|鞄《かばん》とコートがあったって聞いたよ」   「えー、何それ」   「きのうの朝、|森塚《もりづか》が見つけたって」   「ほんとうに駆け落ちなんじゃない。体ひとつで……ってやつ」   「ばぁか。──でも、それって家出じゃなくて|失踪《しっそう》っていうんじやないの」   「こわ……」   「そのうち駅前にポスターとか貼られたりして」   「タテカン立って、街頭で中嶋んちの母ちゃんがビラを配るんだな」   「うちの子を探してください、ってか?」   「無責任なことを言ってるよ、こいつらは」   「だって、あたしには関係ないもん」   「どーせ、家出だって」   「そうそう。案外ああいう優等生に限って、屈折してたりするわけだ」   「駆け落ちなんでしょ。|堅《かた》いのに限って、コイに燃えるとなにをするかわからない、と」   「つめてーの。おまえ、中嶋とけっこう仲よかったじゃないの」   「そりゃ、話ぐらいはしていたけどぉ。でも実を言うと、あいつあんまり好きじゃなかったのよねぇ」   「わかる。優等生ぶっててさぁ」   「だよねー」   「なにかっちゃ親が厳しい、って、おまえはお嬢か、っての」   「いえてる。ま、宿題をマメにやってくるのは助かったけど」   「ああ、ほんと。今日も数学のプリント、手つかずなんだよ、実は」   「あー、あたしもー」   「ちょっと、誰がやってないの」   「中嶋ぐらいっきゃ、いないって」   「陽子ちゃーん、帰ってきてぇ」   どっ、とあかるい笑いがわく。ふいにその|安穏《あんのん》とした景色がぼやけた。みるみるうちにゆがんで、形をなさなくなる。|瞬《まばた》きをひとつすると視界が澄んだが、すでに陽子の目の前には光をなくした刀身しか見えなかった。   6   陽子は剣をおろした。ひどく手に重い気がした。   友人、と呼んでいた誰もが実は友人ではないことなど、心のどこかでわかっていた。   人生のなかのほんのいっとき、狭い|檻《おり》のなかに閉じこめられたものどうし、肩を寄せ合っていただけだ。進級してクラスが別れれば忘れる。卒業すれば会うこともない。おそらくは、そんなことだったのだ。   そう思っても、涙がこみあげた。   かりそめの関係だと、きっとどこかでわかってはいた。それでもなおそのなかに、なにかしらの真実が隠されているのではないかと期待していたのだ。   できれば教室に飛びこんで陽子のおかれた状況を訴えてみたかった。そうしたら彼女たちはどう反応するだろう。   どこか遠い世界の、平和な国で生きている人たち。彼女たちにもきっと、悩みや苦しみがありはするのだろう。かつての陽子がそうだったように。そう思うと心底笑えて、陽子は地面に寝ころんで体を丸めた。   この世のすべてのものから切り離されてひとりで、まさしくひとりで体を丸めている自分。切実に孤独だと、思う。   親と喧嘩したとき、友達と仲違いをしたとき、たんに感傷で気分が落ち込んだとき、孤独だな、とつぶやいていた自分の言葉がいかに甘かったか。帰る家があり、決して敵にはなりえない人がいて、気分を|慰《なぐさ》めてくれるものがあって、たとえそんなものすべてをなくしたとしても、きっとすぐに友達なら作れる。それがうわべだけの友達にしても。   そのとき、いくら聞いても耳になれない嫌な音がして、陽子は丸くなったまま顔をしかめた。   「だから帰れねえってばよ」   「うるさい」   「帰れると思うなら、やっとみるがいいサァ。帰ったところで、誰もおまえを待っちゃいないけどなぁ。しかたないよなぁ。おまえは待つだけの値打のない人間だったんだから」   どうやら猿は剣の幻になにかの関係がある。|蒼《あお》い猿が現れるのは幻を見る前後だと決まっていた。特に危害を加えるわけではない。ただ聞きたくもないことを|耳障《みみざわ》りな声と口調で言っていくだけだ。だからだろう、ジョウユウも決して反応しなかった。   「──お母さんがいるもの」   いつか幻で見たぬいぐるみをなでて泣く母親の姿が目に浮かんだ。友達と呼んでいた同級生の中にほんとうの友達がいなくても、母親だけは真実陽子の味方のはずだ。どっとなつかしさがこみあげて胸が痛む。   「お母さん、泣いてた。だからあたしは、いつかぜったい帰るんだ」   猿はひときわ高く笑った。   「そりゃあ、母親だからサァ。子供がいなくなりゃ悲しいさ」   「……なによ、それ」   陽子が顔をあげると、短い雑草におおわれた地面の、手を伸ばせば届きそうなあたりに青く光る猿の首がある。   「べつにおまえが消えたのが悲しいわけじゃないのさァ。自分の子供をなくしたのが悲しくて、そんな自分が哀れなだけさ。そんなこともわからねえのかい」   胸を|衝《つ》かれた。陽子には反論できなかった。   「たとえ子供がおまえじゃなくて、もっと最低の子供でも、母親はやっぱり悲しいのさ。そういう生き物だからサァ」   「だまれ」   「怖い顔をするこたないだろう。俺はほんとうのことを言っているだけだ」   きゃらきゃらきゃらと耳に刺さるような音で猿は大笑いする。   「長いこと育てた家畜といっしょだよ。育てりゃ情がうつるもんだ。ナァ」   「だまれっ!」   軽く身を起こして剣を構える。   「怖い、怖い」   猿はそれでも笑いつづけた。   「親がなつかしいか、え? そんな親でもよォ」   「聞きたくない」   「わかってるともさ。おまえは家に帰りたいだけなんだ。親に会いたいわけじゃねえよなァ。あったかい家と味方のいる場所に帰りてえんだよナァ」   「……なに」   きゃらきゃらと猿は笑う。   「親なら裏切る心配はねえか。ほんとうにそうなのかい。飼い主と同じじゃねえのかい」   「なにを」   「おまえは犬や猫といっしょなのサァ。おとなしくかわいがられてるあいだはいいけどよォ、飼い主の手をかんだり家を荒らしたらそれまでなんだぜ。そりゃァ、連中にもよォ、|世間体《せけんてい》ってもんがあるからおまえを叩き出したりはしないけどよォ。世間さえだまってりゃ、子供をくびり殺したいと思っている親なんざ、いくらでもいるに決まってるサァ」   「ばかばかしい」   「そうか、ばかばかしいな」   猿はいたずらっぽく目を見開いてみせる。   「連中は子供をかわいがってる自分が好きなんだからなァ。たしかにバカなことを言ったよ。子供思いの親ってのを演じるのが、大好きなんだもんナァ」   きゃらきゃらと|哄笑《こうしょう》が耳に刺さる。   「……この」   「おまえだってそうだろうが、えェ?」   陽子は|柄《つか》にかけた手を止める。   「いい子をやっているのが楽しかったんだろうが。親の言うことを聞いてたのは、親が正しいと思ってたからかい。逆らったら叩き出されるような気がして、飼い主の|機嫌《きげん》を取ってただけじゃねえのかい」   陽子はとっさに唇をかむ。叩き出されることを心配したわけではないが、叱られること、家の中の空気が重くなること、ほしいものを買ってもらえないこと、ペナルティーを課されること、そんなことが心配でいつの|間《ま》にか両親の顔色をうかがっていた自分を知っている。   「おまえのいい子はうそだ。いい子なんじゃねえ、捨てられるのが怖いから親につごうのいい子供のふりをしてただけだろう。親の、いい親もうそだ。いい親なんじゃねえ、うしろ指を指されるのが怖いから世間なみのことをしてただけだろう。うそどうしの人間が裏切らないはずがあるかい。どうせおまえは親を裏切る。親はおまえをかならず裏切る。人間てのは、みぃんなそうなのさァ。おたがいにうそをついて、裏切って裏切られて回っているんだよォ」   「……この、ぱけもの」   ひときわ高く猿は笑った。   「立派な口がきけるようになったじゃねえか。そうとも、俺はばけものサァ。けどなァ、俺は正直だからナァ。うそは言っちゃいないぜ。俺だけがおまえを裏切らない。残念だナァ、その俺が教えてやってるのにヨォ」   「黙れ!」   「帰れねえよ。死んだほうがマシだヨォ。死ぬ勇気がねえなら、もっとマシな生き方をしなよォ。そいつでサァ」   猿は陽子が掲げた剣を見る。   「もっと正直にサァ。味方はいねえんだ、敵ばっかりだ。ケイキだって敵なんだからヨォ。腹が減ってるだろう? まっとうな暮らしがしたいだろう? そいつを使いなよォ。それでちょいと人をおどしてサァ」   「うるさい!」   「どいつもこいつも汚い金しか持ってねえんだ。ちょいと銭を出させてサァ。そうすりゃマシな生き方ができるのにナァ」   きょらきょらと|耳障《みみざわ》りな声に向かって剣をふり下ろしたが、そこにはもうなんの姿も見えなかった。夜の中を哄笑だけが遠ざかっていく。   陽子は土を|掻《か》く。|鉤爪《かぎづめ》の形に曲がった指のあいだから、なにかがこぼれ落ちていくようなきがしていた。   7   陽子は道をさまよっていた。|拓丘《たっきゅう》を出て何日がたったのか、そもそも家を出て何日がたったのか数えようとしてももう思い出すことができなかった。   陽子がいるのがどこで、そしてどこへ向かっているのか、それは陽子自身にもわからなかったし、すでに興味を無くしていた。   日が暮れるから剣をにぎって立つ。敵が来るから戦う。朝が来るから寝場所を探して寝る。それだけがただ続いていく。   |珠《たま》をにぎり、剣を杖にして立ちあがるのが当たり前になった。敵がいなければ座りこむ。間合いが遠ければ足は引きずる。人の気配がなければしゃべるかわりに始終うめく。   |飢餓は身内に張りついてすでに体の一部になった。|飢《う》えに負けて妖魔の死体を切り刻んでもみたが、異常な臭気があってとうてい口に持っていけない。たまに出会う野獣をしとめ、それを口にしたときにはすでに身体が固形物を受けつけなくなっていた。   幾度目かの夜を乗り切って、夜明けを迎えた。街道から山に踏み込もうとして木の根に足を取られ、長い斜面を転がり落ちて、投げやりな気分でそこで眠った。眠る前に周囲を見回すことさえしなかった。   夢も見ずに眠って、目が覚めるとどうしても立ちあがることができなかった。周囲は樹影の薄い林のなかのくぼ地、すでに|陽《ひ》はかたむいてじきに夜がやってくる。このままこんなところで身動きできなくなったら、妖魔の|餌食《えじき》になるだけだ。一度や二度の襲撃なら、ジョウユウがむりにも戦わせてくれるだろうが、それ以上になればもはや身体がいうことをきかないだろう。   陽子は地に爪をたてる。なんとしてもせめて、街道まで出なくては。   せめて街道へ出て誰かの助けを求めなければ、ここで死ぬだけだと想像がついた。首に下げた珠を探る。それを必死でにぎりこんでも、剣を杖のかわりに地に突き立てることさえできなかった。   「助けなんて来やしないサァ」   とつぜん声がして、陽子は視線を向けた。光のあるうちにその声を聞いたのははじめてだった。   「これでとうとう楽になれるなァ」   陽子はただ粉を吹いたように見える猿の毛並みを見つめる。なぜこんな時間に現れたのか、とそれだけボンヤリ考えた。   「これで街道に|這《は》って出ても、どうせ誰かにつかまるだけサァ。助けといえば助けかもしれねえなぁ。そいつがひと思いに殺してくれるかもしれないからヨォ」   たしかにそうだ、とそう思う。   誰かに助けを求めなければ、と思う。その願いが切実だから、助けなどあるはずがないという気がする。街道に出ても助けは来ない。もしも誰かが通りがかったとしても、その誰かは陽子をふり向きもしないだろう。汚い、浮浪者のような姿に顔さえしかめていくのかもしれない。   そうでなければ、追いはぎだろう。彼は陽子に近づき、盗めるほどのものがないのを見てとって剣を奪っていく。ひょっとしたらごていねいにとどめを刺していってくれるかもしれない。   この国はそういうところだ、とそう思って、陽子は唐突に気づいた。   この猿は陽子の絶望を喰いにやってくるのだ。サトリの妖怪のように陽子の心に隠れた不安を言い|暴《あば》いて、陽子をくじけさせるために現れる。   小さな謎をといたことが嬉しくて、陽子はかるく微笑んだ。それに力を得て寝返りを打つ。腕に力をこめて体を起こした。   「あきらめたほうが良くはないかい」   「……うるさい」   「もう楽になりたいだろう」   「うるさい」   陽子は剣を地に突き立てた。|崩《くず》れそうになる膝を緊張させ、悲鳴をあげる手で|柄《つか》にすがりついて身体を支える。立ちあがろうとしたが、バランスを崩した。こんなに体は重かったのか。まるで地面を|這《は》うべくして生まれてきた生き物のようだ。   「そこまでして生きたいのかい。生きてなんの得があるんだ、え?」   「……戻る」   「そんな苦しい思いをしてよォ、それで生きのびたって戻れやしねえよ」   「わたしは、帰るんだ」   「帰れねえよ。虚海を渡る方法はねえのさ。おまえはこの国で、裏切られて死んでいくんだ」   「うそだ」   この剣だけが頼りだ。陽子は|柄《つか》をにぎった手に力をこめる。頼るものもすがるものもない。ただこれだけが、陽子を守ってくれる。   ──そして、と陽子は思う。   これだけが希望だ。これを陽子に渡してくれたケイキは、二度と帰れないとは言わなかった。ケイキに会えさえすれば、戻る方法が見つかるかもしれない。   「ケイキが敵じゃねえと言えるのかい」   ──それを考えてはいけない。   「ほんとうに助けてもらえるのかい?」   ──それでも。   このままなんの手がかりもなくさまよっているよりも、ケイキが敵であれ味方であれ、彼に会ってみること以上のことがあるはずがない。ケイキに会ってなぜ彼が陽子をこちらにつれて来たのか、帰る方法があるのかないのか、聞きたかったことをぜんぶ聞いてみる。   「帰って、それでどうなるんだい、えェ? 戻ればそれで、大団円になるのかい?」   「……黙れ」   わかっている。戻ったからといって、陽子はこの国を悪夢だと忘れてしまうことはできないだろう。なにもかもなかったふりで、以前のとおりに生きていくことなどできるはずがない。ましてや、戻ったからといってこの姿が元に戻るという保証があるのか。そうでなければ「中嶋陽子」のいた場所に戻ることはできないのだ。   「浅ましいこったなァ。あきれたバカ者だよ、おまえはナァ」   きゃらきゃらと遠ざかっていく|哄笑《こうしょう》を聞きながら、陽子はもう一度身を起こした。   どうしてなのか自分でもわからない。バカだと思うし浅ましいとも思う。それでもここであきらめるぐらいなら、もっと前にあきらめてしまえばよかったのだ。   陽子は自分の身体を思い出す。|怪我《けが》だらけで血と泥によごれたままで。ポロ布のようなありさまになりつつある服からは、身動きするたびにいやな臭気がする。それでもこうしてなりふりかまわず守ってきた命だから、簡単に手放す気にはなれなかった。死んでいたほうがましだったというなら、そもそもの最初、学校の屋上で|蠱雕《こちょう》に襲われたときに死んでいればよかったのだ。   死にたくないのでは、きっとない。生きたいわけでもたぶんない。ただ陽子はあきらめたくないのだ。   帰る。かならずあのなつかしい場所に帰る。そこでなにが待っているか、それはそのときに考えればいいことだ。帰るためには生きていることが必要だから、守る。こんな所で死にたくない。   陽子は剣にすがって立ち上がった。斜面に突き立て、|藪《やぶ》におおわれた坂を上がり始める。これほどゆるくこれほど短いのに、これほどつらい坂を陽子は知らない。   何度も足をすべらせ、くじけそうになる自分を励まして、上を目指す。|苦吟《くぎん》の果てにようやく伸ばした手の先に街道の縁がかかった。   爪を立てて道に|這《は》いあがる。うめきながら街道に身体を引きあげて、平坦な地面の上につっぷしたとき小さな音が聞こえた。   山道の向こうから聞こえる声に、陽子は思わず苦い|微笑《わら》いを浮かべた。   ──よくできている。   この世界はどこまでも陽子がにくいらしい。   山道を近づいてくるその声は、赤ん坊の泣き声にひどく似ていた。   8   殺到してきたのは、いつか山道で陽子を襲った黒い犬の群れだった。   重い剣を振りあげてそのほとんどを倒したときには、すでに全身が血みどろだった。   |躍《おど》りかかってきた一頭を斬り捨てて、陽子は思わず膝をつく。左のふくらはぎに深い|咬《か》み傷がある。|麻痺《まひ》したように痛みは感じないが、足首から先の感覚が鈍い。   真っ赤に染まった足に目をやって、山道に残った敵を見わたす。まだ一頭が残っていた。   最後に残った一頭は、すでに倒したほかの獣より一回り大きかった。体力にも明らかな差があって、すでに二太刀を与えているのにすこしもこたえた様子がなかった。   その獣が低く身をかがめるのを見てとって、陽子は|柄《つか》をにぎりなおす。手になじんだ剣が、切っ先をあげるのさえ困難なほど重かった。ひどい|目眩《めまい》がする。意識がなかば|混濁《こんだく》している。   跳躍してきた影に向かって剣を振りあげる。|斬《き》るというより、剣をたたきつける格好になった。ジョウユウの力を借りてなお、すでにもう剣をただふりまわすことしかできない。   剣で|殴打《おうだ》されて、黒い影が地面に転がる。すぐさま起きあがってもう一度跳びかかってくる鼻面めがけてとにかく剣を突き出す。   切っ先が獣の顔面を裂いたが、かわりに鋭利な爪が陽子の肩口を裂いた。衝撃で剣を取り落としそうになるのをかろうじて受けとめ、短く高い声をあげて転がった影に向かって力任せにふりおろす。   勢いあまって前のめりに倒れながら、なんとかその首に切りつけるのに成功した。   剣は黒い毛皮を切り裂いて、そのまま土に食い込む。切っ先をくわえ込んだ地面に、黒く鮮血が散った。   倒れた陽子も動けなかったが、同じく倒れた敵も動けなかった。   双方の距離はわずかに一メートル、互いに油断なく、顔だけをあげて相手の様子をうかがう。陽子の剣は土に食い込んだまま。相手も血泡を吹いている。   しばらく見あって、先に陽子が動いた。   なえた手でなんとか|柄《つか》を握りなおし、地に突き立った切っ先で体重を支えて身を起こす。   一拍おくれて相手も身を起こしたが、すぐに横ざまに倒れた。   重い重い剣をなんとか持ち上げ、|膝《ひざ》でいざって間合いをつめる。両手で剣を振りあげた。   敵は頭をあげ、うなり声といっしょに血泡を噴きだした。足が弱く地をかいたが、起きあがることはできなかった。   両手で支えた剣の重みを、獣の首に向かって落ちるにまかせる。血油でぬらぬらと光る刀身が毛皮に食いこんで、同時に爪を出したままの四肢が|痙攣《けいれん》した。   さらに血泡を噴きだした獣が、それといっしょに何かをつぶやいたような気がした。   重い剣をもういちど、|渾身《こんしん》の力で引きあげて、落とす。今度は獣は、痙攣さえしなかった。   剣が首のなかばまで食いこんでいるのを見てとって、陽子はようやく柄を放す。そのまま仰向けに転がった。頭上には雲が垂れこめていた。   しばらく空をにらんだまま声をあげて息をする。わき腹が|灼《や》けつくように痛かった。息をするたび喉が裂ける気がする。腕も足も、切断されたように感覚がなかった。それでだ船酔いのような|目眩《めまい》をこらえながら、空を流れる雲を見ている。一方の雲が薄く|茜色《あかねいろ》に染まっていた。   突然、ひどい吐き気がこみあげた。とっさに顔をそむけ、そのままの姿勢で|吐瀉《としゃ》する。ひどい臭いのする胃液が頬を伝う。切迫した息といっしょに吸いこんで激しくむせた。反射的に寝返りを打って伏せ、しばらくせきこむ。   ──生きのびた。   なんとか、生きのびることが、できた。   せきこみながら、頭のなかでそれをくりかえし、ようやく息が収まったところで、陽子はかすかな音を聞いた。   ──土を踏む音だった。   「…………!」   まだ敵がいたのかと、とっさに顔をあげたが、そのとたんに視野が回転する。すっと目の前が暗くなって、地面に顔をつっこんだ。   起きあがることが、できない。   それでも、一瞬に満たないあいだに目眩のする目でとらえたもののことは忘れなかった。   ──金の色。   「──ケイキ!」   土に顔をつっこんだまま叫んだ。   「ケイキぃっ!!」   ──やはり、おまえが。   ──おまえが、この妖魔を。   「理由を言えぇっ!!」   すぐ間近で足音を聞いた。陽子は顔をあげた。   かろうじてあげた視線が最初にとらえたのは、|鮮《あざ》やかな色の着物。次いでとらえたのは金の髪。   「……どうして」   こんなことを、と言いかけた言葉は声にならなかった。   のけぞるようにして見あげた相手の顔は、ケイキのものではなかった。   「……あ──」   ケイキではない。女、だった。   彼女はじっと陽子を見おろしている。陽子は目を見開いてその瞳を見返した。   「誰……?」   金の髪の似合う女だった。陽子よりも十ばかり年上のようだった。|華奢《きゃしゃ》な肩の上に、色鮮やかな大きなオウムがとまっている。   うれいをふくんだ表情がひどく美しく見えた。陽子が下からのぞきこむ顔には、今にも泣きそうな表情だけがある。   「誰……だ」   かすれる声で聞いたが、女はじっと陽子を見つめたまま返答をしなかった。澄んだ目が、静かに涙をこぼした。   「なに……?」   彼女は深く|瞬《まばた》きした。頬を透明な涙がこぼれおちていく。   意外なことに言葉をなくした陽子の目の前で、女は顔をそむける。すぐ脇にある獣の死体に目を向けた。少しのあいだ、悲痛な顔でそれを見つめ、ゆっくりと一歩を踏み出す。死体の側に膝をついた。   陽子はそれをただ見守った。言葉は出ず、身動きもまたできない。身を起こそうとする努力ならさっきからしているが、指の一本でさえ動かなかった。   女はそっと手をのばして獣に触れる。指先に赤いものがついたとたん、なにか熱いものに触れたように手をひいた。   「あなた、誰なの……」   女は返答しない。もういちど手をのばして、今度は獣に刺さったままの剣の|柄《つか》をにぎってひきぬいた。ぬいた剣を地面におき、獣の首を膝の上に抱きあげた。   「あなたが、そいつをさしむけたのか」   女はだまったまま膝の上の毛並みをなでる。高価そうに見える着物にべっとりと|血糊《ちのり》がついた。   「いままでの妖魔もそう? わたしになんのうらみがあるの」   女は獣の首を抱いたまま首をふる。陽子が|眉《まゆ》をひそめたとき、おんなのかたにとまっていたオウムが|羽《は》ばたいた。   「コロセ」   かんだかい声で言ったのはまぎれもなくそのオウムだった。陽子ははっと視線をむけ、女もまた目を見開いて自分の肩にとまった鳥を見る。   「トドメヲ、サセ」   女がはじめて口を開いた。   「……できません」   「コロセ。イキノネヲ、トメルノダ」   「……お許しを! それだけはできません!」   女ははげしく首をふる。   「ワシノ、メイレイダ。コロセ」   「できません!」   オウムは大きくはばたいて宙に舞い上がった。一度だけ旋回し、地面に降り立つ。   「デハ、ケンヲ、ウバッテコイ」   「この剣はこの方のもの。そんなことをしても、むだです」   女の声には哀願する響きがある。   「ソレデハ、ウデヲ、オトセ」   オウムはかんだかい声で叫んで、地にとまったまま大きく羽ばたいた。   「ソレクライハ、ヤッテモラウ。ウデヲ、オトセ。ケンヲ、ツカエヌヨウニ、シロ」   「……できません。だいいち、あたくしには、この剣は使えません」   「デハ、コレヲ、ツカウガイイ」   オウムは大きく|嘴《くちばし》を開く。嘴の奥の丸い舌のさらに奥から、なにか光るものが現れた。   陽子は目を見開く。オウムは黒く、つややかな棒のようなものの先端を吐き出した。|驚愕《きょうがく》する陽子の目の前で、吐き出しつづける。一分ほどかかって完全に吐き出されたそれは、黒い|鞘《さや》をつけた日本刀のような刀だった。   「コレヲ」   「お願いです。お許しください」   女の顔は絶望の色に染まっている。オウムは再び羽ばたいた。   「ヤレ!」   声に打たれたように女は顔をおおった。   陽子はあがく。なんとしても起きあがって逃げねばならない。それでも指先で土をかいて、それだけでもうせいいっぱいだった。   女は涙に濡れた顔で陽子を振り返る。   「……やめて」   陽子の声は自分にも聞き取れないほどかすれた。   女はオウムが吐き出した刀に手をのばす。獣の血に汚れた手で|鞘《さや》を抜いた。   「やめて。……あなたは、何者なの」   そのオウムは何者なのだ。その獣は、なんなのだ。どうしてこんなことをする。   女はかすかに唇を動かした。ほんとうにかすかな、許してください、という言葉を陽子は聴き取った。   「……おねがい、やめて」   女は刀の切っ先を、土をかく陽子の右手に向ける。   不思議なことに女のほうが今にも倒れそうな顔色をしていた。   見守っていたオウムが飛んできて、陽子の腕にとまった。細い爪が肌にくいこむ。どうしたわけか、まるで岩を乗せられたように重い。はらいのけたかったが、まったく腕が動かなかった。   オウムが叫ぶ。   「ヤレ!」   女は刀をふりあげた。   「やめてぇっ!!」   |渾身《こんしん》の力で腕を動かそうとしたが、なえて、しかも重しが乗った腕が動くよりも、女が刀をふりおろすほうが速かった。   痛みはなく、ただ衝撃があった。   自分の運命を見届けることが、陽子にはとうていできなかった。   衝撃が痛みに変化する前に、陽子は意識を手放した。   9   ひどい痛みで、陽子は意識をとりもどした。   とっさに目をあげて自分の腕を確認し、陽子はそこに突き立った刀をみつける。   最初はそれがなにを意味するのか、わからなかった。|曇天《どんてん》の空にむかって、まっすぐに立った一振りの刀。   一瞬ののちに痛みで我に返った。   刀は陽子の右手を地面に縫いとめていた。   細い刀身が深々と手の甲に刺さっていた。そこから脈打つような痛みが頭に向かって突き上げてくる。   そっと腕を動かしてみたが、引き裂かれる痛みに悲鳴があがる。   |目眩《めまい》と痛みをこらえて身を起こした。縫いとめられた手を、これ以上痛めぬように気をつけてなんとか起きあがる。震える左手を伸ばして|柄《つか》をつかんだ。目を閉じ、歯を食いしばってそれを引きぬく。全身が|痙攣《けいれん》するほどの激痛があった。   ぬいた刀を投げ捨て、傷ついた手を胸に抱いて、陽子は獣の死体が倒れたあいだを転げまわる。悲鳴は声にならない。痛みのあまり猛烈な吐き気がした。   のたうちながら左手で胸をさぐる。珠を握って|紐《ひも》をむしった。にぎりこんだ珠を右手にあてる。はぎしりし、うめきながらつよく珠をあてて身体を丸めた。   |宝重《ほうちょう》の奇跡は陽子を救った。痛みがすみやかにひいていった。しばらくそのまま、息をつめるようにして堪えてから体を起こす。   珠を傷にあてたまま、そっと右手の指を動かそうとしてみたが、手首から先は感覚がなかった。とにかく左手で右手に珠をにぎらせた。   地面に転がったまま、陽子は右手を抱え込む。薄く目を開けて空を見ると、雲はまだ|茜色《あかねいろ》に染まっている。気を失っていたのは、ごく短い時間だったようだ。   あの女は何者だったのか、どうしてこんなことをしたのか、考えたいことはたくさんあったが、とうてい思考することができない。とにかく手探りで陽子自身の剣を探し、|柄《つか》をにぎると剣と右手とを抱きこんで、しばらくそのまま丸くなっていた。   声が聞こえたのは、そうしていくらもたたない頃だった。   「……あ」   声のほうに視線をむけると、小さな子供が立ちすくんでいた。女の子は背後をふり向いて声をあげた。   「お母さん」   小走りに女がやってきた。   子供は邪気のない顔をしていた。その母親は実直そうに見えた。貧しい身なりの、大きな荷物を背負った女だった。   子供も母親も心配そうな色を顔いっぱいに浮かべてかけてくる。獣の死体を|跨《また》ぐときに、気味悪そうに顔をしかめた。   陽子には身動きができなかった。それで倒れたまま親子が駆けてくるのをボンヤリと見ていた。   助かった、と一瞬だけ思い、そうして不安になった。   陽子は今、切実に助けが必要だった。ひどい痛みはひいたが、まったく消えたわけではない。すでに体力は尽きている。二度と立ち上がれない気さえした。   だからこそ、嬉しいよりも不審な気がする。なんだか話がうますぎはしないか。   「……どうしたの? だいじょうぶ?」   子供の小さな手が陽子の顔に触れる。母親のほうが陽子を抱き起こした。布越しの体温がなぜだかひどく気持ち悪かった。   「いったいどうしたんだね? こいつらに襲われたのかい? |怪我《けが》はひどいのかい?」   言って母親は、陽子の右手に目を止める。小さく悲鳴をあげた。   「……まあ、なんてこと。ちょっとお待ち」   女は着物の|袂《たもと》を探った。薄い|手拭《てぬぐ》い状の布をひっぱり出して、それで陽子の右手を押さえる。子供は背負った小さな荷物をおろして、そこから竹の筒を出した。   「お兄ちゃん、お水、いる?」   陽子は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》する。なんとなく不安を感じた。   荷物の中に入っていたということは、これはこの子が自分のために持っていた水筒だろう。だとしたら、毒など入っているはずがない。さしだすまでに入れた様子もなかった。   そう自分に納得させてからうなずくと、小さな両手で|栓《せん》を抜いた筒を口元にあてがってくれる。ぬるい水が喉を通って、それで一気に呼吸が楽になった。   母親が陽子に聞く。   「ひょっとして、ひもじいのかい?」   今は空腹を感じなかったが、自分が|飢《う》えていたことは知っていたので陽子はただうなずく。   「どのくらい食べてないんだね」   数を思い出すのが面倒なので、陽子は黙っていた。   「お母さん、|揚《あ》げパンがあるよ」   「ああ、駄目、駄目。そんなのじゃ喉を通りゃしないよ。|飴《あめ》をだしておあげ」   「うんっ」   子供は母親がおろした荷物をほどく。|籠《かご》のなかに大小の|壷《つぼ》が入っていて、そこから子供が棒に水あめをすくいだした。何度かこんな荷物を背負った人々を見かけたことがある。おそらく水飴を売り歩く行商なのだろう。   「はい」   今度はためらわず、陽子はそれを左手でうけとる。口のなかに含んだ飴は|滲《し》みるほど甘かった。   「旅の途中かい? いったいなにがあったんだい?」   陽子は答えない。ほんとうのことは言えないし、うそを考える気力はない。   「よくもまぁ、妖魔に襲われてぶじだったねぇ。──立てるかい? もう陽が落ちる。|麓《ふもと》の里まであとすこしだ。そこまで歩けるかい?」   陽子は首を横にふった。里に行くつもりはないという意思表示のつもりだったが、母親は動けないという意味にとったのだろう、子供をふりかえった。   「ギョクヨウ、里まで走って人を呼んできておくれ。時間がないよ。全速力でね」   「うんっ」   「けっこうです」   陽子は身体をおこした。親子を見すえる。   「ありがとうございました」   突き放すように言って陽子はなんとか立ちあがった。道を横切って、|険《けわ》しい上り斜面を作っている反対側へむかう。   「ちょっと、どこへ行くんだね」   そんなことは陽子にもわからない。だから答えなかった。   「お待ち。もう日が暮れるよ。山に入ったら死ぬだけだ」   陽子はゆっくり道を渡る。歩くたびに右手が痛んだ。   「いっしょに里へ行こう」   上り斜面はずいぶんと急で、これを上るのは──ましてや片手が使えない状態で上るのは、ひどく骨が折れそうだった。   「あたしたちは行商でね、バクロウまで行くところさ。怪しい者じゃない。せめて里へ行こう。ね?」   陽子は道に張り出した枝に手をかけた。   「ちょっと、あんた!」   「どうしてそんなにムキになるんですか」   陽子がふりかえると女は不思議そうに目を見開いた。動きかねた子供までが困ったように陽子を見ている。   「ほっといてください。それともあたしがいっしょに里に行くと、なにかあるんですか」   「そんなことじゃないだろ! もう日が暮れるんだよ! けがだって──」   「わかってます。……急いだほうがいいですよ。小さい子もいるんだし」   「ちょっと……」   「わたしは、なれてますから。──飴をありがとう」   困ったように陽子を見ている女は、たんに親切なのかもしれなかったし、そうでないのかもしれなかった。どちらかはわからないが、見定めたいとも思わない。   苦労して斜面を一段上がると、下から陽子を呼ぶ声がした。見ると子供が両手を差しあげている。片手には水の入った竹筒が、片手には素焼きの湯呑みがにぎられている。湯呑みには水飴が|縁《ふち》まで入っていた。   「持ってお行き。あれっぽっちじゃたりないだろ」   陽子は母親を見る。   「でも」   「いいから。──さ、ギョクヨウ」   促されて子供は精いっぱい背伸びをして陽子の足元にそれをおく。おいてから身をひるがえして荷物を背負った母親のもとに駆け戻った。   陽子はボンヤリと子供が荷物を、背負うのを見る。どう反応していいかわからずに、親子が何度もふりかえりながら坂道を下りていくのをぼうっと見ていた。   親子の姿が見えなくなってから、陽子は竹筒と湯呑みを拾いあげる。なぜだか膝が|崩《くず》れてその場に座りこんだ。   あの親子が真実善良であるという保証はどこにもない。里についてから態度を変えるのかもしれなかったし、たとえそうでなくても陽子が海客だと知れば役所に突き出すだろう。せつなくても用心はしなければならない。信用してはならない、期待してはいけない。うかつに甘いことを考えれば痛い目にあう。   「助けだったのかもしれないのにナァ」   また|耳障《みみざわ》りな声が聞こえた。陽子はふりかえらずに答えた。   「|罠《わな》だったかもしれない」   「これでもう二度と助けはないかもなァ」   「ぜんぜん助けじゃなかったかもしれない」   「その身体と手で、今夜を乗り切れるのかい」   「なんとななる」   「ついて行きゃあよかったのにサァ」   「これでいいんだ」   「おまえはサァ、たった一度の、最初で最後の助かる機会をフイにしたんだ」   「──黙れぇっ!」   ふりかえって|薙《な》ぎ払った先に猿の首はなかった。きゃらきゃらと笑う声だけが斜面の上に下生えの中を消えていった。   陽子はなんとなく道をふりかえった。たそがれはじめた道に黒いしみが落ちて、はじめての雨が降りはじめた。   10   その夜はかつてないほど過酷な一夜になった。   すでに体力は尽きている。雨は冷たく体温を奪う。人にはつらい夜なのに妖魔のほうはむしろ活発なぐらいだった。   張りついた服が動きを妨げる。なえてかじかんだ身体はすこしも思うように動かない。右手はなんとか感覚が戻ったとはいえ、少しも握力が出ない。その手で剣をにぎるのはとほうもない|難行事《なんぎょうじ》[#こんなことばあるっけ?]だった。しかも雨で|柄《つか》がすべる。あたりは真の|暗闇《くらやみ》で敵の姿が定かでない。しかも襲ってくる妖魔は小物だが数が多かった。   泥のなかに突っこみ、返り血をかぶり、自らの怪我からあふれたもので血だらけになった。それすらも雨が洗い流していって、いっしょに最後の力までも押し流していく。剣は重く、ジョウユウの気配は希薄な気がした。構えた剣の切っ先は敵に会うたびに下がっていく。   祈るように何度も空を見上げて夜明けを待った。戦いながら過ごす夜はいつも短いが、この夜に限って敵はひきもきらないのに恐ろしく長い。何度も剣を取り落とし、拾いあげるたびに傷だらけになって、ようやく夜明けの気配が見えたころに白い樹影が見えた。   陽子は枝の下に転がり込むと硬い枝が身体を傷つけた。追いすがっていた敵の気配が止まる。枝の下で息を整えているあいだ遠巻きにしていたようだったが、やがて雨の向こうへ消えていった。   敵の気配が消え去った頃、やっと空があかるんで木立が作る影が見えはじめた。   「……助かっ……た」   陽子は息をつく。肩で息をする口のなかに雨の|滴《しずく》が降ってきた。   「切り……抜け……た……」   泥を|擦《す》りこまれた傷口が|疼《うず》いたが、それすらも気にならなかった。   しばらく寝転んだまま息を整えて、白い枝を透かして見える空がどんよりとあかるむのを待った。息が治まるとひどく寒かった。白い枝は雨を|遮《さえぎ》らない。抜け出してどこかで雨宿りしなければならないとわかっていても身体が動かなかった。   必死で|珠《たま》をにぎりしめる。指先を暖める奇妙な力を懸命に取りこんで蓄えようとしてみる。|渾身《こんしん》の力で寝返りを打ち、|這《は》って樹の下から抜け出し、とにかく斜面の低いほうへ動いてみる。濡れた草と土のせいで這うのはけっこう楽だった。   できるだけ街道を外れないように移動したはずだが、光のない深夜、敵に追い立てられてのことだから、どれほど山の奥へ迷いこんでいるか想像もつかなかった。   珠《たま》にすがり、剣にすがって立ちあがる。   怪我をしている自覚はあり、ひどい痛みを感じていることもわかっていたが、どこが痛いのかはよくわからない。一歩あるく|毎《ごと》に膝が崩れそうになるのを持ちこたえなくてはならなかった。   なかば這って斜面を下りると、街道とは思えない細い道に出た。|轍《わだち》の跡は見えないし、馬車が通れるほどの道幅もない。そうして、そこが限界だった。膝をついて、木肌に爪をたてて身体を支えようとした手はまったく用をなさなかった。   頭からぬかるんだ道に突っこんで、それきり身動きができない。   手のなかに硬く珠をにぎりこんだが、そこからやんわりと押し寄せてくるぬくもりはなんの|慰《なぐさ》めにもならなかった。そこから補給されていくものよりも、雨に溶けて流されていくもののほうが数段多い。それはついに|宝重《ほうちょう》の奇跡が及ばなくなったことを意味した。   ──そう思うと、すこし笑えた。   クラスメイトの中でも、|野垂《のた》れ死にするのは陽子だけだろう。   ちがう世界の人たちだ。彼女たちにはいつでも帰れる家があり、守ってくれる家族があり、決して|飢《う》えることのない未来が約束されている。   できる限りのことはした。これが限界。あきらめたくはなかったが、どんなに努力してももう指一本動かせなかった。限界まで耐えたご|褒美《ほうび》がこのゆるやかな死なら、がまんした値うちがあったのかもしれない。   雨音に混じって高く澄んだ音がした。目をあげると頬のすぐそばに落ちた剣が淡く光を放っていた。地面に顔を伏せた陽子の目からは刀身はよく見えなかったが、それでも地を叩く雨音がかすんで薄い影が見えた。   ──中嶋は、と男の声が聞こえた。   陽子の担任が座っていた。そこがどこなのかはよくわからない。   「中嶋はおとなしくてまじめな生徒でしたよ。少なくとも担任にとっては、あれくらい楽な生徒はなかったです」   担任は誰かに向かって話をしていた。その相手の声が聞こえる。太い男の声だった。   「素行の悪い連中とつきあっていたというようなことは?」   「わかりません」   「わからないんですか」   担任は肩をすくめる。   中嶋は絵に描いたような優等生でしたからね。どんな生活をしているのか、ひょっとしたら道を踏み外していないか、心配する必要がなかったんです」   「妙な男が学校に乗りこんで来たんでしょう?」   「そうなんですが、なんだか中嶋はあいつとは面識がないようでしたがね。じっさいのところどうだったのか、わたしにはわかりません。なんだか中嶋には得体の知れないところがありましたから」   「得体の知れない?」   担任は渋い顔をする。   「ちょっと言葉がちがうかな。うまくいえないんですが。中嶋はね、優等生でしたよ。クラスの生徒ともうまくおりあいをつけていた。両親との関係もいいようだった。でもねぇ、そういうことはありえないんですよ」   「……ほう?」   「わたしがこんなことを言ってはいけないのでしょうが、教師は教師のつごうを押しつけ、友達は友達のつごうを押しつける。親は親のつごうしか言わない。誰も彼もが勝手な学生像を作ってむりやりそこに押しこもうとするんです。この三者の意見が一致することなんかありえません。教師と親の期待通りであれば、生徒にとっては鼻持ちがならない。誰にとってもいい子であったということは、誰に対しても合わせていたということじゃないかと思うんです。だからだろうと思うんですが、中嶋は誰ともうまくやってたかわりに、誰とも特別したしくなかった。誰にとってもつごうがいいだけで、それ以上ではなかったんだと思います」   「先生はいかがです?」   担任はすこし渋い顔をした。   「本音をいいますとね、教師にとっては多少手を焼かせて目が離せないような生徒のほうが可愛いんです。わたしは中嶋をいい子だと思っていましたけどね、きっと卒業してしまえば忘れてしまったでしょう。十年あとに同窓会があっても、覚えていなかったんだろうと思いますよ」   「……なるほど」   「中嶋が故意にそうふる舞っていたのか、いい子でいようとするあまりそういうことになったのか、それはわたしにもわかりません。故意にそうふる舞っていたのだったら、陰で何をやっていたか想像もつかない。故意でなければ、そんな自分に気がついたときひどく|虚《むな》しいだろうと思うんですね。自分はいったいなんだったのか、虚しく思ってふいと姿を消す、そういうことがあっても不思議じゃないような気がします」   陽子は|呆然《ぼうぜん》と担任の姿を見ている。その姿が薄くなって、かわりにひとりの少女が現れた。陽子とは比較的仲のよかった生徒だった。   「君は中嶋さんと仲がよかったときいてるけど?」   と、声が聞くと少女は剣のある目つきをする。   「べつに。特に仲がよかったわけじゃないです」   「そうなの?」   「そりゃ、学校でならちょっとは話をしましたけど、べつに学校の外で会うわけじゃないし、家に電話をするわけでもないし。多少はそういうこともありましたけど、そんなのクラスメイトとしてのおつきあいの範囲内です」   「なるほどね」   「だから、あたしにあいつのこと聞かれてもわかりません。当たり|障《さわ》りのない話しかしなかったし」   「彼女を嫌いだったのかい?」   「べつにいやな奴じゃなかったけど、特にいい奴だとも思ってませんでした。なにか、いつも適当に話しを合わせてるような感じあったんですよね。きらいじゃなかっけど、面白くなかったから」   「ふうん?」   あたしはきらいでした、と言ったのはべつの少女だった。   「だって中嶋さんって、八方美人だったんですもん」   「八方美人?」   「そうです。あたしたちが誰かの悪口を言ってたとするでしょ? そうしたら、うなずくんですよ。そうだね、って。でもそいつがあたしたちの悪口を言ってると、今度はそれにもうなずくんです。誰にも彼にもいい顔ばっかりして、だからきらいだった。仲がよかっなんて、とんでもないです。|愚痴《ぐち》を言うのにはよかったですけど。なにを言ってもうなずいてくれましたから。それだけです。   「──ふむ」   「だから、家出なんだと思いますよ。彼女が陰で変な連中とつきあってて、そいつらと教師もクラスメイトもバカだ、ふざけんじゃねぇ、なんて気炎をあげてても驚きません。そういうのって、ありそうな感じがする。そういう得体の知れない感じってありましたから」   「なにかの事件に巻き込まれた可能性もあるんだがね」   「だったら、影でつきあってた連中となにか|揉《も》めたんじゃないですか。あたしには関係ないです」   あたしは大きらいでした、と言ったのはさらにべつの少女だった。   「だから、正直言っていなくなってすっとしてます」   「君は、クラスでいじめられたんだって?」   「そうです」   「中嶋さんも参加してたの?」   「してました。みんなといっしょになってあたしのこと無視して、それでも自分はいい子の顔をしてたんです」   「……ふむ?」   「みんながあたしにひどいことを言うでしょ? そういうとき、中嶋さんって、積極的に参加しないんです。いつも自分はこういうことはきらいなんだけど、って顔をしてるんです。そういうのって、|卑怯《ひきょう》だと思う」   「なるほど」   「自分だけは善人の顔をして、あたしのほうを気の毒そうに見るんです。でも、みんなを止めないの。だからよけいに腹が立った」   「そうだろうね」   「家出でも|誘拐《ゆうかい》でも、あたしには関係ないです。中嶋さんは加害者で、あたしは被害者だったんだから。そんな人に同情するような、中嶋さんみたいな偽善者になりたくないです。あたしのこと、疑ってもらってもいいです。あたしは中嶋さんがきらいだったし、あの人がいなくなって嬉しい。これがほんとうの気持ちです」   そんな子じゃありません、と言ったのは母親だった。しおれたようにどこかに座っている。   「いい子だったんです。家出をするような子じゃありません。不良とつきあうような子でもありません」   「しかし、陽子さんは家庭に不満があったようですね」   母親は目を見開く。   「陽子が? そんなはずはありません」   「ずいぶんと同級生にこぼしていたようですよ。ご両親が厳しい、と言って」   「それはときに|叱《しか》ったりもしましたけど、親なんだから当たり前でしょう? いいえ、そんなはずはありません。あの子は不満そうな様子なんてこれっぽっちも」   「では、家出の理由に心当たりはないんですね?」   「ありません。そんなこと、するはずがありません」   「学校に陽子さんを訪ねてきた男にも心当たりがない?」   「ありません。そんな人とつきあうような子じゃありません」   「では、なぜいなくなったのだと思われますか?」   「学校の帰りにでも、誰かに──」   「残念ながら、その形跡はありませんでした。陽子さんは職員室から男といっしょに出ていって、そのままどこかに行ったと思われます。べつにむりやり引っぱっていかれたとか、そういうわけではなかったようです。親しいようだったと言っておられた先生もいらっしゃいましたが」   母親はうつむいてしまう。   「面識はないと陽子さんは言っておられたようですが、たとえ面識なくてもなんらかの関係があったのではないかと思います。共通の知人がいるとかの。一応捜索はしてみますが……」   「陽子はほんとうに家の不満をこぼしていたんでしょうか?」   「そのようですね」   母親は顔をおおった。   「不満があるようには見えませんでした。家出をするような子でも、陰に隠れて悪い友達とつきあうような子でもないと思っていました。変な事件に巻きこまれるような子でもないと」   「子供というのは、なかなか親に|本音《ほんね》をみせませんからね」   「よそさまのお宅の話を聞いて、陽子はなんてできた子だろう、と思ってました。今から考えると、おかしいと思ってみなければいけなかったのかもしれません。   「そうそう子供は親のつごうのいいようには育ってくれませんから。うちの子供もどうしようもない|悪餓鬼《わるがき》ですよ」   「そうなんですね・・・・・。あの子はいい子の顔をして、ていよく親をあしらっていたんですね。わたしたちはうっかりそれにだまされて。子供を信じていたのが|仇《あだ》になったんだわ」   (お母さん、ちがう……)   泣きたかったが涙は出なかった。ちがう、と声にはならないまま口だけを動かすと、それですとんと幻が消えた。   あたりは一面の水溜り、陽子は顔を泥の中になかば伏せて、すでに立ちあがる余力はない。陽子が今こんな状況におかれていることなど、誰ひとり想像しえないにちがいない。これを知らないから、あんな勝手なことが言えるのだ、とそう思った。   こんな世界に放りこまれて、ひもじくて切なくて|怪我《けが》だらけで、もう立ちあがることさえできなくて。それでも帰りたいと、それだけで歯を食いしばってきたのに。実を言えば陽子が故国で持っていたものは、こんな人間関係でしかなかったわけだ。   ──どこに帰るつもりだったのだろう。   待っている人などいないのに。陽子のものはなにひとつなく、人は陽子を理解しない。だます、裏切る。それにかけてはこちらもあちらもなんの差異もない。   ──そんなことはわかっていた。   それでも陽子は帰りたかったのだ。   妙に笑えて、大声で笑ってみたかったが雨に|凍《こご》えた顔はすこしも笑ってくれなかった。泣きたい気もしたが、涙は|涸《か》れてした。   ──もういい。   もう、どうでもいいことだ。じきにぜんぶが終わるのだから。   十二国記シリーズ 月の影 影の海(下)   十二国記シリーズ 月の影 影の海   小野不由美   月の影 影の海(下) 十二国記   五章(承前)   1   細い糸を|撒《ま》いたようなに雨は降る。   動くこともできず、泣くこともできず、たたぼんやりと|水溜《みずた》まりに|頬《ほほ》を浸していると、突然背後でガサガサと|下生《は》えをかき分ける音がした。身を隠したほうがいいのだろうとは思ったが、首をあげることさえできなかった。   村人か、獣か、|妖魔《ようま》か。いずれにしても選択|肢《し》が増えるだけで、結果が増えるわけではない。捕らわれるにしても襲われるにしても、このままここに倒れているにしても、たどりつく先はひとつなのだ。   |霞《かす》む目をあげて物音のほうを見ると、そこにいたのは村人でも追っ手でもなかった。そうして人でもない。一頭の奇妙な獣だった。   姿はネズミに似ている。二本の|後《うし》ろ|肢《あし》で立ちあがって、|髭《ひげ》をそよがせているさまはほんとうにネズミに似ていた。妙な感じがするのは、立ちあがったそのネズミが子供の背丈ほどの大きさもあったからだった。たんなる獣のようにも見えないが、妖魔のようにも見えない。それで|陽子《ようこ》はぼんやりとその不思議なネズミを眺めていた。   雨の中で緑の大きな葉を笠のようにかぶっていた。|透《す》けるような緑を白く雨足が|叩《たた》いて、その白い水滴がきれいだと思った。   ネズミはきょとんとしたように陽子のほうを見ているだけで、特に身構えるようすもない。すこしネズミよりもぽってりとしていた。著色と灰色のあいだの色をした毛皮はふかふかとして、いかにも|触《さわ》ると気持ちよさそうだった。毛並みについた水滴がなにかの飾りのようだ。|尻尾《しっぽ》まで毛皮におおわれていたので、ネズミに似ているがネズミとは違う生き物なのかもしれない。   ネズミは何度か髭をそよがせて、それから二本足のままほたほたと陽子のほうに近づいてきた。灰茶色の毛並みが|屈《かが》みこむ。小さな前肢が陽子の肩に触った。   「だいじょうぶか?」   陽子ははげしく|瞬《まばた》いた。子供の声に聞こえたが、聞いてきたのはまちがいなくそのネズミだった。不思議そうな表情をして、ごていねいに首までかしげる。   「どうした? 動けないのか?」   陽子はじっとネズミの顔を目線だけで見上げて、それから小さくうなずいた。人ではなかったので、すこし警戒をといた。   「そら」   ネズミは小さな、ほんとうに子供ほどしかない前肢をさしだした。   「がんばれ。すぐそこにおいらの家があるから」   ああ、と陽子は嘆息した。   それが助かったことに対する|安堵《あんど》なのか、失望なのかは自分でもわからなかった。   「ん?」   伸ばされた手を取ろうとしたが、指の先が動いただけだった。ネズミの手が伸びる。小さな暖かい前肢が陽子の冷え切った手をにぎった。   思いのほか力のある手に支えられ、小さな家にたどりついてからあとのことを、陽子は覚えていない。   何度か目を覚ましてなにかを見たような気もするが、それがなんだか思い出せるほど、はっきりと風景をつかむことはできなかった。   深い眠りと浅い眠りを交互にくりかえしてようやく目覚めると、陽子は粗末な家のなかにいて、寝台に横になっていた。   ぼんやりと天井を見て、それからあわてて身体をおこす。とっさに寝台を飛び降りて、その場にへたりこんだ。陽子の足はまったく使いものにならなかった。   |狭《せま》い部屋のなかには誰の姿もない。まだ|目眩《めまい》のする目でそれを確認すると、必死で|這《は》って寝台の周囲をあらためた。家具らしい家具はほとんどない。かろうじて枕元に板を組み合わせただけの棚があってその上に、畳んだ布、ひとふりの抜き身の剣と青い|珠《たま》がきちんと揃えておいてあった。   陽子は力を抜く。なんとか立ちあがって珠を首にかけ、剣と布を取りあげて寝台に戻った。布を巻いて剣を布団のなかに引っぱりこむ。それでやっと安心した。   その段になってようやく、陽子は自分が寝間着に着がえているのに気づいた。   あちこちの|怪我《けが》もぜんぶ手当てされている。横たわった肩の下に|湿《しめ》ったものがあって、取りあげてみるとそれが水に浸した布だとわかる。置きあがったときに気づかぬまま落としたのだろう。それを額にのせると気持ちよかった。厚い布を重ねた布団を引っぱりあげ、珠をにぎって目を閉じる。安堵の深い息を吐いた。助かってしまうと、こんな貧しい命でも|惜《お》しい気がする。   「目が覚めたか?」   飛び起きて声のしたほうをふり返ると、灰茶の毛並みをした大きなネズミが立っていた。ドアを開けて部屋のなかに入ってくる。片手にトレイのようなものを、もう片手には|手桶《ておけ》をさげていた。   警戒心が頭をもたげた。人のように暮らし、人のようにしゃべるかぎり、獣のように見えても油断はできない。   その姿を|凝視《ぎょうし》する陽子の前で、監視する視線には気づかないようにネズミはのんきな足どりで歩く。テーブルにトレイをのせて、|手桶《ておけ》を寝台の足元においた。   「熱はどうだ?」   小さな前肢が伸びる。とっさに見をすくめて陽子が逃げると、ネズミは髭をそよがせてすぐに寝台の上に落ちた布を拾いあげた。陽子がしっかり胸に抱いた布包みに気がついたはずだが、ネズミはなにも言わなかった。布を手桶に放りこみ、陽子の顔をのぞきこむ。   「気分はどうだ? なにか食えるか?」   陽子は首を横にふる。ネズミは小さく髭をそよがせてからテーブルの上から|湯呑《ゆの》みを取りあげた。   「薬だ。飲めるか?」   陽子は再び首を横にふる。油断してはいけない。それは陽子の生命を危険にさらす。ネズミは首をかしげて、それから湯呑みを自分の口元に運んだ。目の前ですこし飲んでみせる。   「たんなる薬だ。ちょいとにがいが、飲めないようなシロモノじゃねえ。な?」   言ってさしだされた湯呑みを、それでも陽子はうけとらなかった。ネズミは困ったように耳の下の毛並みをかく。   「──まあ、いいか。どんなものなら口に入れられる? 飲まず|喰《く》わずじゃ身体が持たねえ。お茶なら飲めるか? |山羊《やぎ》の乳はどうだ? それとも|粥《かゆ》ならたべられるか?」   だまったまま答えない陽子に、ネズミは困ったようにためいきをついてみせた。   「おまえは三日、眠ってた。どうにかする気なら、そのあいだにしてらぁ。その」   ネズミは陽子が抱いた布の包みに鼻先を向ける。   「剣だって隠してるぞ。そういうことで、おいらをちょっとだけ信用しねえか?」   真っ黒な瞳に見つめられて、陽子はようよう抱きしめた剣をはなす。|膝《ひざ》の上においた。   「うん」   ネズミは満足そうな声で言って、手を伸ばす。今度は陽子も逃げなかった。小さな手先が額に|触《さわ》って、すぐに離れる。   「まだすこし熱があるけど、だいぶさがったな。落ちついて寝てろ。それともなにかほしい物があるか?」   陽子は迷って口を開く。   「……水」   「水な。──よかった、ちゃんとしゃべれんじゃねえか。すぐに湯冷ましを持ってくるから、起きてるんなら布団をかぶってんだぞ」   陽子のうなずくのも見ずに、ネズミはいそいそと部屋を出ていく。短い毛並みにおおわれた|尻尾《しっぽ》がバランスをとるように揺れていた。   すぐにネズミは水差しと湯呑みと、小さな器を持って戻ってきた。   すこし熱めの湯冷ましがおいしかった。湯呑みに何度かおかわりをもらって、それから陽子は器の中をのぞきこむ。ぷんとアルコールの匂いがした」   「……これ、なに?」   「酒に|漬《つ》けた桃を砂糖で煮たのだ。それなら食えるだろ?」   陽子はうなずき、それからネズミを見返す。   「……ありがとう」   ネズミは髭を高くそよがせる。頬の毛並みがふっくりと盛りあがり、目がすこし細まって笑った表情に見えた。   「おいらはラクシュンってもんだ。おまえは?」   陽子は迷い、それから名前だけを告げる。   「陽子」   「ヨウコかぁ。どういう字を書くんだ?」   「陽気の陽、子供の子」   「子供の子?」   ラクシュンは不思議そうに首をかたむけてから、へえぇ、とつぶやいた。   「変わった名前だなぁ。どっから来たんだ?」   答えないのはまずい気がして、陽子は迷い迷いしながら答える。   「|慶国《けいこく》」   「慶国? 慶国のどこだ?」   それ以上は知らなかったので適当に答えた。   「|配浪《はいろう》」   「そりゃ、どこだ?」   ラクシュンはすこしだけ困惑したように陽子を見て、それから耳の下をかいた。   「まあ、そんなことはどうでもいいか。とりあえず寝ろ。薬、飲めるか?」   今度は陽子はうなずいた。   「ラクシュンはどういう字?」   ネズミはもう一度笑った。   「苦楽の楽に、俊敏の俊」   2   その部屋で一日を寝てすごして、この家には楽俊しかいないようだと陽子は推測をつけた。   「|尻尾《しっぽ》がありゃあ、それでいいのかい。え?」   深夜、寝台の足元に|蒼《あお》い|猿《さる》の首がある。   「どうせ裏切るに決まっているサァ。違うかい?」   この部屋には寝台が二つあるが、楽俊はここで寝ない。ほかに寝室があるとも思えないが、どこでどうやって寝ているのか、陽子にはわからない。   「出ていったほうがよくはねえかい? でなければ、一思いに息の根を止めるんだよ、ナァ?」   陽子は返答しない。黙って聞いていれば、|蒼猿《あおざる》は同じことを何度もくりかえした。   これは陽子の不安だ。それを言いあばくためにこの猿は来る。ふくらんだ不安を食らうために。──きっとそうなのだろうと思う。   するすると布団の上をすべって蒼猿が枕元までやってくる。小さな首が|横臥《おうが》している陽子の顔をのぞきこむようにした。   「悪いことがおこる前に先手を打つんだ。そうしないと生き残れねえ。わかってるだろう?」   陽子は寝返りをうって天井を見あげる。   「……楽俊を信用してるわけじゃない」   「ヘェ?」   「この状態じゃ、動けないからしかたない。せめて剣をにぎれるようになってから出ないと、出て行ってもみすみすバケモノの|餌食《えじき》になるだけだ」   流石に右手の傷が深い。一日|珠《たま》を当てていても、まだ握力が戻らない。   「奴はおまえが|海客《かいきゃく》だと気がついているかもしれねえぜ? そうのんきにかまえてていいのかい。いまにも役人が踏み込んでくるかもなァ?」   「だったら剣にものを言わせるだけだ。役人の四、五人ていどが踏み込んできたって、きりぬけられる。それまでは利用させてもらう」   ──ここには陽子の味方などいない。   だが、いまは切実に助けが必要だった。せめて剣をにぎれるようになるまで。もうすこし体力が戻るまで。それまでは、安全な寝床と、食べ物と、薬が必要なのだ。   楽俊が敵なのか敵でないのかわからないが、少なくともネズミは陽子に必要なものを提供してくれる。敵であることがはっきりするまでこの状態を利用する。   「飯に毒は入ってないか? 薬はほんとうに薬なのかヨォ」   「用心はしてる」   「裏をかかれねえと言い切れるのかい」   蒼猿は陽子の不安を言いあばいていく。それにいちいち答えていくのは、自分になにかを言いきかせる作業に似ていた。   「積極的にわたしになにかをする気があるのなら、意識のないあいだになんでもできた。いま食事の中に毒なんか入れなくても、殺すチャンスはいくらでもあった」   「なにかを待ってるのかもなァ? 援軍かなにかをサァ」   「だったら、それまでにすこしでも体力をたくわえておく」   「とりあえず信用させて、それから裏切る|肚《はら》かもなァ」   「だったら、楽俊の意図が見えるまで信用したふりをしておく」   猿はいきなりきゃらきゃらと笑った。   「性根が座ってきたじゃねえか、え?」   「……さとった」   この世界に陽子の味方はいないのだということ。行く場所も、帰る場所もないのだということ。自分がいかに|独《ひと》りかということ。   それでも生きのびなければいけない。味方も、生きる場所もない命だからこそ、心底惜しい。この世界のすべてが陽子の死をねがうなら、生きのびてみせる。もといた世界のすべてが陽子の帰還をのぞまないなら、帰ってみせる。   あきらめたくない。どうしてもあきらめられない。   生きのびて、ケイキを探し、必ずあちらに帰る。ケイキが敵でも味方でも関係ない。敵だというなら|脅《おど》してでも、もといた世界に帰してもらう。   「帰ってどうする」   「それは、帰ってから考える」   「ひとおもいに死んだほうがよくはねえかい」   「誰も惜しまない命だから、自分だけでも惜しんでやることにしたんだ」   「──あのネズミは裏切るぜ」   陽子は猿を見返した。   「わたしは楽俊を信じてないから、裏切りようがない」   もっと早く気づけばよかったのだ。陽子は海客だ。だから狩られる。海客には味方などいない。この世界のどこにも居場所などない。それさえちゃんとわかっていたら、|達姐《たっき》にも|松山《まつやま》にも、うかうかとだまされたりしなかった。おめでたくも信用して裏切られることなどなかったのだ。信用したふりで相手を利用し、生きのびる方策を立てることができたはずなのに。   利用できるものは利用する。それのどこが悪い。達姐も松山も陽子を利用して小金を|稼《かせ》ごうとした。だったら、陽子が楽俊を利用して命をつなぐことに、なにをはばかることがあるだろう。   「りっぱな悪党になれそうだなァ。エェ?」   「それも、いいかもしれない」   つぶやいて、陽子は手をふる。   「眠い。──帰れ」   猿は奇妙な顔をする。なにか|苦《にが》いものをこらえているような表情だった。そのまま後ろ頭を見せて、ふいと布団の下に沈みこむようにして姿を消した。   それを見守ってから、陽子は薄く笑う。   あれは陽子の、自分でも感じていなかったような不安まで言いあばいてくれるから、自分の気持ちを整理するのに役立つ。──利用できる。   「たしかに、りっぱな悪党になれそうだ……」   軽い|自嘲《じちょう》の笑みがもれる。   それでも、二度と他人に利用されるのだけはごめんだ。二度と誰にも自分に危害はくわえさせない。かならず、自分を守ってみせる。   「だから、あれでよかったんだ」   山道で出会った親子。陽子が親子に裏切られることがなかったのは、親子に裏切る|隙《すき》を与えなかったからにほかならない。   ──そしてその隙を、楽俊にも与えないことだ。   そうすれば生きのびることができる。   どうして陽子はこんな世界に来なければならなかったのか。なぜケイキは陽子を|主《あるじ》と呼んだのか。敵とはどういう敵か。敵の目的はなんで、なぜ陽子を狙うのか。あの女は──ケイキと同じ金の髪の、あの女はなにもので、なぜ陽子を襲ったのか。   ──妖魔は特定の誰かを狙ったりしない。   だったらなぜ、陽子が襲われたのか。黒い犬の|死骸《しがい》をあの女は抱いた。死を|悼《いた》んでいるように見えた。だとしたら、あれはあの女の仲間だったのか。ケイキのまわりに妖魔がいたように、あの女のまわりにも妖魔がいて、それに陽子を襲わせたということだろうか。しかしながら、あの女もまた誰かに陽子を襲うよう命じられているようではなかったか。では、命じたのは誰だろう。ケイキもまた、誰かに命じられて陽子にかかわったのだろうか。   わかることがなにひとつない。わからないままではいられない。だから、かならず誰かに答えてもらう。   無意識のうちに|拳《こぶし》をにぎると、のびた|爪《つめ》がてのひらにくいこんだ。   陽子は手をあげて自分の指先をしみじみと見る。   折れて欠けた爪は鋭利な形をしている。魔物の爪のようだった。   ──|虚海《きょかい》を渡れるのは妖魔か|神仙《しんせん》だけ。   陽子は神でも|仙人《せんにん》でもない。   ──では妖魔か。   虚海の岸で赤い獣に変化していく夢を見た。あれはほんとうに夢だったのだろうか?   こちらに来る前、陽子は長いあいだ妖魔に襲われる夢を見ていた。そうして、その夢は現実になった。──だとしたら。   獣になる夢もまた、予知でないといいきれるのだろうか?   赤く変化した髪も、|蒼《あお》く変化した目も、ぜんぶ獣に変化していく一段階だとしたら? 陽子は実は人間ではなく、妖魔だったのだとしたら。   それはひどく恐ろしいことに思え、同時にひどく|愉《たの》しいことに思えた。   怒鳴ること、叫ぶこと、剣をふるい、他を威圧すること。そこには奇妙な高揚感がひそんでいる。陽子は生まれた世界で、声をあらげることもなく、他をにらむこともなく生きてきたし、それをなにかの罪悪のように思ってきた。それは本当は、自分でもわかっていたからではなかったろうか?   陽子自身の無意識が、陽子は妖魔であり、|猛々《たけだけ》しい獣であることを知っていて、それではあの世界で生きていけないことをわかっていて、無害な生き物のふりをしようとした結果ではなかったか。   だからこそ、誰もが陽子を「|得体《えたい》が知れない」と言ったのかもしれない。   ──そんなことを考えながら、眠りに落ちた。   3   家は田園地帯にありがちの、ごく小さな貧しい建物だった。こちらの住居はだいたい貧しいたたずまいをしているが、そのなかにあってもこの家が|侘《わび》しい部類に入ることが陽子にもわかる。   |田圃《たんぼ》のなかにある家はふつう何軒かの家と集落を作っているものだが、この家は珍しく一軒家のようだった。山の斜面にある家の近くにはほかの家は見えない。   ネズミの家だといえば小さな家を想像しそうだが、規模こそ小さいがサイズはごく普通の建物だった。建物だけでなく、家具から日用品から、ぜんぶが人間のサイズにあっているのが不思議な気が、陽子にはする。   「楽俊、ご両親は?」   ようやく起きて動くことができるようになって、陽子は楽俊を手伝って|竈《かまど》の大きな鉄鍋に水を|注《さ》しながらきいてみた。|桶《おけ》をささえる右手にはまだ包帯を巻いているけれども、その下の傷はすでにほとんどふさがっている。   竈に|薪《まき》を放りこんでいた楽俊は陽子をふりあおいだ。   「父ちゃんはいねえ。母ちゃんは出かけてる」   「旅行? ずいぶん長いね。遠く?」   「いんや。近くの里まで。ちっと仕事があってな。|一昨日《おととい》には帰ってくるはずだったんだが、帰ってこねえとこを見るとこきつかわれてるんだろ」   では、母親がすぐにも帰ってくるかもしれない、と陽子は心のなかにきざんでおく。   「お母さんの仕事は?」   「冬のあいだは女中だな。普段は小作農。夏でも呼ばれりゃ、雑用をしにいく」   「そう……」   「陽子はどっかに行く途中だったのか?」   問われて陽子は少し考える。どこかに行こうとしたわけではない。ただ歩いていたのだとは言えなかった。   「……ケイキという人を知らない?」   楽俊は毛並みについた木屑を払った。   「人探しか? そいつは、この辺の人間か?」   「どこの人だかはわからない」   「気の毒だが、おいらにゃケイキなんて知り合いはいねえな」   「そう。──ほかにすることは?」   「ない。病みあがりなんだから、|座《すわ》ってな」   言われるまま、陽子はだるい身体を|椅子《いす》にあずけた。   小さなダイニング・キッチンの床はむき出しの土で、置かれたテーブルも椅子も、ぎしぎしいうような古い品物だった。   陽子が座った隣の椅子には布でくるんだ剣がおいてある。片時も離そうとしない陽子を、楽俊は別段とがめなかった。それがどういう思考によるものかはわからない。   「陽子はどうして」   楽俊はつややかな毛並みの背中を見せたまま子供の声で聞いてきた。   「男のナリをしているんだ?」   寝間着に着がえていたので、バレているだろうとは思ってはいた。   「……ひとり旅は危険だから」   「そうか。そうだなぁ」   言って土瓶を持ってくる。なにかを|煎《せん》じたらしい芳香が狭い部屋にたゆたった。[#入力者注:「たゆたう」はこういう場合に使うのかな?]湯呑みをふたつ、テーブルの上に出してネズミは陽子を見あげた。   「どうしてその剣には|鞘《さや》がねえんだ?」   「……なくした」   答えながら鞘をなくしたことをいまさらながら思い出した。|虚海《きょかい》を渡るときに剣と鞘とを離してはいけないといわれたが、鞘をなくしたことが原因でなにかの災難が降りかかってくる気配はない。やはりあれは、|珠《たま》をなくしてはいけないという、そういう意味だったのだろう。   ふうん、とつぶやいて楽俊は椅子によじ登る。その動作は幼い子供に|酷似《こくじ》している。   「どっかで鞘をあつらえてやらねえと、せっかくの剣が|傷《いた》むぜ」   「……うん。そうだな」   気のない声で答える陽子を、楽俊は真っ黒な目で見あげた。ちょっと小首をかしげる。   「陽子は|配浪《はいろう》から来たって言ってたよな」   「……そう」   「それは|慶国《けいこく》じゃなく、|槙県《しんけん》の東のほうにある村のことじゃねえのか?」   そういえば、そんな場所だったかと、陽子はぼんやり思いながらだまっている。   「あのあたりで大きな|蝕《しょく》があったんだってな」   これにも陽子はだまっていた。   「|海客《かいきゃく》が打ちあげられて、逃げたとか」   陽子は楽俊をにらむ。無意識のうちに手が伸びて剣をつかんでいた。   「なんの、話」   「十六、七の女で、|紅《あか》い髪をしてる。剣を持ってるんで注意が必要。剣には|鞘《さや》がない。……陽子は髪を染めてるだろ」   |柄《つか》をにぎって、視線をただ楽俊に注ぐ。ネズミの表情は読みとれない。そもそも人間よりは数段とぼしい。   「役所からそう連絡がきた」   「……それで」   「そんな|怖《こわ》い顔すんなって。突き出すつもりなら、役所の人間が来たときに突き出してらぁ。大枚の賞金もついてたことだしな」   陽子は布をほどく。立ちあがって抜き身の剣を|晒《さら》した。   「なにが目的」   ネズミはただ真っ黒な目で陽子を見あげて、絹糸のような|髭《ひげ》をそよがせる。   「短気な奴だなぁ」   「わたしを|匿《かくま》った目的はなに」   ネズミはのほほんとしたしぐさで耳の下をかいた。   「目的、って言われてもなぁ。行き倒れになりそうな奴をほっとけねえだろ。だからめんどうみたし、めんどうをみた以上、やっぱ役所に突き出す気にはなれねえじゃねえか」   そんな言葉をうのみにはしない。たやすく人を信用すれば必ず|後悔《こうかい》するとわかっている。   「海客は役所に送られる。そこで待ってるのは良くて軟禁だし、悪けれりゃ首を|刎《は》ねられる。どっちかってぇと、陽子は後者だろうな」   「なぜ、そう思う」   「変な術をつかうんだろう? 護送されるところを妖魔に襲わせて、そんで逃げたって話じゃねえか」   「あれはわたしがやらせたわけじゃない」   「だろうな」   ねずみはあっさりうなずいた。   「妖魔がそうそう簡単に人に従うかい。陽子が呼んだんじゃなくて、陽子を|狙《ねら》ってきたんだろう。ちがうかい」   「……わたしには、わからない」   「それにしても陽子はやっぱり悪い海客だろうな。妖魔に狙われるような人間だからな」   「……それで」   「県庁に送られれば十中八九命がねえ。逃げるのは当然だが、どこへ逃げればいいのかわかってるのか?」   陽子は答えなかった。   「わかってねえんだろう。こんなところわうろついているようじゃな。──エンコクに行きな」   陽子はまじまじと楽俊の顔を見返した。ネズミの顔にはなんの表情もない。少なくとも陽子には読みとることができなかった。   「……どうして」   「人が殺されるのを見過しにできるかい」   言って楽俊は笑った。   「死刑が当然の悪党に同情するほどおいらだっておひとよしじゃねえ。だが、海客だってだけで殺されちゃあ、たまらんだろ」   「悪い海客なんでしょう」   「役人はそう考えるだろうって話だ。海客に良いも悪いもあるもんかい。珍しいものは気味が悪いような気がするだけだろ」   「悪い海客は国を滅ぼすって」   「迷信だ」   あっさりと言った口調にかえって警戒心がわいた。同じように迷信だといった人がこの国にいた。それは人間の女だったけれども。   「それで? そのエンコクとやらに行けば、助かるわけ」   「助かるさ。エンコクの王は海客を|疎《うと》まない。あそこじゃ海客もほかの人間と同じように生活してる。海客に良いも悪いもない証拠だろ。だから、エンコクに行くのがいいと思う。──その|物騒《ぶっそう》なもんをしまいな」   陽子は、ためらい、ためらい、とりあえず剣をおろした。   「座んなよ。茶が冷めるぜ」   言われてようやく陽子は椅子に座る。楽俊の意図がわからない。海客であることがばれた以上、早々にここを出ていったほうがいいのだろうが、せめてエンコクについて詳しい情報がほしい。   「このあたりの地理がわかるかい」   陽子は首を横にふった。楽俊はうなずき、湯呑みを抱えて椅子を降りる。剣をにぎったままの陽子の足元まできて、土間に|屈《かが》みこんだ。   「ここは|安陽《あんよう》県、|鹿北《かほく》ってところだ」   楽俊は簡単な地図を土の上に描いていく。   「ここが虚海、槙県はここ。配浪ってのはこのあたりらしいから、陽子は南西、つまり|巧国《こうこく》の中央へ向かって歩いてきた案配になる。逃げるんなら巧国を出なきゃならないのに、これじゃ逆だ」   陽子は地図を複雑な気分で見おろした。これを信じていいのか。地図のどこかに|嘘《うそ》がないか。疑いながらも、くいいるように見つめる。これが今もっともほしい情報だった。   「西隣が|北梁《ほくりょう》県、これをまっすぐ西に向かうと|青海《せいかい》てぇ内海に出る。青海を渡った対岸が|雁国《えんこく》だ」   楽俊の小さな指が略図と、驚くほど達者な文字を書いていった。   「まず、北梁を目指せばいいんだな……」   「そうだ。最終的に|阿岸《あがん》てぇ港につけばいい。阿岸からは雁国へ船が出てる」   「……船」   船が使えるだろうか。港を監視されていたら、みすみす|網《あみ》のなかに飛びこむようなものだ。   「だいじょうぶだ」   陽子の独白を見透かしたように楽俊は笑う。   「槙県から巧国の外に出るには、まっすぐ北に行って山越えして慶国へ出るのがいちばん早い。役所の連中もまさかこんなところへは来ないだろうが、と言ってたしな。道を間違ったのが幸いしたんだ。手配書がまわっているが、赤毛の若い女、とある。そのめだつ剣さえなんとかすりゃあ、そうそうばれやしねえだろうよ」   「……そう」   陽子は立ちあがった。   「ありがとう」   楽俊はキョトンと陽子を見あげる。   「おい。まさか今から出かける気かい」   「急ぎたいから。世話になってばかりで悪いけど」   楽俊もまた立ちあがる。   「待ちな。よくよく気の短い奴だなぁ」   「でも」   「雁国に言ってそれから、どうする。手当たりしだいに人を捕まえて、ケイキって奴を尋ねて歩くのかい。船の乗り方はわかるのか、雁国に保護を求める方法はわかるのか?」   陽子は視線をそらす。目的地が定まっただけでもこれまでの旅に比べれば格段に先行きがひらけたような気がしていたのに、それでもなお乗り越えなければならない困難がこんなにある。そうしてこれはおそらく、実際に直面する困難の何十分の一にも満たないのにちがいない。   「なにごとにも準備ってもんがあらぁ。そう焦るな。ここで焦ったところで、後になって行き詰まる。な?」   陽子は頭を下げた。心のどこかで|罠《わな》を恐れる自分がいるが、とりあえずここでは楽俊を頼りにするしかないのだ。   「そんじゃ、飯にするか。とにかく体力をつけろよ。阿岸まではひと月はかかるんだからな」   陽子はもう一度頭を下げた。   少なくとも、体力が完全に戻るまで。それまでには楽俊の意図も分かるだろう。単におめでたいのか、それとも深い策略があってのことか。雁国に──阿岸に、行かねばならない。それを知られている以上、楽俊の真意だけは見届けないわけにいかないのだ。   4   「ずいぶん大きな|蝕《しょく》だったんだって?」   楽俊は昼食のあとかたづけをしながら言った。   「……|配浪《はいろう》の長老はそう言ってた」   「|槙《しん》の東一帯は、今年の麦が全滅だとさ。かわいそうな話だ」   陽子はただうつむく。胸のどこかがわずかに痛んだ。   「陽子がしょげることはねえ。別に陽子のせいってわけじゃねえんだから」   「しょげてるわけじゃない」   |竈《かまど》の灰を掻き出しながら言った陽子の手をかるく叩いたのは、短い毛並みにおおわれた|尻尾《しっぽ》だった。   「|海客《かいきゃく》が来るから蝕が起こるわけじゃねえ。蝕が起こるから海客が来るんだ」   陽子は楽俊に言われたとおりに木箱のなかに灰を落としこむ。燃え残った木屑を拾いあげてべつの箱に入れた。   「聞いてもいいかな」   「なんだ?」   「蝕って、なに?」   嵐のようなものだと配浪の長老に聞いたが、実際にどういうものだかはよくわからない。   「ああ、蝕もわからねえか。あっちには蝕がねえんだな」   「日蝕、とか月蝕ならあるけど」   「似たようなもんだ。べつに太陽が欠けたり月が欠けたりはしねぇけどな。そうだな、嵐みたいなもんかな。嵐は空気が乱れるが、蝕は気が乱れる」   「雨が降って、風が吹いて?」   「そういうこともある。たんに嵐のように大風が吹く職もあるが、そういう蝕はたいしたことがないな。地震があったり雷が鳴ったり川が逆流したり、いきなり地面が沈んだりする。いろんな天変地異がいっしょくたにくると思えばまちがいないかな。配浪じゃヨウチって湖の底が盛りあがってあふれたとよ。もう湖は跡形もねえそうだ」   陽子は灰を落とすために洗っていた手を止めた。   「そんなに厳しい災害なの?」   「ものよるけどな。おいらたちは嵐よりは蝕が怖い。蝕はなにがおこるかわからなねえから」   「どうしてそんなことが」   楽俊は真剣な顔で、大仕事をする手つきでもってお茶を入れている。   「蝕ってのは、あっちとこっちが重なって混じっちまうことを言うんだそうだ。本来なら別々のものが重なるから、災害になる。よくはわからねえけど、そういうことなんだと思うぜ」   「あっちとこっち……」   この家で出されるお茶は緑茶のような色をしている。それでもぜんぜん匂いがちがう。味は口あたりのいいハーブティーに似ている。   「あっちというのは、|虚海《きょかい》の向こうのことだな。こっちは、こっちだ。名前なんかねぇ」   陽子はうなずいた。   「虚海は陸を取り巻いている。虚海の先にはなにもない」   「なにも?」   「そう、なにも。行けども行けどもえんえんと虚海が続いていて、果てがない。少なくともそう言われているな。物好きな奴が果てを見てこようってんで船を出したこともあったらしいが、帰ってきた奴はいないそうだ」   「じゃ、こちらは大地が平らなんだ」   楽俊は椅子によじ登りながらきょとんと陽子を見た。   「地面が平じゃなかったら、みんな困るじゃないか」   あきれたような声がすこし笑えた。   「……こちらの世界はどういう形をしているんだろう」   楽俊は、テーブルの上にあった|胡桃《くるみ》を手に取って置いた。   「世界のまんなかにスウサンがある」   「スウサン?」   「|崇高《すうこう》な山、と書くな。ほんとうに崇高と呼ぶこともある。|中岳《ちゅうがく》とも|中山《ちゅうさん》ともいう。その四方には東西南北の山がある。|東岳《とうがく》、とか|東山《とうざん》とかいうが、東西南北をそれぞれ|蓬《ほう》山、|華《か》山、|霍《かく》山、|恒《こう》山と呼ぶのが普通だ。東岳は昔は|泰《たい》山といった。北の国、|戴国《たいこく》の王が号を|代《たい》から泰《たい》にあらためたので泰王をはばかって蓬山と呼ぶようになったと聞いてるな。この五つの山が五山だ」   「へぇ……」   「この五山の周囲に|黄海《こうかい》がある。海といっても、水のある海じゃねえ。荒れた岩山と砂漠、沼地と樹海だって話だ」   楽俊の指が描いていく文字を陽子は見守る。   「見たことはない?」   「あるわけがねえ。黄海の周囲をさらに東西南北の|四金剛《しこんごう》山が取り巻いている。金剛山の内側は、人の住む世界でねえ」   「そう……」   まるでなにかで見た古い地図のような地形だ、と陽子は思った。   「金剛山の周囲の四方に四つの内海があって、さらに八方を八つの国が取り巻いてる。その周囲が虚海だ。陸にうんと近いところに四つ大きな島がある。この四つの国と金剛山の周囲の八つの国で、ぜんぶで十二国」   陽子は幾何学的に配置された胡桃を見つめた。それは花のようにも見える。五山を中心に、花びらのように配置された国々。   「それ以外はない?」   「ないな。その外は虚海だけだ。ずーっと世界の果てまでなにもない海が広がっている」   ただ、と楽俊はつぶやいた。   「虚海の東の果てには不思議な島があるという話もある。まぁ、一種の伝説だ。それを|蓬莱《ほうらい》国という。別名を|日本《にっぽん》ともいうな」   言って楽俊が書いたのは「|倭《わ》」という文字だった。   「倭? 日本?」   実際に文字を書いてみせると「倭」のほうを示す。   陽子はすこし唇をかんだ。こんなふうにして、今まで|翻訳《ほんやく》されてきたわけか。   「海客は倭から来るという話だ」   今度はきちんと「倭」と聞こえた。陽子が言葉を知ってしまったので翻訳の必要がないということなのだろう。   「ほんとうかうそかは知らねえけど、海客の話を聞いてみると、どこからに倭という国があるのはたしからしい。倭を捜して船を出した奴もいるが、やっぱり帰ってこなかったそうだ」   もしもほんとうに日本が虚海のかなたにあるものならば、船を東に|漕《こ》ぎ出せば帰れる可能性がある。しかし、そんな手段では帰れるはずのないことを、月影を通ってやってきた陽子は知っていた。   「反対に、金剛山のどこかに|崑崙という丘があるという言い伝えもある。そこは中国という。中国からは|山客《さんきゃく》がやってくる。   言いながら、楽俊は「|漢《かん》」という文字を書く。   「山客? じゃあ、海客のほかにもこちらに混じりこんでしまう人間がいるんだ」   「いるな。海客は虚海の岸にたどりつき、山客は金剛山の|麓《ふもと》にたどりつく。この国じゃ山客は多くねえが、どっちにしても終われるはめになるな」   「そうか……」   「漢も倭も、普通は人は行き来できねえ。それができるのは妖族と神仙だけだといわれてる。ただ、蝕がおこって、あっちから人が流されてくることがある。それが山客と海客」   「ふうん……」   「漢や倭じゃ、家は金銀玉でできている。国は豊かで農民でも王侯のような暮らしをするそうだ。人はみんな宙を駆けて一日に千里でも走る。赤ん坊でも妖魔を倒す不思議な力を持つそうだ。妖魔や神仙が神通力を持つのも、あちらへ行って深山の泉を飲むからだとさ」   言って楽俊は陽子を見る。陽子は苦笑しながら首を横にふった。   奇妙な話だ、と陽子は思う。もといた世界に帰って人に話せばおとぎ話と言われるだろう。この世界にもおとぎ話がある。   思って陽子はかすかに笑った。   この異常な世界、とずっとそう思ってきたが、はたして異常なのは世界だろうか、陽子だろうか。   答えならわかっている。だから海客は追われるのだと、そんなことをようやく思った。   5   「……|巧国《こうこく》に流れついた|海客《かいきゃく》はみんな死ぬことになるね。|蝕《しょく》と海客が切り離せないなら」   しばらくぼんやりと過去に幾多いただろう海客の運命について考えて、陽子は口を開いた。   「そういうことになるなぁ。……陽子は、仕事はなんだ?」   「学生」   そうか、と楽俊は何やら感慨深そうにする。   「海客のなかには、こっちじゃ知られてない技術を持っていたり、知識を持っていたりする奴がいる。そういう人間はえらい人の保護を受けて生活できるんだがなぁ」   なるほど、と陽子は自嘲の笑いを漏らす。陽子にはこの世界になにかをもたらせるほどの知識はない。   「……倭へ帰る方法を知らない?」   陽子が聞くと、楽俊は明らかに難しい顔をした。   「おいらは知らねえ。……これは言わねえほうがいいのかもしれねえけど」   言い淀んでから、   「多分、そんな方法はねえと思う」   「そんなはずない。来れたものなら、帰る方法だってきっとあるはず」   陽子の声に楽俊は|髭《ひげ》を|垂《た》れる。きゅうぅ、と|喉《のど》を鳴らした。   「人は|虚海《きょかい》を渡れねえんだよ、陽子」   「実際に渡ってきた。だからわたしはここにいる」   「来ることはできても、行くことはできない。実際、海客にしても山客にしても、帰った話はついぞ聞かねえ」   「そんなはず……ない」   帰れない、という言葉はどうあっても受け入れることができなかった。   「蝕は? 蝕を待てばいいんじゃない? そうすれば、帰れる」   勢いこんだ陽子の言葉に、楽俊はしおしおと首をふる。   「いつ、どこで蝕がおこるかは、誰にもわからない。いや、わかる蝕もあるが、人はあちらに行くことができねえ」   そんなはずはない、と陽子はもう一度心の中でくりかえした。帰れないのならば、ケイキがそう言ったはずだ。彼はなにも言わなかった。彼の態度のどこからも、二度と帰れないのだとは感じられなかった。   「わたしは倭から|蠱雕《こちょう》に追われて逃げてきた……」   「蠱雕? 逃げてって、こっちへか?」   「そう。ケイキという人が」   「陽子が探してる奴か?」   「そう。そのケイキが、わたしをこちらへ|連《つ》れてきたんだ。正確に言うと、蠱雕たちがわたしを狙っているから、身を守るためにはこちらへ来る必要があるといって」   陽子は言って、楽俊を見る。   「ということは、身を守る必要がなくなったら戻れる、ってことなんじゃないの? わたしがどうしても家に帰りたいのなら、ちゃんと送るって言った」   「バカな」   「ケイキは宙を飛べる獣をつれてた。楽俊みたいに離す獣。まっすぐに飛べば片道に一日、と言ってた。片道、ってことは帰りのことを考えた|台詞《せりふ》だと思う。少なくとも二度と帰れない旅につかう言葉じゃない。……ちがう?」   陽子が訴えるようにそう言っても、楽俊はしばらく口を開かなかった。   「──楽俊?」   「おいらにはよくわからねえ。……でもおおごとがおこってるのはたしかみてえだな」   「……そんなに、たいそうなこと? わたしが言ったことは」   「たいそうなことだな。蠱雕なんて妖魔が出たらこっちじゃ大騒ぎだ。近くの里が|空《から》になることだってある。しかもその蠱雕は特定の誰かを狙っていたという。わざわざあちらへ、だ。そんな話ははじめて聞いた。──そうしてケイキとかいう人間がおまえをこちらへ連れてきたとか」   「うん」   「妖族も、たとえ神仙にしても、行き来できるのは自分の身体ひとつだと、おいらは聞いてる。ケイキというのが何者にしても、他人を連れて行き来した、なんて話は聞いたことがねえ。なにがおこったのか、おいらにゃとうていわからねえが、それが|尋常《じんじょう》のことでねえのだけはわかる」   楽俊は思い悩むように考えこんでから、真っ黒な目を陽子に向けた。   「それでおまえ、どうした。何より身を守りたいか、それともまず帰りたいか」   「……帰りたい」   陽子が言うと、楽俊はうなずく。   「そうだろうな。だが、おいらじゃその方策がわからねえ。これはどうあっても|雁国《えんこく》へいったがいい」   「うん。それから?」   「役人や|州侯《しゅうこう》の手に負えることとも思えねえ。雁国へ行って、|延王《えんおう》の力を借りるしかねえと思う」   陽子はぽかんと楽俊が書いた文字を見つめた。   「延王……。王様?」   楽俊はうなずいた。   「雁国の王は代々延というんだ」   「でも、王様が力を貸してくれるの」   「わからねえ」   そんな、と陽子は声をあげそうになったが、かろうじて耐えた。   「わからねえが、このまま巧国にいるよりはましだ。巧国の|主上《しゅじょう》に助力をお願いするよりも、まだ希望がある。延王はタイカだからな」   「タイカ?」   「胎、果。あちらの生まれのお方だよ。そういうことがごくたまにある。ほんとうはこちらの人間なのに、まちがってあっちに生まれることがな」   陽子は目を見開いた。   「そんなことが?」   「ああ。ほんとうにたまのことだ。といっても、まちがってあちらに生まれることじたいがたまなのか、こちらに戻ってくることがたまなのかは、はっきりしねえけどな」   「……ふうん」   「こちらには|三方《さんかた》有名な胎果がいる。雁国延王、延|宰輔《さいほ》、|戴《たい》国|泰《たい》宰輔」   「宰輔」   「王の補佐をする相談役みたいなもんだな。このうち泰宰輔は亡くなったという話だ。泰王は|行方《ゆくえ》知れず、国も乱れてとうてい近づけねえ。やはり雁国を訪ねるべきだろう」   陽子はすこし|呆然《ぼうぜん》としていた。たくさんの知識を急速に詰めこまれたせいでもあり、あまりに急激に先の見通しがたったせいかもしれない。   王を訪ねるというのは、首相や大統領を訪ねるに|匹敵《ひってき》することだろう。そんなことが可能なのか、という思いと同時に、そんなたいそうなことに巻きこまれているのかというとまどいがある。そう考え込んだとき、表から足音が聞こえた。   6   表に出る板戸を開けて姿を見せたのは、中年の女だった。   「楽俊」   呼ばれてネズミは顔をあげる。   「母ちゃん」   |髭《ひげ》をさわさわさとそよがせた。   「妙なお客を拾っちまったぞ」   陽子はきょとんとせざるをえなかった。帰ってきた女はまちがいなく人間に見える。彼女もまた驚いたように楽俊と陽子を見くらべた。   「お客って、おまえ、この娘さん、どうしたんだい」   「林で拾った。こないだの|槙《しん》県の|蝕《しょく》で、あっちから流されてきたんだと」   まあ、とつぶやいて、女は楽俊の顔を見る。|堅《かた》い表情が顔をかすめた。   陽子は身構える。この女も槙県で逃げだした|海客《かいきゃく》の噂を聞いているだろうか。だとしたら、はたして楽俊のように陽子を|匿《かくま》ってくれるだろうか。   「……そりゃ、たいへんだったろうねえ」   息を詰めて見守る陽子に向かって女は笑った。そうして楽俊をふり返る。   「なんだい、おまえ。だったら呼び戻してくれればよかったのに。娘さんの世話がおまえにちゃんとできたのかい」   「ちゃんとできたさ」   「どうだかねえ」   笑ってから、女は笑いを含んだままの目で陽子を見やった。   「……ごめんなさいよ。あたしは用で出てたものだから。楽俊はちゃんとあなたの面倒を見れたのかしら」   「あ、……はい」   陽子はうなずく。   「熱を出して身動きができなかったところを、助けていただきました。ありがとうございます」   あら、と女は目を丸くした。陽子のそばに駆け寄ってくる。   「もうだいじょうぶなのかい、起きて?」   「はい。ほんとうにお世話になりました」   答えながら、陽子は油断なく女の表情を探る。   楽俊はまだいい。獣だから。女は信用できない。信用するのが|怖《こわ》い。   「そんなことならなおさら、母さんを呼べばよかったのに。気がきかないねえ」   女に言われて楽俊は不満そうに鼻先をあげた。   「ちゃんと面倒見たさ。具合もすっかりよくなったし」   女は陽子の顔をのぞきこむ。   「よかったこと。……起きていてもつらくない? まだ寝ていたほうがよくはないかい?」   「もう、だいじょうぶです」   「そう。ああ、こんな薄着で。──楽俊、着物を出しておあげよ」   あわてたように楽俊が隣の部屋に駆けこんだ。   「お茶もすっかりさめてるじゃないか。ちょいとお待ちね。今、いれなおしてあげようね」   玄関の戸をしっかりと内側から戸締りして、バタバタと裏口から井戸端へ消える女を陽子は見送る。薄い上着のような着物を抱えて戻ってきた楽俊にそっと声をかけた。   「お母さん?」   「そうだ。父ちゃんはいない。うんと前に死んだからな」   楽俊の父親というのは、人間だったんだろうか? ネズミだったんだろうか?   「ほんとうのお母さん?」   おそるおそる聞いてみると、楽俊は不思議そうにする。   「もちろん、ほんとうの母ちゃんだ。母ちゃんがおいらをもいだんだからな」   「もいだ?」   楽俊はうなずく。   「リボク──里の木──から、もいだんだ。おいらの入った木の実を」   そこまで言って楽俊は、はたと気がついたように、   「あっちじゃ子供は母親の腹になるってほんとうか?」   「……うん。普通、そうだね」   「腹に木の実ができるのか? そうしたらどうやってもぐんだ? 腹の外にぶら下がってるのか?」   「もぐ、っていうのがよくわからない」   「木になったランカを取るんだ」   「ランカ?」   「卵の果実。このくらいの」   楽俊はひとかかえほどの大きさを示した。   「黄色い実で、なかに子供が入ってる。それが|里木《りぼく》の枝になって、親が行ってもぐんだ。あっちじゃ|卵果《らんか》はならないのか?」   陽子はかるく額を押さえた。これはおそろしく常識が違う。   「ちょっとちがうみたい……」   楽俊は問いかけるように陽子を見る。陽子は苦笑した。   「あっちじゃ子供は母親のお|腹《なか》のなかにできる。母親が産むんだ」   楽俊は目を丸くした。   「|鶏《とり》みたいに?」   「ちょっとちがうけど、そういうカンジかな」   「どうしてできるんだ? 腹のなかに枝があるのか? 腹のなかにある実をどうやってもぐんだ?」   「うーん……」   陽子がさらに頭を抱えたところで、母親が戻ってきた。   「さあさ。お茶をいれようね。お腹はすいてないかい?」   楽俊の母親は息子から陽子の事情を聞きながら、手早く|蒸《む》しパンに似たお菓子を作ってくれた。   「それでな」   と楽俊は小さな手に大きな蒸しパンの|塊《かたまり》をかかえて言う。   「|雁《えん》国に行ってみるのがいいんじゃねえか、って話をしていたところなんだ」   母親はうなずく。   「そうだね。それがいいだろうね」   「そういうわけで、おいらは陽子をカンキュウまで送ってくる。着るものを持たせてやってくんな」   楽俊が言うと、母親は目に見えて|強《こわ》ばった顔をした。   「そんな、……おまえ」   「心配するこたねえよ。ちょっとひとっぱりしりしてくらぁ。なぁに、土地にふなれな客人を送ってくるだけだ。母ちゃんはしっかり者だから、ひとりでもだいじょうぶだな?」   母親はすこしのあいだ楽俊を見つめて、それからうなずいた。   「あいよ。──気をつけて」   「楽俊」   陽子は言葉をはさんだ。   「気持ちはありがたいけど、そこまで迷惑はかけられない。道なら聞いたからなんとかなると思う」   同行者は怖いのだ、とはさすがに言えなかった。   「さっきの地図を、なにかに書いてもらえるかな。手間を取らせて悪いけど」   「陽子。雁国に入るだけならともかく、王を訪ねるとなればおまえだけじゃむりだ。たとえ道はわかっても、カンキュウまでは三ヶ月以上はかかる道のりだ。そのあいだ、食う物はどうする。宿はどうする? 銭はもっているのか?」   陽子は押し黙る。   「とてもひとりじゃ行かせられねえ。おまえはこちらのことを、なにもわからないんじゃねぇか」   陽子は考え込む。長いあいだ迷って、それからうなずいた。   「……ありがとう」   いいながら視野の端で剣の包みをとらえていた。   たしかに楽俊には同行してもらったほうがいい。この母子は一見、陽子を助けようとしているように見えるが、それが本当だとは限らない。敵か味方かわからないが、行く先を知られている以上、わからないまま放置しておくことはできない。陽子がここを出て即座に役所に訴え出られたら、|阿岸《あがん》で待っているのは船ではなく|罠《わな》なのだから。   連れていけばこの女に対しての|人質《ひとじち》になる。万が一楽俊が自分にとって危険な存在になれば、剣にものをいわせればすむことだ。   ──そう考え、ひどく自分が情け無い生き物になった気がした。   7   楽俊の家を出たのはそれから五日後のことだった。   親子は陽子の味方であるかのように振る舞いぬいたし、陽子もとりあえずゆっくり休むことができた。「この親子だってなにを考えてるかわかったもんじゃない」というのが|蒼猿《あおざる》の言い分ではあったし、それは陽子も承知していることではあったが。   楽俊の母親は旅の準備をなにからなにまで整えてくれた。|達姐《たっき》の家よりも貧しそうに見えるのに、粗末なものとはいえ陽子の着がえにいたるまで準備してくれる。陽子には大きな男物だったので、楽俊の死んだ父親のものかもしれない。   それはかえって陽子のなかに警戒心を呼びおこした。ただの善意でここまでしてくれるとは思えなかった。楽俊はまだいい。見かけだけでも人ではないから。母親のほうを信頼する勇気が陽子にはない。   「どうしてわたしを助けてくれるの」   たまりかねてそう聞いたのは、楽俊の家を出てようやく建物が見えなくなったころだった。楽俊は小さな前肢で|髭《ひげ》の先をいじる。   「だっておまえ、陽子ひとりじゃとうてい|関弓《かんきゅう》まで行けねえだろう」   「道を教えれば、それでじゅうぶんだとは思わない?」   「なぁに。関弓見物も悪くねえ。あそこはなかなか面白いところだと聞くからな。なんでも、あちら風なんだと。王があちらの人じゃしかたねえけど」   「|倭《わ》風? 漢風?」   「倭風。|延《えん》王は倭から戻ってきたんだ」   「それだけ?」   楽俊は陽子を振り仰いだ。   「陽子はそんなにおいらが信用できねえのか」   「……親切過ぎると思わない?」   背中に大きな布包みを背負ったネズミは、カリコリと胸の毛並みを|掻《か》いた。   「ご覧のとおり、おいらはハンジュウだ」   「……ハンジュウ?」   「半分、獣。ここ|巧《こう》国の王は半獣がお好きでない。|海客《かいきゃく》もきらいだ。あの方は変わったことがおきらいなんだ」   陽子はただうなずく。   「だいたい、巧国に海客は多くねえ。海客はだいたい東の国に流れつくし、それで言えば多いんだろうが、実際の数はたかが知れてらあ」   「どのくらい?」   「さてなぁ。三年にひとりいるかいないか、ってとこだな」   「そう……」   それは思ったよりも数が多い。   「海客が流れつくのはなんといっても|慶《けい》国が多い。東の端になるからな。次が|雁《えん》国、巧国はその次だ。巧国じゃ、半獣も多くねえ。これはどうした加減かは知らねえ」   「ほかの国は多い?」   「多いな。少なくとも巧国ほど少なくねえ。このあたりじゃ半獣はおいらだけだ。主上は悪い王じゃねえんだろうが、すこしばかり好ききらいが激しい。海客のあつかいも厳しいし、半獣のあつかいも冷たい」   言ってから楽俊は髭を|弾《はじ》いた。   「おいらは自慢じゃねえが、この辺で一番頭がいいんだ」   陽子は意図をはかりかねて、楽俊を見つめる。   「利発だし目端が|利《き》くし、気だてもいい」   陽子はすこしだけ笑う。   「……なるほど」   「それでもおいらは一人前じゃねえ。いつまでたっても半人前だ。半分しか人間じゃねえからな。この姿で生まれたときにそう決まっちまった。だけどこんなの、おいらのせいじゃねえ」   陽子は小さくうなずく。言わんとしていることは|漠然《ばくぜん》とわかったが、それでも警戒心がとけない。   「海客だってそうだろう。だから、海客が海客だってだけで殺されるのは我慢できねえんだ」   「そう」   楽俊は今度は大きな耳の下の毛並みを掻いた。   「ジョウショウってわかるか? 上庠──都の学校だ。上庠の成績は一番だった。|選士《せんし》ってのに選ばれて|少学《しょうがく》へも|推薦《すいせん》された。少学ってのは|淳《じゅん》州の学校だ。これに行けたら、ちょっとした地方官になれる」   「郡は県の上?」   「郷の上だな。州には郡が幾つかある。幾つかは州によってちがうけどな。郡は五万戸、四郷、郷は一万二千五百戸、五県」   「……ふうん」   五万戸、という数字はピンとこなかった。   「ほんとうは上庠だって行けねえんだ。それを母ちゃんが一生懸命頼んで入れてくれた。成績がよければもっと上の学校へいけて、そしたら役人になれる。おいらは半人前だから|田圃《たんぼ》をもらえねえけど、田圃がなくてもちゃんと生活できるようになる。けどな、少学には半獣は入れねえんだとさ」   「……そう」   「母ちゃんはおいらを上庠に入れるために自分の田圃も家も売っ払っちまった」   「じゃ、今は?」   「今は小作だ。近所の金持ちの|自地《じち》を|雇《やと》われて耕してる。   「自地」   「お上がくれるのが|公地《こうち》。許可をもらって|開墾《かいこん》したのが自地だ。もっとも、働いてるのは母ちゃんだけで、おいらは働いてない。働きたくても働けねえんだ。半獣は雇ってもらえねえ。税金が余計にかかるからな」   陽子は首をかしげた。   「なぜ?」   「半獣には熊や牛みたいな連中もいる。そういう連中は人並み以上に力があるから、だと。要は主上が半獣をきらいだってことなんだけどな」   「ひどい話だな……」   「海客ほどじゃねえけどな。なにも、つかまえろだの殺せだの言うわけじゃねえんだから。だけどおいらは人の頭数に入らねえ。それで田圃ももらえなけりゃ、職を見つけることもできねえ。母ちゃんはひとりでおいらとふたりの生活を支えてる。だからウチはビンボウなんだ」   「……そう」   「おいら、職がほしいよ」   言って楽俊は首に下げた財布を示した。   「これは母ちゃんがおいらを雁国の少学へ入れようってんで|貯《た》めてくれた金だ。雁国じゃ、半獣だって一番上の大学まで行けて、国のえらい役人にだってなれる。ちゃんと一人前に認めてもらえて、田圃だってもらえるし、戸籍に|正丁《せいてい》って|載《の》る。陽子を連れていって頼んだら、雁国で職がもらえるんじゃねえかと、実は思った」   ではやはり、まったくの善意ではないのだ、と陽子は皮肉な気分で思った。悪意ではないのかもしれないが、善意だと思うことはできない。   「……なるほど」   その声が明らかに|棘《とげ》を含んでいたのだろう、楽俊は立ち止まった。すこしのあいだ陽子を見たが、それだけでなにも言わなかった。   陽子もまたそれ以上はなにも言わなかった。人は誰もが自分のために生きている。事前でさえ、突き詰めれば自分のためでしかない。だから楽俊の言葉はうらめしく思うようなことではないのだ。   ああ、と陽子は思う。人は結局自分のために生きるものだから、裏切りがあるのだ。誰であろうと他人のために生きることなどできるはずがないのだから。   8   その日、夕方になってたどりついたのは|郭洛《かくらく》という街だった。|河西《かさい》ほどもある大きな街だ。   前にもこちらの人間に連れられて旅をしたが、今度の旅はあのときにくらべると格段に貧しい旅になった。食事は屋台ですませ、宿は最低のところを取った。一泊が五十銭で大部屋を|衝立《ついたて》で仕切ってつかう。それでも路銀は楽俊のおごりだから、陽子に不満の言いようがあろうはずがない。   楽俊は陽子を弟だと言いとおした。人間の女が母親で問題ないものなら、陽子が弟でもかまわないのかもしれない。実際、それを疑われたことはなかった。   当初は|造作《ぞうさ》のない旅だった。楽俊は道中、いろんなことを話してくれた。   「四|大《だい》、四|州《しゅう》、四|極《きょく》で十二国」   「四大?」   陽子はほとほとと歩いてくる楽俊を降り返る。   「そうだ。|慶東《けいとう》国、|奏南《そうなん》国、|柳北《りゅうほく》国で四大国。別に大きいわけじゃねえが、こう呼ぶな。四州国が、|雁《えん》州国、|恭《きょう》州国、|才《さい》州国、それからここ|巧《こう》州国。四極国が、|戴《たい》、|舜《しゅん》、|芳《ほう》、|漣《れん》」   「戴極国、舜極国、芳極国、漣極国?」   「そうだ。それぞれに王がいて国を統治する。巧国なら|塙《こう》王だな。王宮は|喜《き》州|傲霜《ごうそう》にあって、|翠篁《すいこう》宮っていう」   「傲霜? 街?」   そうだ、といって楽俊は左手に見える山を示した。   こちらは土地に起伏が多い。左手の|彼方《かなた》には高い丘陵地帯が見え、さらにその向こうに高く険しい山地が薄く見えた。   「あの山のさらにずっと向こうだ。天まで届く山があって、それが傲霜山。山の頂上に翠篁宮があって、|麓《ふもと》の一帯が傲霜という街だな」   「へえ……」   「王はそこから国土を統治する。州侯を任じ、天下に法律を発布して、民に国土を分配する」   「州侯はなにをするわけ?」   「州侯は各州を実際に統治するのが仕事だな。州の土地、人民、軍を管理する。法律を整備し、戸籍を整えて税を徴収し、|災異《さいい》に備えて群を整える」   「実際にということは、王は実際に統治するわけじゃないんだ」   「王は統治の指標を示すのが仕事だな」   よくわからないが、アメリカのような制度になっているのかしら、と思う。   「王は法律を制定する。これを|地綱《ちこう》というんだ。州侯も法律を作れるけど、地綱に逆らうことはできねえ。その地綱も|施予綱《せよこう》を犯して定めることはできない」   「セヨ──なに?」   「天が王に対して与えた、このようにして国を治めよというきまりだな。この世界を天幕にたとえるなら、世界を支える太い綱だ。だから|天綱《てんこう》とも|太綱《たいこう》ともいう。王といえども、これこれだけは守らなきゃいけねえ。太綱にふれないかぎり、王は自分の国を好きに動かしていい」   「……へぇ。その太綱は誰が決めたの。まさか本当に神さまでもないでしょう」   さあ、と楽俊は笑う。   「大昔、天帝は九州四夷、併せて十三週を滅ぼし、五人の神と十二人の人とを残してすべてを卵に返したそうだ。その中央に五山を作り、西王母を|主《あるじ》に据え、五山を取り巻く一州を黄海と変じ、五人の神を竜王として五海の王に封じたとか」   「神話だね」   「そういうことだな。そうして、十二人の人にそれぞれ木の枝を手渡した。枝には三つの実がなり、一匹の蛇が巻きついていた。この蛇がほどけて空を持ち上げた。それぞれが落ちて土地と国と玉座を作った。枝は変じて筆になったそうだ」   陽子の知るいろんなタイプの神話とはずいぶん違う。   「この蛇が太綱を、土地は戸籍を、国は律を、玉座は仁道──すなわち|宰輔《さいほ》を、筆は歴史を意味するんだとさ」   入ってから楽俊は|髭《ひげ》をはじく。   「そのころ、おいらはまだ生まれてなかったから、真偽のほどは知らねえけどな」   「……なるほど」   中国の神話も子供向けの本でずっと昔に読んだはずだが、内容はほとんど記憶にない。それでも、これとはずいぶん違った内容だったことは確かだ。   「じゃあ、天帝が一番えらい神様?」   「さて、そういうことになるかなぁ」   「願いごとは誰にするわけ? 天帝でしょう?」   願いごと、と楽俊は首をかたむける。   「──そうだな、子宝を願うなら、天帝に願うけど」   「ほかは? たとえば、豊作とか」   「さぁて、豊作を願うなら|堯《ぎょう》帝かなぁ。そう言って堯帝をまつる連中もいるなぁ。そういうふうに言うなら水害をのがれるのは|禹《う》帝だとか、妖魔をのがれるのは|黄《こう》帝とか」   「いろいろいる?」   「うん。いろいろまつる連中もいるな、確かに」   「普通はしないの?」   「しねえなぁ。作物なんてのは、天気がよくてちゃんと世話してりゃ豊作になる。天気がいいか悪いかは、天の気の具合のもんだ。泣いても笑っても降るときには降るし、ひでるときはひでる。願ったところでしかたねえもん」   陽子は少しきょとんとする。   「でも、|洪水《こうずい》になったらみんな困るでしょ?」   「洪水にならないように、王が|治水《ちすい》するんだろ?」   「冷害とか」   「そういうときに|飢饉《ききん》にならないよう、王が穀物を管理するんじゃねえか」   ──よくわからない。   わからないが、なにかひどく陽子の知る人間とは違うのはわかった。   「じゃあ、試験に合格するように願ったり、お金が溜まるように願ったりもしないんだ」   陽子が言うと、今度は楽俊がきょとんとした。   「そんなのは本人がどれだけ努力したかの問題だろう? お願いしてどうすんだ?」   「それは……そうだね」   「試験なんてのは勉強すれば受かるし、金なんてのは|稼《かせ》げばたまる。いったいなにをお願いするんだ?」   さあ、と苦笑してから、陽子はふいに笑みを|凍《こお》らせた。   ──そういうことか。   ここには神だのみも運もない。だから、海客を売って小金を稼ぐチャンスがあれば、無駄にしない、というわけだ。   「……なるほど」   つぶやいた言葉には、我ながら冷たいものがひそんでいた。それに気がついたのか、楽俊が陽子を見上げて、それからしょげたように髭を落とした。   自分で自慢するだけあって、楽俊は博識で頭の回転も早い。たしかにこれほど利発で、それでも半獣だというだけで一生を母親の荷物にならなければならないのだとしたら、それはつらいことかもしれなかった。   楽俊は陽子のことや日本の事情についても聞きたがったが、陽子はあえてなにも話さなかった。   そして──襲撃を受けたのは、六日目のことだった。   9   それは夕刻近く、その夜の宿泊地である|午寮《ごりょう》の街が見えたところだった。   街道を急ぐ旅人は門の前で雑踏を作る。陽子もまたその中に混じって、足を速めていた。門までの距離は五百メートルばかり。せかすように門のなかから|太鼓《たいこ》の音が聞こえはじめた。それが鳴り終ったら閉門の時間である。   誰もがさらに足を速める。門へ駆け込もうとする人々がひとごみを作る。そのなかの誰かが、あ、と声をあげたのが始まりだった。   声につられたようにひとりふたりと背後の空を見あげた。雑踏のあちこちで動きがとまる。それを|怪訝《けげん》に思った陽子がふり返ったときにはすでに、飛来してくる巨鳥のシルエットが鮮明だった。   巨鳥。|鷲《わし》のような。|角《つの》がある。八羽。   「|蠱雕《こちょう》!」   悲鳴を皮切りに人波が午寮の街に向かって殺到しはじめる。陽子もまた楽俊といっしょに走りはじめたが、蠱雕のほうが速いのは明らかだった。   殺到する人々を見捨て、大きな門扉が閉じ始める。   ──バカな。   中にいる自分たちだけでも蠱雕から身を守ろうという|肚《はら》だろうが、空を飛ぶ魔物に門を閉ざしてなんの意味がある。   「──待ってくれ!」   「待って!!」   悲鳴がうずまく。陽子はとっさに楽俊を押して人波から飛び出した。   門に遠かったことが幸いした。門前では、自分だけでもと駆け出した人々が前の者をかきわけ、押し倒し、踏みにじって、|阿鼻叫喚《あびきょうかん》のありさま。   人波から少し離れ、街へ向かって駆けながら、陽子は薄く笑う。   ──ここは神だのみをしない国だ。   妖魔に襲われても、神にすがったりはしないのだ。だから、前の人間を引き倒しても先を急ぐ。旅人を見捨てても門を閉める。   妖魔に襲われるか否かは、本人の用心深さがものをいうのか? 襲われて助かるか否かは、本人の力量がものをいうのか?   「……バカが」   ──だとしたら、この連中は無力すぎる。   赤ん坊が泣き叫ぶような声が間近でして、陽子はその場に踏みとどまった。間近を駆ける楽俊が陽子を振り返って声を上げた。   「陽子! むりだ!!」   「楽俊は街へ」   飛来してくる蠱雕との距離は、すでにその胸毛にある斑紋が見てとれるほどの距離しかなかった。その姿をにらんだまま楽俊に門を示し、剣に巻いた布を腕をふってほどく。   なれた感触が肌をつたう。すでにジョウユウの感触は陽子と|馴染《なじ》んで違和感がない。   余裕の笑みが浮かんだ。   ──むりじゃない。   蠱雕など楽なものだ。数はわずかに八羽、陽子の剣はどんな厚い肉でも貫きとおす。となれば、敵の身体が大きいのは狙いやすくてありがたいばかりだ。しかも、鳥は滑空するので間合いが取りやすい。   久々に敵にであって、笑っている自分が興味深かった。   すでに傷は|癒《い》え、体力も充分、敵には負けない絶対の自信がある。ただ逃げるしかない人々の声を──|海客《かいきゃく》である陽子を狩っているはずの人々の悲鳴を背中で聞くのは奇妙に|誇《ほこ》らしく、|愉《たの》しい。   生臭い風をまいて急降下してくる蠱雕の群れに剣をかまえた。身内で|血潮《ちしお》が|沸騰《ふっとう》して、荒れ狂う海の音がする。   ──獣だ。   ──わたしは、まちがいなく妖魔だ。   だから、敵にであって、これほどうれしい。   |殺戮《さつりく》が始まった。それは蠱雕にとっても殺戮だったが、人にとっても殺戮だった。   下降してきた一羽を落とし、二羽を落とし、半数をしとめたときには街道は血の河になっていた。   墜落するように下降してきた五羽目の首を|刎《は》ねて六羽目を避けると、陽子に爪をかけそびれた鳥は遠く背後にいた旅人を血祭りにあげて上昇していく。   陽子は着実に仕事をこなしていった。   血の臭いも骨肉を絶つ感触も、とっくの昔になじんでいたし、人の死体を見て心を動かされるほどの繊細さなど残っていない。   確実に敵を避けて敵を倒すこと、返り血をできるだけ避けること、陽子が気をつかうのはそれだけだった。   七羽を落として陽子は空を見あげる。八羽目が降りてこない。上空を旋回し、なにかを迷っているふうだった。   急速に暮れはじめた空は、さびた鉄の色。そこに黒く妖鳥の影がよぎる。   たとえジョウユウの力を借りても、空までは追っていけない。   「──降りてこい」   陽子はつぶやく。   ここへ、陽子の爪のとどく範囲へ降りてこい。   旋回する影をにらみながら、視野のはしで周囲を探る。   日の光のあるうちに敵があらわれたからには、あの女もかならずいるはず。──あの、金の髪の女。その金の色がどこかに見えないか。   近くにいれば捕まえる。今の陽子にはそれができる。捕まえたら目的をかならず聞く。言わないのなら片腕を落としてでも言わせてみせる。   そう思考する自分に|驚愕《きょうがく》する。   まるで獣の本性があらわれたかのような、この|獰猛《どうもう》さはどうだろう。それとも、血に酔ったのか……。   頭上の影がふいに動きの角度を変えた。降りてくる、と見てとって|柄《つか》をにぎる手に力をこめる。振りあげるまもなく、鳥はもう一度角度を変えて、ふたたび宙を旋回する態勢に戻った。   「降りてこい!」   ──妖魔のくせに命が惜しいか。   今日まで人を襲っておいて!   陽子は剣を振りあげる。足元に落ちた蠱雕の死体に突き刺した。   「来ないなら、仲間の死体を切り刻むが、いいか!!」   まるでその声が理解されたようだった。   旋回していた蠱雕がいきなり落下してくる。矢のように降ってくる鋭い鉤爪を死体から引き抜いた剣で|一閃《いっせん》、剣花を散らして払い落とし、そのまま足を突き通す。   鳥が奇声をあげてはばたいた。風圧にあおられ、一緒に浮き上がりそうになる足を踏みしめて、抜いた剣を胴に向かって突き上げる。刺さった手応えを感じるやいなや、横飛びにのいて剣を引くと、一瞬前までいた場所に鮮血がしぶいた。   あとは造作もなかった。翼に力を失って墜落した鳥に、二撃三撃をくりだし、首を切り落としてとどめをさす。大きく剣をふって|血糊《ちのり》を払ったとき、陽子の周囲に動くものはなかった。   道に倒れたのは蠱雕ばかりではなかった。|累々《るいるい》と道に人が横たわっている。|呻《うめ》き声が聞こえるのでぜんぶが死んだわけではなさそうだった。   無感動でそれを見ながら手近に転がった蠱雕の首で剣をぬぐい、それでようやく陽子は思い出した。   ──自分には連れがいなかったか。   「……楽俊!?」   午寮の街までを見わたすと、城門が開くのが見えた。細く開いた城門のあいだから|衛士《えじ》が飛び出してくるのが小さく見える。   自分の足元から城門までのあいだを再度見わたし、陽子は離れたところに倒れた獣を見つけた。灰茶の毛並みは血を吸って赤黒く変色している。   「楽俊……」   駆けよりそうになってあらためて城門を見た。外に飛び出した衛士や人々が口々になにかを叫んでいるが意味は聞き取れない。   楽俊と門とを見比べる。   楽俊の|怪我《けが》がどの程度か見てとれる距離ではないが、毛並みを汚した血糊は近くに転がった蠱雕のものばかりではないだろう。   陽子は首から下げた|珠《たま》をにぎりこんだ。これが誰にでも効能があるのか、それとも剣のように陽子にしか反応しないのか、それはわからない。しかしもしも、相手を選ばないものならこれは楽俊を助けるだろう。   そう思いながら、珠をにぎったまま動けなかった。   駆け寄って怪我の具合をたしかめ、ひどいようなら珠の力が及ぶか、試してみる。──そうすることが楽俊にとってはいちばんいいのにちがいない。   だが、珠を当てているうちに衛士たちがやってくる。それだけの距離しかない。   倒れた人々のあいだで、たったひとり立っている陽子はめだっているはずだ。遠くから見守っていれば、蠱雕が陽子を狙っていたことも、それを倒したのが陽子であることもわかるはずだ。不審に思われないはずがない。   |鞘《さや》のない剣がある。少し調べれば髪を染めていることは簡単にわかる。海客であることはすぐにばれるだろう。   しかし、ここで逃げたら。   倒れたまま動かない毛並みを見た。   楽俊は自分を見捨てて逃げた陽子のことを訴えはしないだろうか。   剣を包んだ細い荷物、染めた髪の色、男物の服、|雁《えん》国へ行こうと|阿岸《あがん》をめざしていること。そんなものがばれれば、陽子をとらえようとした網は一気に引き絞られてしまう。だからといって倒れた楽俊を抱えて逃げる腕力などありはしない。   楽俊の安全を考えるなら戻るべきだ。   そして、陽子の安全を考えるなら。   鼓動が大きく打った。   ──駆けもどって楽俊に|止《とど》めを刺す──   そんな、と身内で声がした。それを誰かが|叱咤《しった》する。   迷っている時間はない。楽俊が余計なことをしゃべれば、陽子に生き延びる道はない。   戻ることはできない。それはみすみす命を捨てることだ。楽俊をこのまま捨て置くこともできない。それもまた、同じくらい危険だ。だったら。   戻って最善の行為を行い、可能なら楽俊の財布を持ってくる。そうすれば陽子は完全にこの窮地から逃れることができる。その時間はある。それだけの時間ならば。   大きく開いた城門からどっと人が流れ出してきた。駆けよってくる人波を見て反射的に陽子はその場をさがっていた。   いったん動き出すと、止まらなかった。   陽子は身をひるがえす。背後には街道から駆けつけた旅人が迫っていた。その人混みに|紛《まぎ》れ、陽子はその場を駆け出した。   10   ──きっとだいじょうぶだ。……きっと。   言い聞かせ、言い聞かせして日の暮れた街道を小走りに歩いた。   完全に暗くなって人通りが絶えてからは、なりふりかまわずに走った。|午寮《ごりょう》から離れ、分岐路で曲がり、今朝旅立った街も午寮の街も引き離していく。   じゅうぶんに離れても陽子の足は止まらない。急いでいないと、なにかが背後から追いかけてくる気がした。   だいじょうぶだ、と自分に言い聞かせる。   たとえ楽俊が陽子のことを訴え出ても、写真すらないこの国で、自分を捕まえられるとは思えない。ましてや、楽俊は自分を|匿《かくま》ったのだから、罰をおそれて彼を見捨てて逃げた|海客《かいきゃく》のことをしゃべったりはしないはずだ。   自分に強く言い聞かせて、陽子は足を止めた。   胸のなかに深い穴があいた気がした。   今考えるべきことは、そんなことではないのではないか。   楽俊はぶじなのだろうか。陽子の目には深い傷には見えなかったが、本当に深手ではなかったのだろうか。戻るべきだ、と身内で声がする。   戻って、せめて楽俊の安否をたしかめてから逃げるべきだ。   危険だ、と誰かが言う。たとえ戻っても、陽子になにができるわけでもない。   |珠《たま》がある、と誰かが叫ぶ。   珠があっても、それが楽俊の怪我に役立つとはかぎらない。ましてや、楽俊はすでに死んでいるかもしれない。戻れば捕まる。捕まるだけ無駄だ。捕まれば命がない。   ──そこまで命が|惜《お》しいのか。   ──惜しくないはずがない。   ──命の恩人を見捨てて。   ──ほんとうに恩人だったとは限らない。   ──助けてくれた事実は変わらない。楽俊は匿ってくれた。   ──下心があってのことだ。善意ではない。そんな人間はいつでも裏切る。   ──善意でない人間なら見捨ててもいいのか。ほんとうにそんなことをしてもいいのか。   あそこにあれだけの怪我人がいて、ましてやそのなかに知り合いがいて、それを見捨ててしまっていいのか。せめて救助に手を貸すのがほんとうなのではないのか。そうすれば死なずにすんだ命が、あそこにはあったのではないのか。   ──そんなきれいごとをこの国で言ってもはじまらない。貧乏|籤《くじ》を引くのが落ちだ。   ──きれいごとではない。   人として当然のことだろう。そんなことさえ忘れたのか。   ──いまさらおまえが人の道を言うのか。   いまさら、おまえが。   いまさら!   「戻って|止《とど》めを刺す」   |耳障《みみざわ》りな声が聞こえて陽子は飛びあがった。道のすぐ脇の草むらに|蒼猿《あおざる》の首が見えた。   「──そう思ったんじゃなかったのかい」   「……あ……」   陽子は蒼猿を|凝視《ぎょうし》する。全身が震えた。   「止めを刺すつもりだったんだろう、えェ? そのおまえが、いまさら人の道を言うのかい。おまえが! いまさらよォ」   猿は狂ったように|哄笑《こうしょう》した。   「……ちがう」   「ちがわねえなァ。おまえはたしかにそう思ったのサァ」   「そんなこと、するつもりはなかった」   「つもりだったさ」   「実際、しなかった。わたしには、できない!」   きゃらきゃらと猿は|嗤《わら》う。   「そりゃあ、人殺しが怖かったからだろうが。殺したかったが、殺す勇気がなかっただけじゃねえのかヨォ」   高笑いして猿は陽子を楽しげに見た。   「頼もしくなったじゃねえか。だいじょうぶだ。次は殺せる」   「ちがう!」   叫びを無視して青い猿は笑う。かんだかい音が|容赦《ようしゃ》なく耳に刺さった。   「──わたし、戻る」   「どうせ戻ってもとっくに死んでるサァ」   「そんなの、わからない」   「死んでるさ。戻って捕まって殺されるだけ無駄だヨォ」   「それでも、戻る」   「ヘエェ、戻ったらおまえの罪が消えるのかい」   返しかけたきびすが止まった。   「戻るがいいサァ。戻って死体を見て泣いてくりゃぁいい。そうしたらおまえが殺そうと思ったことも帳消しになるだろうヨォ」   きゃらきゃらと笑う顔を|呆然《ぼうぜん》と見すえる。   これは自分だ。浅ましい自分の声だ。これはまったく、自分の|本音《ほんね》にほかならない。   「──きっと裏切られたに決まっている。その前でよかったじゃないか」   「……うるさい」   「今ごろ|衛士《えじ》がこっちに向かってるかもしれねえぜ? あのネズミに訴えられてヨォ」   「黙れ!」   |柄《つか》をにぎって剣をふるった。草むらを気って葉先だけが散る。   「死んでりゃいいなァ。|止《とど》めを刺しておけば|完璧《かんぺき》だったのによォ。まだまだ甘いよ、おまえはサァ」   「やかましい!」   「今度はやるんだ。つぎにあんなことがあったらよ、まちがいなく止めを刺すんだぜ」   「ふざけるなぁっ!」   音をたてて葉先が散った。   ──止めをさしてどうする。見捨てただけでもこんなに心に重いのに、殺してそれでどうやって生きていくのだ。命がありさえすればいいのか。どんなに|醜《みにくい》い生き物に成り下がっても、ただ生きていられればいいのか。   「……殺さなくてよかった……」   早まらずに、魔がささずに、それを実行に移さないでよかった。   猿は高らかに|嘲笑《ちょうしょう》する。   「生かしておいて、訴えられていいのかい。えェ?」   「楽俊は、訴えていいんだ!」   ようやく胸につまったものが涙になって浮かんだ。   「楽俊にはその権利がある。もちろん、わたしを訴え出ていいんだ!」   「甘い、甘い」   なぜ人を信じることができなかったのだろう。   |鵜《う》のみにしろといっているわけではない。それでもあのネズミを信じることが、陽子にはできていいはずだった。   「そんな甘いことを言ってるからサァ、裏切られていいカモにされるのサァ」   「裏切られてもいいんだ」   「甘いなァ」   きゃらきゃらと夜を|裂《さ》いて猿は笑う。   「ほんとうかい? ほんとうにそれでいいのかい。カモにされるほどバカでいいのかヨォ」   「裏切られてもいいんだ。裏切った相手が|卑怯《ひきょう》になるだけで、わたしのなにが傷つくわけでもない。裏切って卑怯者になるよりずっといい」   「卑怯になったが勝ちサァ。ここは鬼の国だからなァ。おまえに誰も親切にしたりしないんだぜ。親切な人間なんか、いないんだからヨォ」   「そんなの、わたしに関係ない!」   追いつめられて誰も親切にしてくれないから、だから人を拒絶していいのか。善意を示してくれた相手を見捨てることの理由になるのか。絶対の善意でなければ、信じることができないのか。人からこれ以上ないほど優しくされるのでなければ、人に優しくすることができないのか。   「……そうじゃないだろう」   陽子自身が人を信じることと、人が陽子を裏切ることはなんの関係もないはずだ。陽子自身がやさしいことと他者が陽子に優しいことは、なんの関係もないはずなのに。   ひとりでひとりで、この世界にたったひとりで、助けてくれる人も|慰《なぐさ》めてくれる人も、誰ひとりとしていなくても。それでも陽子が他者を信じず卑怯にふる舞い、見捨てて逃げ、ましてや他者を害することの理由になどなるはずがないのに。   猿がヒステリックに笑った。ただ突き刺さる声で笑いつづける。   「……強くなりたい……」   世界も他人も関係がない。胸を張って生きることができるように、強くなりたい。   「おまえは死ぬんだ。家にも帰れず、誰にもふり向かれず、だまされて裏切られ、おまえは死ぬんだ」   「死なない」   ここで死んだらおろかで卑怯なままだ。死ぬことを受け入れることは、そんな自分を許容することだ。生きる価値もない命だと|烙印《らくいん》を|押《お》すことはたやすいが、そんな逃避は許さない。   「死ぬんだ。|飢《う》えて疲れて首を|刎《は》ねられて死ぬんだ」   |渾身《こんしん》の力をこめて剣を払った。草むらを斬り裂いた切っ先は空気までを斬って、強い手ごたえを返した。散った葉先のあいだに猿の首が跳ぶ。地に落ち、|血糊《ちのり》を|撒《ま》いて転々ところがった。   「ぜったいに、負けない……」   涙が止まらなかった。   堅い袖で顔をぬぐって、歩き出した陽子の足元には金の光が落ちていた。陽子はしばらくその意味を取りかねて、呆然とそれを見つめる。   土の色を変えた血溜まりの中、蒼猿の首があるはずの場所にそれはあった。   もうずいぶんと昔になくしたはずの。   ──|鞘《さや》、だった。   六章   1   「あの、これくらいの」   陽子は旅人をつかまえて、子供ほどの背丈を示す。   「ネズミの姿をした人を知りませんか」   老婆は陽子をうさんくさそうに見た。   「なんだえ? 半獣かい」   「はい。昨日、この門前でけがをしたと聞いたんですが」   「ああ──。|蠱雕《こちょう》の」   言って老婆は背後を振り返る。遠く《午寮》の街が見えた。   「さてね。昨日|怪我《けが》をした連中なら、役所にいるはずだがね。役所で手当てをうけてるよ」   朝から何度も聞いた返答だった。   夜明けを待って午寮の街に戻ったが、恐ろしいほど城門の警戒は厳重で街の中に入ることはとうていできない。役所に行ってみればいい、とそう思っても、かんじんの役所に近づくことができないのだ。   「役所に行ってみたのかえ」   「はい……。いないようだったので」   「だったら、裏だろうよ」   老婆は言って、歩み去る。午寮の街の裏手には死体が並べてある。それを遠目には見たがそこもやはり警戒が厳重で、そこに楽俊がいるかどうか確認できるほどの距離には近づくことができなかった。   大きな荷物を背負って去っていく老婆を見送り、陽子は午寮からやってくる次の旅人をつかまえる。   「あの──」   声をかけた旅人は男と女のふたりぐみで、男は足に布を巻いて|杖《つえ》をついていた。   「すみませんが」   老婆に聞いたのと同じことをくりかえす陽子を、ふたりはうさんくさげに見る。   「昨日、怪我をしたと聞いて──」   「おまえ」   男が唐突に陽子をゆびさした。   「おまえ、まさか昨日の──」   全部を聞かず、陽子は身をひるがえす。   「おい。ちょっと、待て!」   声をあげる男にはかまわず、足早に旅人の間をぬってその場を立ち去る。   男のあの怪我は、おそらく昨日のものだろう。そして、男は陽子を覚えていた──。   今朝からこうやって逃げるのは何度目か。そのたびに門前に|衛士《えじ》の姿が増えて、ますますま街に近づけなくなる。   午寮を離れ、山に入ってほとぼりがさめるのを待った。こんなことをしていては、いずれつかまる。わかっていても午寮の街を離れられない。   ──消息を聞いてどうする。   楽俊のぶじを確かめたからといって、陽子が昨日彼を見捨てて逃げたことのつぐないになるわけではない。それはすでに犯した罪で、もうとりかえしはつかない。   ましてや、ぶじだと聞いたからといって、|詫《わ》びるために街の中に入っていけるわけでもない。街へ入れば衛士につかまる。そうして、それは|畢竟《ひっきょう》陽子の死を意味するのだ。   ──どうしていいのか、わからない。   いたずらに汚い命を|惜《お》しんでいるような気がする。その半面、あっさり投げ出すのはなにかが違う気がしてならない。   決心がつかないから、午寮を離れてしまうことができない。   迷って迷って、何度目かに午寮の門前にもどった。幾人かの旅人をつかまえて同じ質問をくりかえし、同じような返答を得た。   いよいよとほうにくれたときだった。   「──あんた」   背後からかけられた声に、陽子はとっさ逃げようとする。身をひるがえしながら振り返って、自分のほうを複雑な顔で見ている母子を見つけた。   「──あんた、バクロウの近くで会った……」   陽子は足をとめ、しばらく|呆然《ぼうぜん》とする。いつか山道で会った親子だった。|水飴《みずあめ》の行商らしく、大きな荷物は今も親子の背中にある。   「よかったこと。ぶじだったんだね」   母親はそう言って|微笑《わら》った。ひどく複雑そうな表情だった。女の子は母親よりももっと複雑そうな表情で陽子を見上げている。   「怪我はもういいのかい?」   陽子は迷い、それからうなずいた。うなずいて深く頭を下げる。   「──あのときは、ありがとうございました」   助けてくれようとする手を振りほどいて山に入った。言葉だけの礼は言ったが、心底感謝をしなかった相手。   「ほんとうに、よかった。あれからどうしたろうと、気になっていたんだ」   母親は笑った。こんどは屈託のない笑顔だった。   「ギョクヨウ、ほらね、ぶじだったでしょう」   自分にすりよるようにする女の子を見おろす。女の子はまだ複雑そうな顔で陽子を上目づかいに見上げていた。陽子はちょっと|微笑《わら》ってみる。そうして、自分が長いこと笑わなかったのに思いいたった。顔の筋肉はこわばって、すこしも笑えた気がしなかった。   ギョクヨウはちょっとまばたきをして、それからすねたような表情で母親の背後に隠れようとする。陽子はかがみこんだ。   ──この親子があのとき水と水飴を与えてくれなかったら、その夜をのりきれたかどうかわからない。   こんどはもうすこし、ましに微笑えた。   「いつかは、お水と水飴をどうもありがとう」   女の子は陽子と母親を見比べるようにして、それからちょっと笑った。笑った自分がおかしかったのか、すぐに複雑な顔に戻ったものの、やがてくすくすと笑いだした。子供特有の笑顔が、ひどく|愛《いと》しくて泣きたかった。   「ほんとうに、ありがとう。ちゃんとお礼を言えなくてごめんね」   ギョクヨウは満面に笑みを浮かべてから、   「……痛かったの?」   そう聞いてきた。   「え?」   「お兄ちゃんは、けがが痛いからきげんが悪かったの?」   「──うん。そう。ごめん」   「もう、痛くない?」   「うん。治った」   ひきつれた|痕《あと》を残して治った傷を見せる。その傷の治りが早すぎることに、はたして親子が気づいたかどうか。   ギョクヨウは母親を見上げて、なおったって、と言う。母親は目を細めて娘を見おろした。   「よかったこと。バクロウに着いてから探しにもどろうとしたんだけどね、里についたらもう閉門の刻限でね。近頃の衛士は腰抜けだから、夜には出てくれやしない。──たずね人かい?」   陽子はうなずく。   「あたしたちも午寮へ行くところさ。一緒に行くかい?」   これには首を横にふるしかなかった。母親は、そう、とだけ言った。   「──さ、ギョクヨウ。宿舘に行こうね」   言って娘の手をとって、それから彼女は陽子を見る。   「なんて人だい? 半獣なんだね?」   陽子は彼女を見返した。   「役所か裏にいるんだろう? なんて人だい?」   「──楽俊、といいます」   「このあたりにいておくれね。ちょいと見てこよう」   ごく軽く言って、母親は荷物を背負いなおす。陽子は深く頭を下げた。   「……ありがとうございます」   女は夕刻近くに、ひとりでもどってきた。楽俊らしい者は、怪我人の中にも死人の中にもいなかった、とだけ言って午寮にかけもどっていった。彼女が陽子の身の上を理解していたのかどうか、それはわからない。   2   確認してもらってあきらめがついた。   陽子の知らない間に、|午寮《ごりょう》の街を出たのか。それとも、女が見落としたのか。   それを確かめる方法はない。   街道から午寮の街に向かって頭を下げた。これはなにかの|罰《ばつ》だろうと、そう納得するしかなかった。ここで全部をなげだしてしまうことだけは、どうしてもできなかった。   夜に歩いて昼には眠る。再びその生活が始まった。こうして旅をすることが多いから、陽子はこの国の夜ばかりを覚えている。   財布は楽俊が持っていたので陽子には所持金がない。妖魔と戦って過ごす夜も、|飢《う》えて草むらで眠る朝もあまりにおなじみのことだから、不満を感じたりはしない。目的のある旅だからいい。|阿岸《あがん》へ行って、|雁《えん》国へ渡る。船に乗るには料金が必要だろうから、それだけはなにか方法を考えなくてはならなかった。   |拓丘《たっきゅう》で|海客《かいきゃく》の老人に荷物を盗られてから、逆算してみると陽子はひと月以上、街道をさまよっていたらしい。飲まず喰わずで|珠《たま》の力を借りて、それが限界。それがわかっているから、これまでのどの旅よりもましだろう。   |蒼猿《あおざる》はもうあらわれない。|鞘《さや》がもどって、剣の幻もなりをひそめた。わずかに水音がして鞘と|柄《つか》のすきまから光がもれることがあったが、あえて鞘から抜いて幻を見ようとは思わなかった。そのかわりに黙々と歩く。ひたすら先を急いだ。   ──あさましいこったな。そんなに命が惜しいかよォ。   歩きながら、胸の内に蒼猿の声を聞く。   あれはそもそも陽子自身の不安だから、蒼猿の姿はなくても声は明瞭だった。   ──|惜《お》しいな。   『恩人を見捨てるような命でもか』   「少なくとも今は、自分の命を惜しむことにする。そう決めた」   『いっそ役所に自首し出て、すっぱり全部つぐなっちゃどうだい?』   「雁国についたら考える」   きゃらきゃらと、その笑い声までが聞こえる気がした。   『ようはてめえの命が惜しいだけかよォ』   「そう。狩られているから、今はなにより命が惜しい。狩られる心配がなくなって、自分の命がまるごと自分のものになってから、どういう生き方をするのか考える。反省もつぐないも、そこで考えようと思ってる」   ──ただ、生きのびることだけ。今は。   『妖魔を殺して、人を剣で|脅《おど》しながらか』   「今はしかたないと思うことにする。今は迷わずに、とにかく早く雁国につくことを考える。雁国につけば少なくとも、追っ手に向かって剣を向けずにすむから」   『雁国につけば、それで全部丸く収まるのかい?』   「そうはいかないだろうけど。ケイキも探さなくちゃならないし、帰る方法も探さなくちゃならない。考えることもたくさんある」   『ケイキが味方だとまだ信じてるのか? エェ?』   「会えばどちらか、分かる。会うまでは考えない」   『ケイキに会ったところで、帰れねえぜ』   「帰れないことがはっきりするまで、あきらめない」   『そんなに帰りたいか? 誰も待っちゃいねえのにヨォ』   「それでも、帰る……」   陽子は故国で人の顔色を|窺《うかが》って生きてた。誰からも嫌われずにすむよう、誰にも気にいられるよう。|叱《しか》られることが恐ろしかった。今から思えば、なにをそんなに|怯《おび》えていたのだろうと、そう思う。   ひょっとしたら|臆病《おくびょう》だったのではなく、たんに|怠惰《たいだ》だったのかもしれない。陽子にとっては、自分の意見を考えるより他人のいうままになっているほうが楽だった。他と対立してまでなにかを守るより、とりあえず周囲にあわせて波風を立てないほうが楽だった。他人の都合にうまくあわせて「いい子」を演じているほうが、自己を探して他とのしのぎを|削《けず》りながら生きていくよりも楽だったのだ。   |卑怯《ひきょう》で怠惰な生き方をした。だからもう一度帰れればいいと思う。帰ったら、陽子はもっと違った生き方ができる。努力するチャンスを与えられたい。   ──そんなことを静かに考えながら歩いた。   雨が増えた。そういう季節なのかもしれなかった。雨の日に野宿は苦しいから、|廬《ろ》に立ち寄って宿を|乞《こ》うことを覚えた。   納屋の隅を貸してくれる者もいたし、代金を請求する者もいた。衛士を呼ばれたことも、廬の連中が集まってきて叩き出されそうになったこともある。反対につましいながらも食事を与えてくれた人もいた。   そうするうちに、労働力を提供して宿を借りることを学んだ。   泊めてもらうかわりに、翌日その家で働く。仕事の内容は様々だった。|田圃《たんぼ》の手伝い、家の掃除、雑用、家畜の世話、家畜小屋の掃除、墓掘り、などという仕事もあった。   仕事によっては何日か|留《とど》まって小金を|稼《かせ》いだ。   仕事をしながら転々と廬を渡り歩き、トラブルになれば剣を柄って逃げる衛士を呼ばれればしばらくはどこの廬でも警戒が厳重だったので、ほとぼりが冷めるまでは野営で耐えた。   妖魔の襲撃はたびたびあったし、徐々にその数も増えつつあったが敵と戦うことは特に気にならなかった。   歩く街道の背後に、陽子を追ってくるとおぼしき衛士たちの姿が見えたのは、そんな旅をひと月も続けたころだった。   廬に立ち寄って人と接触すれば陽子が歩いた痕跡を残すことになる。足跡を残すようなものなので、自分が追われているならばきっと追いつかれるだろうという自覚はあったから特にうろたえはしない。   山に逃げ込み、追っ手をふり切ったが、そののちには街道でたびたび衛士を見かけるようになった。   阿岸を封鎖されるのだけは怖かったので、阿岸に近づいてからは宿をがまんした。街道からもはずれて人の目に触れないよう細心の注意を払って山の中をひたすら歩く。   楽俊は阿岸まではひと月かかるといっていたが、実際に港が見えたときにはふた月が経過していた。   3   「あの」   |阿岸《あがん》の門前で陽子は旅人をつかまえた。   阿岸の街はなだらかな丘陵地帯を下ったところにあった。丘を下る街道からは阿岸の港が一望できる。   |青海《せいかい》と呼ばれる海は本当に青かった。岸に向かって打ち寄せる波が白い。青い透明な海と、阿岸の海岸を抱き込むように延びた半島と、その内海に浮かんだ白い帆と。半島の向こうには真一文字に水平線が見える。地面が平らなら不思議な話だ。   阿岸の門前ではいくつもの街道が交錯している。街は大きく、出入りする人もまた多かった。雑踏にまぎれこみ、気のよさそうな人物に声をかける。   「すいませんが、|雁《えん》国に出る船の乗り方を教えてください」   初老の男は丁寧にその方法を教えてくれる。船の乗り方とその料金を聞いた。雁国までの船賃は道中に|貯《た》めた小金でかろうじてたりた。   「船はいつ出ているんですか?」   「五日に一便だね。いまだと三日待たなきゃならないよ」   出港の時間までを正確に聞く。ここで失敗し港を封鎖されたらぜんぶが無駄になる。必要なことをできるだけ聞いて、陽子は頭を下げた。   「そうですか。ありがとうございました」   いったん阿岸を去って、二日を山の中で過ごした。船は朝に出る。前日にもう一度阿岸の門前に立った。   城門の警戒は厳しい。街で一晩を過ごさなければならないから、どうあっても疑われるわけにはいかない。陽子は布で巻いた剣を見た。今はきちんと|鞘《さや》がある。それでも帯刀した旅人は多くなかったから、めだつことは避けられない。   これさえなければ、そのぶん危険が減る。ずいぶんと考えて|巧《こう》国に捨てていこうかとも思ったが、できたらそれはしたくなかった。陽子が妖魔に追われているのなら、これは絶対に必要なものだ。城門の衛士にしても、なにも剣の有無だけで警戒をしているわけではないだろうから、捨てることにそれほどの意味があるとは思えない。   山で草を刈って剣に巻きつけ。荷物と一緒に布で巻いて一見して剣とは分からない包みを作る。それを抱き、夕刻の街道にうずくまってチャンスを待った。   道に座りこんですぐ、男が声をかけてきた。   「坊主、どうした」   中年の男がひとりだった。   「なんでもない。ちょっと足が痛んだだけ」   男は|胡散《うさん》臭げな顔をして阿岸の門へ急いで行った。   それを見送り、なおもしゃがみこんで待つ。三度目に声をかけられて、目的の相手をとらえた。   「どうしたね?」   子供ふたり連れた夫婦者だった。   「なんだか……気分が悪くなって……」   陽子が顔を伏せて言うと、女が体に手をかける。   「だいじょうぶかい?」   陽子はただ首をふった。ここでこの夫婦の同情を引くことができなかったら、剣をここに捨てて行き、なおかつ危険を|冒《おか》さなくてはならない。緊張で自然に冷や汗が浮かぶ。   「だいじょうぶかい? 阿岸は目の前だ。あそこまで歩けるかい?」   聞かれて陽子は小さくうなずく。男のほうが陽子に肩をさしだした。   「そら、|掴《つか》まれ。もうちょっとだからな。頑張れよ」   はい、とうなずいて片手を男の肩にかける。立ち上がるときに故意に荷物を取り落とした。拾おうとする陽子の手を女が制す。陽子のかわりに拾ってくれてから、子供をふり返った。   「おまえたち、もっておあげ。軽いからね」   言われて荷物を渡された兄弟は大まじめにうなずいた。   「歩けるかね? 衛士に来てもらおうか」   言われて陽子は首をふる。   「すみません。だいじょうぶです。連れが先に中に入って宿を取っていますから」   「そうか」   男は笑った。   「連れがいるんだな。それはよかった」   陽子はうなずき、ごくかるく男の肩にすがって歩く。肩を貸した男には遠慮しているように見えるよう、周囲の人間にはかるく甘えているように見えるよう。   門が近づいた。城門の脇に立った数人の衛士が急ぎ足で流れ込む人々を検分している。前を通り過ぎた。視線は感じたが呼び止められなかった。門を過ぎ、少しのあいだ歩いてからようやく陽子は息を吐いた。そっとふり返ると、城門は衛士の顔が見分けられないほど離れている。   ──よかった。   胸の中で|安堵《あんど》の息をついてから、陽子は男にすがった手を離す。   「ありがとうございました。楽になりました」   「だいじょうぶかい? 宿まで行こうか?」   「いえ。もう、だいじょうぶです。ほんとうに、ありがとうございました」   深く頭を下げた。嘘をついてすみません、という言葉は胸のなかにしまっておく。   夫婦は顔を見合わせてから、気をつけて、と言ってくれた。   この街にも難民がひしめいていた。宿の従業員に怪しまれるのが怖くて、城壁の下の空いたところに|座《すわ》って夜を過ごした。   ようやく迎えた朝、陽子は街の通りを歩いて港へ向かう。街の奥が海にむかって開かれていてそこに粗末な桟橋があり、一隻の、陽子の目には小さな、港に停泊したほかの船に比べれば大きな帆船が|繋《つな》がれていた。   「あれだ……」   なんだか胸に迫る思いで桟橋に近づきかけ、陽子は足を止めた。船に乗りこむ旅人の列を検分している衛士の姿があった。   一瞬、目の前が暗くなる。衛士たちは乗客の荷物を開けて中をのぞきこんでいた。   できることなら剣は捨てたくない。ものかげまで近づいて、それ以上近づくことができない。陽子はじっと乗客と衛士の姿を見つめた。   ──剣を捨てるか。   身を守る手段を失うが、このまま巧国に残るよりいい。思って、ほど遠くないところの水面を見たが、どうしてもその決心がつかない。これはケイキにつながるものだ。これを失うことはケイキとのつながりを半分断つことを──ひいては故国とのつながりを断つことを意味するような気がする。   ──迷って迷って、それでも決心がつかない。   陽子は港を見わたした。剣を捨てずに|雁《えん》国へ渡る方法はないか。|幾艘《いくそう》かの小さな帆船が停泊している。それを奪っていけないか。   ──帆船の操り方なんて知らない。   青海は内海だと聞いた。だとしたら、どれだけの日数がかかるか想像もつかないが、海岸沿いに歩いて雁国へいけないか。   |目眩《めまい》がするほど迷っているときに、突然高い|太鼓《たいこ》の音が響いた。   はっと顔をあげて見わたすと、音の出所は船の甲板で、それが出港の合図だとわかった。乗船する旅人の列もすでに切れている。衛士が所在なげに立っていた。   ──まにあわない。   今から走っても衛士に捕まる。荷物をほどいて剣を取り出す時間はない。荷物ごと剣を捨てても、てぶらで船に乗り込んでは怪しまれはしないか。|狼狽《ろうばい》するからいっそう動けない。   棒をのんだように立ち尽くして、陽子は船が帆をあげるのを見ていた。   船にかかっていた渡り板が外された。ようやく陽子は物陰を飛び出した。船がかすかにすべり出して、衛士がその場で見送る。白い帆が目に焼きついた。   ──今なら海に飛び込んで。   らちもない考えが頭をかけめぐったが、身動きはできなかった。   ──あれに乗れば雁国なのに。   荷物を抱いてただ目を見開いて船が出ていくのを見送ることしかできない。にがしたものはあまりに大きく、その衝撃から立ち直ることができなかった。   「どうした、乗り遅れたのかい」   どら声がかかって、陽子ははっと我に返った。   |杭《くい》を打ち、土を突き固めた岸壁の下に小さな船が見えた。四人ほどの男が甲板で働いている。なかのひとりが陽子を見あげていた。   陽子は堅い表情でうなずく。次の船は五日あとまでない。この五日が運命を決するだろう。   「|跳《と》べるか、坊主。乗りな」   一瞬、意味を|把握《はあく》できずに陽子は船乗りを見た。   「急ぐんだろう。ちがうのかい」   陽子はうなずいた。船員は岸の杭にむすびつけたロープの端をにぎっている。   「そいつを外して飛び降りてきな。フゴウで追いつける。乗せてやるから働けよ」   船員が言うとほかの船員がかるく笑った。陽子は力をこめてうなずく。足元の杭に巻かれたロープを外し、それをにぎったまま甲板に飛び降りた。   船は阿岸の北にある|浮濠《ふごう》という島まで荷物を運ぶ貨物船だった。浮濠は巧国の北端、阿岸から一昼夜がかかるそこからは雁国まで寄港する場所はない。   陽子には修学旅行のフェリーをのぞいて船に乗った経験がなかった。まして、|帆船《はんせん》に乗ったのは生まれてはじめての経験である。   わけがわからないまま船員に言いつけられるたびに物を取ったりかたづけたり、コマネズミのように働かされた。沖合いに出て船の操舵が落ちつくと、鍋を|磨《みが》けだの食事を作れだの次から次へと雑用を言いつけられる。あげくのはてには年かさの船員の脚までさすらされたが、事情を問う声に陽子が生返事を返していると、無口な坊主だと笑って、それ以上は詮索しないでおいてくれたのがありがたかった。   船は一昼夜、休みなしに海上を走りつづけて翌朝浮濠の港に入った。   港では一足先についた雁国行きの船が静かに停泊していた。船員たちはギリギリまで陽子をこき使ったあげく、接岸せずに停泊している旅客船の横に船をつけてくれた。旅客船の船員に声をかけ、陽子を乗せるように口をきいてくれる。旅客船から下ろされた棒にすがって船をうつると、小さな包みを投げてよこした。   「|饅頭《まんじゅう》だ。中で喰いな」   陽子を船に乗せてくれた船員がそう言って手をふる。包みを抱いて陽子も手をふった。   「ありがとう」   「お疲れさん。気をつけてな」   |賑《にぎ》やかに笑って|防舷物《ぼうげんぶつ》──それを下ろしたのは陽子だった──を引きあげる男たちが、陽子が巧国で出会った最後の人たちになった。   4   |青海《せいかい》と呼ばれる内海は対岸が見えないほど広く、甲板に立てば潮の匂いがしてごく普通の海と変わりがなかった。|浮濠《ふごう》を出発した帆船は明るい青の海を渡り、まっすぐに対岸の|烏号《うごう》を目指す。浮濠から二泊三日の船旅だった。   最初に見えた|雁《えん》国の岸は、|巧《こう》国の岸となんら変わるところがないように見えた。   船が近づくにつれ、差異がわかる。整備された港と、その背後に控えた巨大な街。烏号の街はこれまで陽子が巧国で見たどんな街よりも大きかった。その景観はビルがないことをのぞけば陽子が故国で見た都市の景色といくらも違わない。甲板に集まった旅人たちの何割かが烏号を見るのがはじめてなのだろう、陽子と同じように目を見張っているのが印象深かった。   烏号の街は港を一辺にすえてコの字型に城壁をめぐらせてあった。街は正面の山に向かってゆるやかにかけあがり、建物に施された極彩色の装飾が遠目に混じり合って落ち着いた|薔薇《ばら》色を|醸《かも》し出している。街の外周や中程には石造りらしい抜きん出て高い建物が見える。そのひとつは明らかに時計台で、ながめわたす陽子の目を見開かせた。   港じたいも、|阿岸《あがん》とは比べ物にならないほど整備されていた。   停泊した船の数も阿岸とは比較にならない。港には活気があふれている。マストが林立し、白や薄い赤茶の帆がたたまれてアクセントをつけた風景は美しかった。つらい国を抜け出してたどりついた陽子にはこれ以上あかるい光景はないように見えた。   船を降りるとそこは|喧騒《けんそう》のただなかだった。忙しげに働く男たち、どんな仕事をしているのか走り回る子供たち、物売りの声や人々の声や、そんなもののすべてに浮き足立つようなリズムがある。   船から降りながら、陽子は雑踏を見わたす。人をあかるい気分にさせる街だと思う。流れる人の誰もが生気のある顔をして、多分それは陽子も同様なのだろう。   |埠頭《ふとう》に降り立った陽子に声がかけられたのはそのときだった。   「陽子?」   駆けられるはずのない声に驚いてふり返って、陽子はそこに灰茶の毛並みを見つけた。細い|髭《ひげ》が|午《ひる》の陽射しを受けて銀に光って見えた。   「……楽俊」   ネズミは人混みをかき分けて陽子のそばにやってきた。とまどうばかりの陽子の手を小さなピンク色の手がにぎる。   「よかった、ぶじについたんだな」   「……どうして」   「阿岸から船に乗りゃあ、必ず烏号につく。待ってたんだ」   「わたしを?」   楽俊はうなずいた。動けない陽子の手を引く。   「阿岸でしばらく待ってたんだが、あんまり姿が見えねえんで先に渡ったのかと思ってな。ところがどうやらついた|様子《ようす》がねえだろ。それで船がつくたんびにのぞいてりゃ見つかるんじゃねえかと思ったんだ。それにしても遅いんで、どうになかっちまったのかと思ったぞ」   ネズミはそう言って陽子を見あげて笑う。   「なぜ、わたしを」   楽俊は背中を丸めて頭を下げた。   「おいらがうかつだった。銭を陽子に渡すか、せめて半分もたせておきゃあ、よかったんだ。ここまで来るのはたいへんだったろう。すまなかったな」   「わたしは……楽俊を見捨てて逃げた人間なんだよ?」   「それもおいらの落ち度だ。まったくだらしがねえなぁ」   ネズミはそう言って苦笑する。   「もちろん逃げてよかったんだ。|衛士《えじ》が来て捕まったらどうする。逃げろって言って財布を渡してやれりゃあよかったんだが、すこんと意識を失っちまったもんで」   「……楽俊……」   「陽子はあれからどうなったんだろうと気になってた。ぶじでよかった」   「わたしは、やむにやまれず見捨てたわけじゃない」   「そうかい?」   「そうだ。誰かと旅をするのが怖かった。誰も信じるもんかと思ってた。こちらには敵しかいないんだと思ってた。だから」   楽俊は髭をそよがせる。   「おいらは今も敵なのかい」   陽子は首を横にふる。   「だったらいい。さあ、行こう」   「わたしは楽俊を裏切ったのに、うらめしいと思わないの」   「陽子をバカだとは思うが、べつにうらむ気にはなれねえなぁ」   「わたしは、|止《とど》めを刺しにもどろうかと思った」   手を引いて歩きかけた足が止まった。   「おいらはなぁ、陽子」   「……うん」   「実をいうと、おいて行かれたとわかったときにゃちょっとだけガックリきたさ。ちょっとだけな。陽子がおいらを信じてねえのはわかってた。おいらがなにかするんじゃねえかって、始終びくびくしてたのもな。でもそのうちわかってもらえるだろうと思ってたんだ。だからおいて行かれたとき、わかってもらえなかったんだなぁと思って、ちょいとだけ気落ちした。けど、わかってもらえたならいいんだ」   「良くないだろう。もうわたしなんかに、かまわなければいいのに」   「そんなのおいらの勝手だ。おいらは陽子に信じてもらいたかった。だから信じてもらえりゃ|嬉《うれ》しいし、信じてもらえなかったら寂しい。それはおいらの問題。おいらを信じるのも信じないのも陽子の勝手だ。おいらを信じて陽子は得をするかもしれねえし、損をするかもしれねえ。けどそれは陽子の問題だな」   陽子はうつむく。   「楽俊は……すごい……」   「おいおい。どうした、急に」   「わたしはすぐにすねたのに。味方なんかいないんだ、って」   「陽子」   小さな手が陽子の腕を引っぱった。   「わたしはほんとうに、いたらない……」   「それはちがう」   「ちがわない」   「ちがうぞ、陽子。おいらはべつに見ず知らずの土地に流されて、追いかけ回されたわけじゃねぇ」   陽子は自分を見あげてくる楽俊の顔を、しばらくじっと眺めた。楽俊は笑う。   「おまえはよく頑張ったよ、陽子。いい感じになったな」   「え?」   「船から降りてきたとき、すぐにわかった。なんだか目が素通りできねえんだもん」   「──わたしが?」   「うん。──さ、行こう」   「行こうって、どこへ?」   「県正のところだ。|海客《かいきゃく》だって届を出しておけば、どうやら|便宜《べんぎ》をはかってくれるらしい。上の人を訪ねるんなら手紙を書いてくれるとよ。陽子がなかなか着かないもんで、あちこちうろうろしてな。役所にも行ってみたんだ。そうしたらそこでそんなふうに言ってたぜ」   「すごい……」   なんだか次々に扉が開いていく気が陽子にはした。   5   「|賑《にぎ》やかな街……」   人出は多く、店先では呼び込みをするのでいっそう賑やかだった。   「驚いたろ」   「うん」   「|雁《えん》国が豊だって話は聞いていたけどな、実際に|烏号《うごう》を見るとびっくりするな」   陽子はうなずいた。通りは広く、街の規模も大きい。周囲にめぐらした城壁はその厚みが十メートルはあって、街の内側では城壁をえぐってそこで商店が営まれている。それはちょうどガード下の風景に似ていた。   建物は木造の三階建て。天井は高く、どの窓にも必ずガラスが入っている。ところどころに|煉瓦《れんが》や石を使った高い大きな建物もあって、たんに中国風では終わらない奇妙な雰囲気を作っていた。   道は石で舗装してある。道の両脇には下水溝も見える。公園があって広場がある。どれも|巧《こう》国では見かけなかったものばかりだ。   「自分が、すごい|田舎《いなか》者になった気がするな」   陽子が周囲を見回しながら言うと、楽俊は笑う。   「おいらもそう思った。もっとも、おいらは本当に田舎者なんだけどな」   「城壁が何重にもあるんだね」   「うん?」   陽子は楽俊に町並みのあちこちに見える高い壁を示してみせる。   「──ああ。正確には街の外側の壁を|郭《かく》壁、内側の壁を城壁ってんだ。巧国じゃ城壁のある街はめったにねえけどな。でも、ありゃあ郭壁だろうなぁ。街を大きくしていった名残じゃねえかな」   「……へぇ」   城壁の下や広場には|慶《けい》国からの難民が住んでいたが、同じような体裁のこぎれいなテントが並んでいて、あまり|荒《すさ》んだ印象はない。街から支給されたテントなのだろうと、これも楽俊の言である。   「ここは州都?」   「いんや。郷都だ」   「郷は州のひとつ下?」   「いんや。ふたつ下だな。二十五戸の里から始まって、|族《ぞく》、|党《とう》、県、|郷、郡、州と大きくなる。郡は五万戸の組織だ」   「一州は何郡?」   「場所によってちがうな」   「ここで郷都ということは、郡都や州都はもっと大きいことになるね」   都や州は役所の名前で、郡の役所がある街が郡都、郡城という言い方もする。都の五万戸は行政区分上の話で、べつに五万戸がそこに住んでいるわけではないらしい。それでも里よりも族里が、郷都よりも郡都、郡都よりも州都のほうが街の規模が大きいのが普通だった。   「雁国と巧国と、どうしてこんなにちがうんだろう」   楽俊は苦笑した。   「主上の格のちがいだろうよ」   「格のちがい?」   振り返ると楽俊はうなずく。   「今の|延《えん》王は希代の名君と言われているからな。治世はもう五百年だかになるはずだ。やっと五十年かそこらの|塙《こう》王とはわけがちがう」   陽子は|瞬《まばた》いた。   「五……百年?」   「|奏《そう》国の|宗《そう》王についで長い。治世が長ければ長いほど良い王だということだ。奏国も豊かな国らしいぞ」   「ひとりの王様が……五百年?」   「もちろん、そうだ。王は神だ。人でねえ。天はその王の器量に見合っただけ国を任せる。だからできた王ほど治世が長い」   「へえぇ……」   「王が替わるとどうしても国が乱れるから、良い王を持った国は豊かになるな。特に延王はいろんな改革をやらかした|辣腕家《らつわんか》だ。名君というなら宗王も名君だが、奏国は安穏としていて、雁国は活気があるといわれてる」   「たしかに、活気があるね」   「だろう。──ああ、そこが郷だ」   楽俊が示した建物は煉瓦でできた大きな建物だった。壁や軒を飾る意匠こそ中国風だが、これは洋風建築と呼んでもさしつかえないだろう。内装も外観と同様に洋風と中華風が|混沌《こんとん》としていた。   そこを出た陽子が真っ先に言った一言はこうだった。   「すごいな」   楽俊もうなずく。   「ほんとうだ。巧国が海客に厳しいのはわかっちゃいたが、雁国とこうも差があるとは思わなかった」   陽子もうなずいて役所でもらった木の札をかざしてみる。表には朱印と「|景《けい》州|白《はく》郡|首陽《しゅよう》郷烏号官許」の墨書、裏には陽子の名前が書かれたそれが身分証明書だった。   郷庁でひとりの役人に引きあわされた陽子は名前を聞かれ、故国での住所や職業などの通り一遍の質問をされ、驚いたことに郵便番号と市外局番を聞かれてこの札を渡された。   「ときに陽子、えぇと、郵便番号と市外局番ってのはなんだ?」   楽俊はそれを聞いてきた役人にも同じ質問をしたが、役人にもよくわかっていないようだった。彼は決まりなんです、と答えて一冊の本を開いた。|和綴《わとじ》のその本をこっそり横からのぞきこむと、木版画の文字で数字が羅列してあるのが見えた。役人はそれで確認をしてからこの札をくれたのだ。   「郵便番号っていうのは、手紙を出すときにつかう住所につけられた番号。市外局番っていうのは、電話をかけるときにつかう番号」   「デンワ?」   「声を遠くに伝えて直接話す道具、かな」   「そんなものが|倭《わ》にはあるのか。でも、なんでそんなことを聞くんだ?」   楽俊は|髭《ひげ》をそよがせた。   「倭の人間じゃないとわからないからじゃないかな。まちがいなく|海客《かいきゃく》かどうか確認したんだよ。そうでないと、偽海客が増えることになるかもしれない」   陽子は笑って札を示してみせた。   「そりゃ、そうだなぁ」   この札は陽子の身分を証明してくれるが三年間しか使えない。三年のあいだに今後の生き方を決めて、正式に戸籍を取得する場所を決めなければならないらしい。   そのかわり保護される三年間は公共の学校や病院は無料で使える。そればかりでなく、こちらでは|界身《かいしん》と呼ぶ銀行に持っていけば一定額の生活費まで与えられるらしい。   「すごい国だね」   「まったくだ」   巧国がいかに貧しく、雁国がいかに豊かか。それ以外にもこの札は教える。   延王は決して難しい相手ではないだろう。延王に助力を願えと楽俊は言ったが、そんなことが可能なものかどうかは疑問だった。今でも疑問なことに変わりはないが、かといって頭ごなしに拒絶され、あるいは処罰されるようなことがないことは信じられる気がした。   6   楽俊が言っていたように街には獣が多く混じっていた。雑踏の中に二足で歩く獣が混じっている|様子《ようす》はどこかほほえましい。なかには人間のように服を着ている獣までいて、それでいっそう笑みがもれた。   楽俊は陽子を待って、港で働いていたらしい。入港した船の手入れを手伝う仕事だったようだが、それをさも嬉しそうに語って聞かせた。   はじめて得た仕事を、楽俊は陽子に会ったのを機に|辞《や》めた。仕事に切りがつくまで|烏号《うごう》にいてもいいんだよ、と言うと、人を待っているあいだ働きたいと最初からそう言ってあったのだからかまわないのだと言う。   船が入った翌日には烏号を出て|関弓《かんきゅう》に向けて出発した。陽子には高額でないとはいえ決して少なくはない額の給付金があったので、余裕のある旅になった。昼間に街道を歩き、夜には街に入って宿を取る。|雁《えん》国の街はどこも大きく、同じ料金の宿でも設備は|巧《こう》国のそれより数段よかった。夕刻には街に入り、宿を取って夜の街を見物する。特に楽俊は店頭をのぞいてまわるのが好きだった。   穏やかな旅になった。もはや陽子を追ってくるものはない。|衛士《えじ》の姿を見るたびにおびえる必要はないのだという事実になれるのには時間がかかった。夜に街の外へ出ることはなかったのでよくわからないが、人の話を聞くかぎり夜道を歩いても妖魔とであうことはほとんどないようだった。   そんな旅のさなか、陽子が湯を使うあいだに散歩に出ていた楽俊が、|海客《かいきゃく》の噂を拾ってきたのは烏号を出て十一日目、関弓までの道のりをようやく三分の一過ぎたころだった。   もう雁国にいるのだから、すこしは華やかな格好をすればいいのに、と楽俊に言われながら、陽子は相変わらず男物の服──|袍《ほう》というらしい──で過ごしている。そのほうが気楽なので、いったんなれると竹の長い女物の着物を着る気になれなかった。   すると当然のように少年だからと思われるので、雁国の宿には風呂があったが入りづらい。共同のサウナのような風呂らしいが、部屋で湯を使ってがまんするしかなかった。路銀に余裕があるので宿はちゃんと部屋を取っている。それでもなんとなくもったいない気がして一部屋ですませているので、風呂のたびに部屋から追い出される楽俊には迷惑な話かもしれない。   |盥《たらい》で湯を使って髪を洗った。こちらの世界にまぎれこんでいくらも経たないころ、|達姐《たっき》に髪を染めてもらってからずいぶんと月日が流れた。髪もずいぶん伸びている。達姐が庭先の草の根で染めてくれたのを、見よう見まねで同じような草を探し、試行錯誤で染めてきたが草の種類だか染め方だかが違うらしく、後から染めた部分は洗うたびに色が薄くなってしまう。いまではもとの赤と大差なかったが、そんな奇妙な色の髪にも、もうなれた。あいかわらず鏡を見るのは妙な気がしたが、正視に耐えないというほどでもない。いまさらのようにこちらになじみつつある自分を確認しながら体を洗って服を着がえた。   そこへ楽俊がもどってきて、海客の噂を披露したのだった。   「この先の|芳陵《ほうりょう》って郷城に海客がいるらしいぜ」   「……そう」   会いたいとは思わなかった。会いたくないとも思わないが、会って同胞に落胆するのはかえってつらい。   「|壁落人《へきらくじん》てえ人だそうだ」   「壁、落人?」   「ああ。|庠序《しょうじょ》の先生らしいな」   では、あの老人ではないのだ、と陽子は思った。よく考えてみるまでもなく、あの老人のはずがないのだけれど、それは少しだけ陽子を|安堵《あんど》させた。   「会いに行くだろう?」   楽俊は疑いのない目で陽子を見る。   「行ったほうがいいいんだろうな」   「行くんだろう?」   「そうだね……」   翌日、関弓までの道を逸れて|芳陵《ほうりょう》へ向かった。   訪ねる壁という人物は学校の一郭に住んでいた。突然訪ねたりはしないのが礼儀だと、楽俊は言う。前もって手紙を送り、正式の手順を踏んで面会を求めた。   落人からの返答が宿に届いたのはさらにその翌日の朝、返答の手紙を持ってきた使いに連れられて学校へ行く。   芳陵の学校は城壁のなかにあって典型的な中国風の建築、広い庭を|擁《よう》して学校というよりは富裕な家のようなたたずまいをしていた。   |東屋《あずまや》風の小さな建物に導かれて待っていると、そこに姿を現したのが落人だった。   「どうもお待たせしました。わたしが壁です」   彼の年齢はよくわからない。三十から五十のあいだだろうとは思う。若いようでもあり、年配のようでもあった。|皺《しわ》のないのっぺりとした顔にやわらかな笑みを浮かべている。あの松山誠三という老人とはずいぶん雰囲気がちがう、とそう思った。   「お手紙を下さったのは?」   楽俊が答える。   「おいら……いや、わたしです。お時間をいただきましてありがとうございました」   落人はやんわりと笑った。   「どうぞ、お楽に」   「はあ……」   かるく耳の下を|掻《か》いてから、楽俊は陽子を振り返る。   「こいつは海客なんです」   楽俊の|科白《せりふ》に、彼はあっさり反応を返した。   「ああ、なるほど。しかし、彼女は海客には見えませんね」   陽子のほうを見る。   「……そうでしょうか」   彼は|微笑《わら》った。   「少なくとも日本ではそんな髪の色は見かけなかった」   「あ……」   問うような目の色に、陽子は事情を説明する。どうしてだかはわからないが、こちらに来たらこんなふうになっていたこと。髪の色ばかりでなく、顔や体つきや声まで変わっているようだということ。聞き終わって落人は、うなずいた。   「では、あなたは|胎果《たいか》でしょう」   「わたしが? 胎果?」   陽子は目を見開いた。   「|蝕《しょく》に巻きこまれて、人がこちらにやってくる。それとは反対に卵果があちらに流されていくことがあるのです。卵果は胎児のようなものです。あちらで母親の胎内に流れつく。そうして生まれた者を胎果と言います」   「わたしが……それだと?」   落人はうなずいた。   「胎果は本来こちらの生き物です。今見えているその姿があなた本来天帝から与えられた姿だ」   「でも、あっちにいるときは……」   「その姿で|倭《わ》に生まれたら大騒ぎになるでしょう。あなたはご両親に似ていたはずだ」   「はいる父方の祖母に似てると言われてました」   「それはいわば、|殻《から》のようなものです。あちらにうまれてもさしつかえないよう、胎内でかぶせられた殻のようなもの。胎果はそのように姿がゆがむと聞いたことがあります」   それは陽子にとってすぐには納得できない言葉だった。   自分がそもそも|異邦人《いほうじん》だったのだと言われて、どうしてすんなり納得できるだろう。   ただ、やはり、と思った自分がいたのも確かだった。   自分はあちらの人間ではなかった。だから、あちらなに居場所がなかった。──そう思うことはひどくなにかをなぐさめた。なぐさめられると同時に、悲しかった。   7   陽子はしばらくぼんやりと自分と世界について考え、それからふと落人を見た。   「先生も胎果なのですか」   聞くと彼は首を横にふって笑う。   「わたしはたんなる|海客《かいきゃく》です。故郷は|静岡《しずおか》ですよ。東大に行きましてね。こっちに来たのは二十二のときです。安田講堂から出ようとして、机の下をくぐってみたらこちらだった」   「安田……?」   「ああ、ご存知ないか。大騒ぎだったが歴史に残るほどではなかったのかな」   「わたしは、ものを知らないで……」   「わたしもです。昭和四十四年一月十七日でした。夜になったばかりだったな。それ以後のことは、なにひとつ知りません」   「……わたしが生まれる前のことです」   落人は苦笑した。   「もうそんなに経ちますか。わたしは長いことこちらにいたな」   「それからずっとこちらに?」   「そうです。ついたのは|慶《けい》国でした。慶国から雁国を転々として、ここに落ちついたのが六年前です。ここでは処世……生活科学のようなものを教えています」   笑ってからひとつ首をふった。   「そんな話には意味がない。──なにをお聞きになりたいのです?」   陽子はまっすぐにただひとつの問いを発する。   「帰る方法はあるでしょうか」   落人はすこし間をおき、声を落とした。   「……人は虚海を越えることができないのです。こちらとあちらには一方通行の道しかない。来るだけです。行くことはできない」   陽子は息をついた。   「……そうですか」   そんなに衝撃は受けなかった。   「お力になれず、申しわけない」   「いいえ……。ひとつ不思議に思っていることがあるんですが、お聞きしてもいいですか?」   「なんなりと」   「わたしは、言葉がわかるんです」   落人は首をかしげた。   「わたしは、そもそも言葉がちがうことにきづいてなかったんです。ずっと日本語だと思っていました。理解できないのは特殊な言葉だけだったんです。それが、|巧《こう》国で海客のお|爺《じい》さんに会って、はじめてここでは日本語でない言葉が使われているんだと知りました。……これはどういうことなのでしょう」   落人はすこし考えこんだ。困ったように|微笑《わら》い、陽子の顔を見る。   「……あなたは人ではないようですね」   やはり、と陽子は思う。   「わたしはこちらに来たとき、言葉がわからずに苦労しました。多分中国語系統の言葉なのだと思いますが、わたしがしっていた初歩的な中国語は通じなかった。何年も筆談しかできなかったんです。かろうじて漢文だと通じたので。その漢文もずいぶん怪しげなもので、最初の一年は本当につらかったな。ここへ来た誰もがそうです。胎果も例外ではない。わたしは海客の研究をしていますが、過去に海客で言葉に難儀しなかったものはいません。あなたは、ただの海客ではないと思います」   陽子はそっと自分の腕をつかむ。落人は続けた。   「言葉に不自由しないのは、妖族と|神仙《しんせん》だけだと聞いたことがあります。あなたが一度も言葉の問題に気がつかなかったのなら、あなたは人ではない。|妖《あやかし》か神仙か、それに類するものなのだと思いますよ」   「妖……にも胎果があるんでしょうか」   落人はうなずく。笑みは消えていなかった。   「聞いたことはないが、ありうることです。だとすれば、あなたには解決策が残されている。帰ることができるかもしれない」   陽子は顔をあげる。   「……ほんとうですか」   「ええ。妖にしろ神仙にしろ、虚海を越えることができるからです。わたしは虚海を超えられない。二度と戻る方法がない。あなたはちがいます。|延《えん》王にお目通り願いなさい」   「王にお会いすれば、助けていただけるんでしょうか」   「おそらく。簡単ではないでしょうが、少なくとも努力してみる価値はあります」   「……そうですね」   うなずいてから陽子は床に視線を落とした。   「そうか、やっぱりわたしは人じゃなかったのか」   かるく笑いがもれて、楽俊がとがめるような声を出した。   「陽子」   陽子は|袖《そで》をめくって右手を示す。   「おかしいとは思っていたんです。てのひらに傷があったはずなんです。こちらに来て妖魔に襲われた傷です。完全に刺し貫かれて、すごく深い傷だったのに、もうほとんど見えない」   楽俊は陽子がかるく|掲《かか》げたてのひらをのびあがるようにしてのぞきこんでから|髭《ひげ》をそよがせた。それは楽俊が手当てしてくれた傷だった。どんなに深い傷だったか、楽俊が証人になるだろう。   「ほかにもたくさんあったはずなんです。でも、どれももうどこにあったのかわからない。傷じたいも妖魔に襲われたにしては軽すぎました。|咬《か》みつかれても|牙《きば》の跡しか残らなかったり。なんだかとても|怪我《けが》をしにくい体質になったみたいで」   陽子は笑う。自分が人ではないという認識はなぜか笑いを呼びおこした。   「|妖《あやかし》だったからなんですね。それがわたしを狙って妖魔が襲ってきていたことと関係があるんでしょうね」   「妖魔が狙う?」   落人は|眉《まゆ》をひそめる。答えたのは楽俊だった。   「どうやらそのようだったんです」   「そんな、バカな」   「おいらもそう思いましたが、聞けば陽子の行くところに必ず妖魔が現れている。おいらもげんに|蠱雕《こちょう》に襲われたときに居合わせました」   落人はかるく額を押さえた。   「ちかごろ巧国に妖魔が出没していると言う噂は聞いていましたが……。それが彼女のせいだと?」   楽俊が|憚《はばか》るように陽子を見たので、陽子はうなずいてみせた。楽俊の言葉を継ぐ。   「だと思います。わたしがこちらに来たのも、そもそも蠱雕に襲われて逃げてきたからなんです」   「蠱雕に襲われて逃げてきた? あたらから、こちらへ?」   「はい。ケイキという人が……彼もきっと妖魔だったんでしょうけど、彼が身を守るためにはこちらへ来るしかないのだと言って。それでわたしをこちらへ連れてきたんです」   「……彼は今?」   「わかりません。こちらに来てすぐ妖魔に待ち伏せされて、それではぐれてしまったんです。あれきり会えないので、ひょっとしたらもう生きていないのかもしれません」   落人は長いこと額に手をあてて考えこんでいた。   「……ありえない。考えられないことです」   「楽俊にもそう言われました」   「妖魔というのは猛獣といっしょです。群れて人を狩ることはあっても、特定の誰かを狙って行動することは考えられない。ましてやわざわざ|虚海《きょかい》を渡って、それからもあなたを狙っているという。そんなことをする生き物ではない。|虎《とら》がそんなことをしないのと同じです」   「誰かが虎をてなずけて利用することはできるんじゃないでしょうか」   「妖魔に対してそんなことができるはずがない。これは大変なことです、陽子さん」   「……そうなんですか?」   「妖魔の側になんらかの変化か事情があってあなたを狙ったのだとしても、あるいは誰かが妖魔をあやつる術を見つけたのだとしても、どちらにしてもこれを放置しておけば最悪、国が滅ぶ」   言って落人は陽子を見る。   「もしもあなたが妖だとすれば、すこしは話が簡単なのですがね。妖族どうしの仲間割れというのは聞いたことがないが、妖族は|飢《う》えれば共食いさえする生き物です。しかし……」   「陽子はどう見ても妖魔には見えない」   楽俊が言うと、落人もうなずく。   「人に化ける妖魔はいるが、こうも完璧に化けられるとも思えない。しかも、本人に妖魔の自覚がないなんて」   「ないわけではありません」   陽子が苦笑すると落人は首をふる。   「いいえ。あなたは違います。妖魔ではない。──ありえません」   言って落人は立ちあがった。   「王にお会いなさい。わたしから役人に言ってもいいが、それよりは直接|関弓《かんきゅう》へ行ったほうが話が早い。まっすぐに|玄英宮《げんえいきゅう》を訪ねて、今の話をしてごらんなさい。あなたはこの事態の鍵だ。きっと王はお会いくださるでしょう」   陽子もまた立ちあがる。深く頭を下げた。   「ありがとうございました」   「今から出れば夕刻までに次の街へ着けます。荷物は宿に?」   「いえ、ここにあります」   「では城門までお送りしましょう」   落人は城門までの道のりをいっしょに歩いて送ってくれた。   「微力ながらわたしも訴状を書いて動いておきます。なにがおこっているのかわかるまではあなたは身動きできないかもしれませんが、事がかたづけばきっと王が帰してくださるでしょう」   陽子は落人を見る。   「あなたは?」   「え?」   「先生は帰りたいと、王様にお願いしてみないんですか?」   陽子が聞くと落人は苦笑した。   「わたしは王にお会いできるような身分のものではありません。ごく当たり前の、|一介《いっかい》の海客にお会いできるほど王はたやすい相手ではない」   「でも」   「いや……真実願えばお会いできたのかもしれませんが、わたしにはさほどの興味がなかったのです」   「興味がない?」   「わたしは時代に疲れていたので、新天地に来たことが嬉しかった。わたしは故国に帰ることを熱望していない。王にお会いすれば帰してもらうなり、なにか解決策が見出せるかもしれないとわかったときには、こちらになれて帰ることなどどうでもよくなっていた」「わたしは……帰りたい」   陽子はつぶやく。帰りたい、といった瞬間、なにかがひどく|淋《さび》しい気がした。   「……ぶじ、王にお会いできるよう、祈っています」   「せめて門まで、日本話をしましょうか?」   「必要ありません」   落人は笑った。   「そこはわたしが革命に失敗して逃げだしてきた国です」   七章   1   ほとんど小走りに街道を歩いて、門が閉まるぎりぎりの時間に次の街へ転がりこんだ。翌日は開門と同時に街を出る。陽子には今ひとつ、ことの重大さが理解できなかったが、落人や楽俊が血相を変えるのだからよほどのことだろうと納得していた。   「ほんとうに|延《えん》王に会えるのかな」   歩きながら聞くと、楽俊は|髭《ひげ》をそよがせる。   「さてな。おいらも王にお目通り願ったことはねえからわからねえ。いきなり王に会おうとしてもむりだろうなぁ」   「じゃあ?」   「|関弓《かんきゅう》へ行けば|郷《ごう》も県もあるが──まずはタイホにお目通りを願ってみるかい」   「タイホ?」   楽俊はうなずいて前指[#入力者注:前肢の誤変換かな?]の先で宙に文字を書く。   「|台輔《たいほ》。|宰輔《さいほ》をこうお呼びするんだ。ええと、一種の尊称かな。関弓があるのは|靖《せい》州、靖州の州侯は台輔だからな」   陽子はじっとその文字が書かれた場所を見つめた。   「……聞いたことがある」   どこかで、タイホという音を聞いた。   「そりゃあ、あるだろうさ」   「ちがう。多分、むこうで」   ずいぶん昔に聞いた音だ。そう考えて、タイホと呼んだ声を思い出した。   「ああ、そうか。ケイキがそう呼ばれていたんだ」   楽俊は真っ黒な目をぱちくりさせる。   「台輔? ケイキ?」   「うん。わたしをこちらに連れてきたひと。この剣をくれて……」   陽子はすこし笑った。   「わたしの使用人らしいよ。わたしを|主《あるじ》だって言ってたから。そのわりに、態度は|横柄《おうへい》だったけど」   「……ちょっと待ちな」   楽俊があわてたように手をあげた、|尻尾《しっぽ》までが陽子を押し止めるようにあがる。   「ケイキ、だって? そいつが台輔と呼ばれていた?」   「だけど。知り合い?」   陽子が聞くと楽俊は恐ろしい勢いで首を横にふる。それから思い悩むように髭を何度か上下させた。   「陽子がケイキの主……」   本当にずいぶん前のことだ。陽子はそう思う。   アルバムをめくるようにさまざまのことが思い出されて、陽子はしばらく押し黙っていた。ふと息をついて我に返ると、楽俊が二、三歩離れたところでじっと陽子を見あげている。ひどく|途方《とほう》にくれたように見えた。   「どうかした?」   「……した」   首をかしげる陽子を見あげたまま楽俊はつぶやく。   「ケイキってのが台輔と呼ばれていたなら、そいつは、ケイ台輔だ……」   「それが?」   |呆然《ぼうぜん》としたように見える楽俊の|様子《ようす》が不思議だった。   「ケイキがケイ台輔で、それでなにか不都合でも?」   楽俊は道端に腰をおろして陽子を手招きする。隣に腰をおろした陽子を、それでもしばらくじっと見あげた。   「ケイキがなにか? あの人はなに?」   「……これは大変なことだ、陽子」   「わからない」   「ゆっくり説明する。落ちついて聞きな」   ゆるやかに不安がはいのぼってきた。陽子はただうなずいて楽俊を見返す。   「台輔、ってのをもっと早く言ってくれりゃあ、驚くほど事態は簡単にすんだんだ。多分陽子はこんなに苦労することはなかった」   「楽俊、よくわからない」   「台輔と呼ばれるのは宰輔だけだ。ましてやそいつの名前はケイキだという。だとしたら、それはケイ台輔のことだ。それしかありえない」   「うん。それで?」   楽俊は髭をそよがせる。小さな前肢を伸ばして陽子の手に触れそうになり、思いとどまったようにそれをやめた。   「だったら、そいつは人じゃない。|妖《あやかし》でもない。……キリンだ」   「キリン?」   「|麒麟《きりん》。麒麟は最高位の霊獣だ。普段は人の形をしている。台輔は人じゃねえ。必ず麒麟だと決まっている。ケイキは景麒、と書く。名前じゃねえ、号だ。|慶《けい》東国の麒麟を意味する」   「うん……」   「慶国は|青海《せいかい》の東岸、ちょうど|雁《えん》国と|巧《こう》国にはさまれる場所にある。気候の穏やかな、いい国だった」   「今は国が乱れている?」   楽俊はうなずく。   「去年王が亡くなられて、新王が|践祚《せんそ》なさっていない。王は妖魔を治めて怪異を|鎮《しず》め、災異から国を守る。だから、王がいないと国は乱れる」   「……うん」   「景麒がおまえを主と言うなら、おまえは|景王《けいおう》だ」   「え?」   「慶東国王、景」   陽子はしばらくぽかんとする。あまりに|隔《へだ》たりのある言葉にうまく反応することができなかった。   「おまえは……慶国の新しい王だ」   「待って。わたしは……たんなる女子高生だったんだよ? たしかに|胎果《たいか》かもしれないけど、そんなたいそうな人間じゃない」   「王というのは|玉座《ぎょくざ》に|就《つ》くまではたんなる人だ。王は家系で決まらない。[#入力者注:王が家系で選ばれない世界で育った楽俊がこのセリフを思いついたら変だろう]極端を言えば、本人の性格とも外見とも関係がない。ただ、麒麟が選ぶかどうか、それだけなんだ」   「でも……!」   楽俊は首をふった。   「麒麟は王を選ぶ。景麒が選んだのがおまえなら、景王はおまえだ。麒麟はどんな者にも従わない。麒麟に主と呼ばせることができるのは王だけだ」   「バカな……」   「天は王に枝を渡した。三つの実は土地と国と玉座を示す。土地は地籍と戸籍のことだ。国は律と法のことだ。そして玉座は王の徳目である仁道、──すなわち麒麟を意味する」   言いながら、なおも楽俊は途方にくれたように見えた。   「陽子が人とも、たんなる胎果ともちがうわけもわかった。……景麒と契約を交わしただろう」   「なに?」   「契約がなんだかは、おいらも知らねえ。ただ、王は神で人ではねえ。麒麟と契約を交わした瞬間から、王は人ではなくなる」   陽子は記憶を探る。しばらく記憶をつまぐって、許す、と言った一言を思い出した。   「……景麒がなにかを言って、許す、と言ったことがある。そうだ、あのとき景麒が妙なことをして、そのあとすごく変な感じが……」   なにかが自分のなかを駆け抜けていった、あの感じ。その直後に、職員室の窓ガラスが割れて、大勢の教師が|怪我《けが》をした中で陽子だけが無傷だった。   「妙なこと?」   「わたしの前に|膝《ひざ》をついて、頭を下げたんだ。……というか、わたしの足に額を当てて……」   「それだな」   楽俊が断言する。   「麒麟は|孤高不恭《ここうふきょう》の生き物だ。王以外には従わず、決して王以外の者の前で膝を折らない」   「でも……」   「詳しいことは、おいらに聞いてもわからねえ。|延《えん》王にお聞きしな。おいらは一介の半獣だ。神の世界のことはわからない」   そう堅い声で言って楽俊は陽子を見あげる。じっと見つめて髭をしおしおとそよがせた。   「陽子は遠い人だったんだな……」   「わたしは」   「ほんとうなら、おいらなんかが口をきける方じゃねえ。陽子、なんて呼び捨てにも、もうできねえなぁ」   言って立ちあがる。   「そうとなれば、一刻も早く延王にお会いするのがいい。関弓へ向かうよりも近くの役所に届け出たほうが早い。事は国の大事だからな」   背を見せたまま言ってから、あらためて陽子を見あげた。   「遠路のことでお疲れとは存じますが、ここからならばまっすぐ関弓に向かわれるよりも官に保護をお求めになるほうが早い。延王のご裁可あるまで宿にご|逗留《とうりゅう》願わねばなりませんが、ご|寛恕《かんじょ》ください」   深々と頭を下げた姿が悲しかった。   「わたしは、わたしだ」   「そういうわけには」   「わたしは」   ひどく|憤《いきどお》ろしくて声が震えた。   「わたしでしかない。一度だってわたし自身でなかったことなんかなかった。王であるとか、|海客《かいきゃく》であるとか、そんなことはわたし自身には関係ない。わたしが、楽俊とここまで歩いてきたんだ」   楽俊はただうつむいている。丸い背が、今は悲しい。   「どこがちがう。なにが変わったの。わたしは楽俊を友達なのだと思ってた。友達に|豹変《ひょうへん》されるような地位が玉座なんだったら、そんなもの、わたしはいらない」   小さな友人の返答はない。   「そういうのは差別っていう。楽俊はわたしを海客だからといって差別しなかった。なのに王だと差別するのか」   「……陽子」   「わたしが遠くなったんじゃない。楽俊の気持ちが、遠ざかったんだ。わたしと楽俊のあいだにはたかだか二歩の距離しかないじゃないか」   陽子は自分の足元から楽俊の足元までに横たわった、わずかな距離を示した。   翌春は陽子を見あげる。前肢が所在なげに胸のあたりの毛並みをさまよって、絹糸のような髭がそよいだ。   「楽俊、ちがう?」   「……おいらには三歩だ」   陽子は|微笑《わら》う。   「……これは、失礼」   楽俊の前肢が伸びて陽子の手にちょこんと触れた。   「ごめんな」   「ううん。こっちこそごめん。変なことに巻きこんで」   陽子は追われている。楽俊が王だと言うのなら、ほんとうにそなうのかもしれない。だとしたら追われる理由もそれになにか関係があるのだろう。   楽俊が真っ黒な目で笑った。   「おいらが|雁《えん》国に来たのは自分のためだ。だから陽子が気にすることはねえ」   「わたしは、楽俊にたくさんの迷惑をかけた」   「迷惑じゃねえよ。迷惑だと思ったら最初からついてきてねえ。いやだと思ったところで家に帰ってるさ」   「……怪我までさせて」   「ややこしかったり危険だったりするのは承知のうえだ。それでも、ついてくることが自分のために値打があると思ったからついて来た」   「お|人好《ひとよ》しなんだ、楽俊は」   「そうかもな。だとしても陽子を見捨てて危険じゃないところにいるより、陽子といっしょに危険なところに行くほうが自分にとって値打があることだと思ったんだ」   「まさか、こんなに危険だと思ってなかったでしょう?」   「だとしたら、おいらの見込みが甘かったんだ。それはおいらのせいで陽子のせいじゃねえ」   それ以上は言葉を見つけられなかったので陽子はただうなずいた。   小さな手をにぎって、そうしたら申しわけない気分でいっぱいになった。   海客をちゃんと申し出なければ罪になったりはしないのだろうか。追っ手の妖魔たちが、陽子が出たあとになって楽俊の家を襲ったりしてはいないだろうか。家を出るとき彼が母親に言った、「母ちゃんはしっかり者だからひとりでもだいじょうぶだな」という言葉は暗に、追っ手やそのほかの困難が彼女を襲う可能性のあることを告げてはいないだろうか。   陽子は腕を伸ばす。ふかふかした毛皮を抱きしめた。わわわ、と奇声をあげる楽俊を無視して灰茶の毛皮に顔を埋める。想像どおり、ひどく柔らかい感触がした。   「ほんとうに巻きこんでごめん。ありがとう」   「陽子ぉ」   |狼狽《ろうばい》したふうの楽俊を放す。   「ごめん。ちょっと……感動した」   「いいけど」   楽俊はきまり悪そうに毛並みを両手でなでつける。   「おまえ、もうちょっと|慎《つつし》みを持ったほうがいいぞ」   「え?」   聞くと楽俊は髭を垂れる。   「でなきゃ、もっとこっちのことを勉強しろ。な?」   困ったように言われて、陽子は釈然としないままうなずいた。   「うん」   7   楽俊は次の街に入るなり宿を取った。その宿で文書をしたためると、ほんとうに役所へ駆け込む。   提出したその文書が受けつけられれば宿へなんらかの応答があるだろうと、楽俊は言う。陽子には事の重大さがのみこめないままだった。ましてや自分が王である自覚など逆さにふっても出てこない。だからといって楽俊の行動をあえて妨げる気にもなれず、言われるままにおとなしく構えていた。   「どれくらいかかるの?」   「さてなぁ。とにかく事情を書いて|宰輔《さいほ》に|謁見《えっけん》を願い出たが、どれくらいで宰輔の手先に届くかなぁ。こればっかりは経験がねえからわからねえ」   「役人を捕まえて頼み込むわけにはいかないの?」   陽子が聞くと楽俊は笑う。   「そんなことをしても叩き出されるのがオチだ」   「もしも、無視されたら?」   「呼び出してもらえるまで、根気よく書状を提出に行くんだな」   「ほんとうにそんな面倒なことをやるの?」   「ほかに方法がねえもん」   「結構まどろっこしいんだ」   「相手がえらすぎる。しかたねえさ」   「ふぅん」   自分がその大事の渦中にいるというのは、なんとも奇妙な気分がした。   役所──ここにあるのは党の役所だった──を出ると、楽俊が宿の方向ではなく広場のほうを示した。   「なに?」   「いいものを見せてやるよ。陽子にはきっとめずらしい思う」   役所は街の奥にある広場に面して建っている。広場を横切る楽俊のあとを首をかしげながらついていくと、楽俊はまっすぐ正面にある白い建物に向かった。白い石造りの壁には鈞と極彩色のレリーフが|施《ほどこ》してある。屋根|瓦《がわら》の青い|釉薬《うわぐすり》が美しかった。街の名前は|容昌《ようしょう》、建物の門には「容昌|祠《し》」と|扁額《へんがく》が|掲《かか》げられている。これまで通った街にも必ずあった、街の中心をなす施設だった。   「ここ?」   「ここだ」   「祠、って書いてあるってことは、神様を|祀《まつ》ってあるんだ。──天帝?」   「見ればわかる」   楽俊はニンマリ笑って、門を入る。門には|衛士《えじ》がいて、楽俊が見学したい|旨《むね》を言うと身分証明書の提示を求められた。   門を入ると狭い庭で、さらにその奥に大きな建物がある。繊細な細工をほどこした扉を抜けて中に入ると、奥行きのある広間のような部屋だった。   建物の中は|静謐《せいひつ》な空気に包まれていた。奥行きの深い広間の、正面の壁には大きな窓のように四角い穴があいている。その向こうには中庭が見えた。   窓の四方をおおうようにして祭壇めいたものが設けられている。そこにはたくさんの花や灯火や、供え物があげられていた。四、五人の男女が窓に向かって熱心になにかを祈っている。   祭壇の中央には祈る対象があるはず。なのに、そこにあるのは窓でしかない。それとも窓から見える景色だろうか。窓からは中庭と、中庭の中央にある一本の木が見える。   「あれは……」   楽俊はかるく祭壇に向かって手を合わせ、すぐに陽子の手を右に引く。祭壇のある正面の壁の左右に、さらに奥へ向かう広い回廊があった。回廊に入ると白い|砂利《じゃり》をしきつめた中庭が見える。そこにあるものを見て陽子はしばらくぽかんとした。   白い樹だった。陽子が山の中を放浪しているときにたびたび休息を求めた、あの不思議な樹。山で見たものよりも大きいが、高さには変わりがない。枝を広げたその直径が二十メートル程度。枝の最高部が二メートル前後で最低部は地につくほど。白い枝ばかりで葉も花もなく、ところどころにリボンのような細帯が結びつけられていて、そこには黄色の木の実がいくつかなっている。山で見た木の実は小さかったが、ここにある実はひと抱えほどもあった。   「楽俊、これは……」   「これが|里木《りぼく》だ」   「里木? あの、卵果がなるという?」   「そうだ。あの黄色い実のなかに子供が入っている」   「へぇ……」   陽子は|呆然《ぼうぜん》とその木を見守った。道理で故国では見たことがないはずだ、と思った。   「陽子はああしてなってるときに|蝕《しょく》がおこって|倭《わ》へ流されたんだな」   「なんだか嘘みたい……」   枝も木の実も、金属のような光沢がある。   「子供がほしい夫婦者はそろって祠へやってくる。供え物をあげて、子供をさずけてくれるように願って枝に帯をむすぶんだ。天帝がそれを聞き届けると、帯を結んだ枝に実がなる。実は|十月《とつき》で熟す。親がもぎに行くと、落ちる。もいだ卵果を一晩おいておくと実が割れて子供が生まれるんだ」   「じゃあ、実が勝手にできるわけじゃないんだね。両親が願ってはじめてできるんだ」   「そうだ。いくら願ってもできない親もいるし、すぐに実をさずかる親もいる。天がちゃんと親の資格があるかどうか見定めるんだな」   「わたしもそうなの? わたしの枝に帯をつけてくれた親がいたんだ」   「そうだ。卵果を失ってさぞかしガッカリしただろうなぁ」   「その人を探す方法はあるかな」   「どうだろうな。|暦《こよみ》を見ればわかるかもしれねえが。陽子の流されたときを逆算して、ちょうどそのころに蝕が起こった場所を探して、流された卵果の数を調べて──。それでも、難しいだろうなぁ」   「そうだね」   探せるものならば、どんな人たちだったのか会ってみたい気がした。自分の誕生を願ってくれた人がこちらにもいたのだというそのことが、ようやく陽子に自分の出自を納得させた。陽子はほんとうならばこちらで生まれたはずだったのだ。|虚海《きょかい》に抱かれた、この世界のどこかで。   「子供は親に似てるのかな」   「子が親に似る? なんでだ?」   本当に不思議そうに聞かれて陽子は苦笑した。人の形をした女の子供がネズミの形をしているくらいだ。子と親のあいだにはなんの遺伝的つながりもないのだろう。   「あっちじゃ、親と子は似てるものなんだ」   「へぇ、変わってるなぁ。なにか、それって気持ち悪くないか?」   「悪いかな。どうだろう」   「同じ家のなかに似た奴がいたら気味が悪くねえのかなぁ」   「考えてみると、そうかもね」   陽子が見ている目の前で、若い男女が中庭に入った。なにを相談しているのか、枝を示しては耳打ちをし合い、しばらく迷っては選んだ枝にきれいな細帯を結んだ。   「あの帯は必ず夫婦が自分たちで模様を刺すんだ。生まれてくる子供のことを考えながら、おめでたい模様を選んで、図案を|工夫《くふう》して|刺繍《ししゅう》する」   「……そう」   それはひどく暖かい風習のように思われた。   「わたし、山のなかでもこの樹を見たな……」   楽俊が陽子をふり仰いだ。   「野木か」   「野木って言うのか、あれ。あれにも実がなってたよ」   「野木にはふたつある。草や木がなるやつと、獣がなるやつと」   陽子は目を丸くして楽俊をふり返った。   「草や木も、動物も木になるの?」   楽俊はうなずく。   「あたりまえだろうが。木にならずにどうやって|生《は》えるんだ」   「……えぇと」   子供が木になるものなら、たしかに動物も植物も木にならなければつじつまが合わないかもしれない。   「家畜は里木になる。飼い主がここへ願いに来るんだ。家畜を願う特別な日と方法があるんだけどな。草や木や山の獣は勝手になる。勝手に熟れて、草や木なら種が、鳥なら|雛《ひな》が獣なら子供が生まれる」   「種はともかく、雛や子供が勝手になって危なくないの? 鳥の雛なんて、すぐにほかの動物に食べられちゃいそうだけど」   「親が迎えにいく生き物もあるけどな。それ以外のは自分で生きられるまで木の下で暮らす。だから木にはほかの獣は寄ってこねえようになってる。敵どうしの獣は、同じ時期に生まれないし、どんな|獰猛《どうもう》な獣どうしでも木の下にいるあいだは戦いをしねえ。それで、夕方街に入りそびれた連中は山に入って野木を探すんだ。野木の下は安全だからな」   「……なるほど」   「反対に、どんな危険な獣の子でも、木が見える場所でつかまえたり殺したりしちゃならない。それがぜったいの|掟《おきて》だ」   「そうだったのか……。じゃ、鳥の卵から雛が|孵《かえ》ったりしないんだね」   楽俊はなんともいやな顔をした。   「子供が入ってたら、喰えないじゃないか」   陽子がかすかに笑う。   「……うん。たしかにそれはそうかも」   「なぁんか、陽子の話を聞いてると、あっちは気味の悪いところみたいだなぁ」   「そうかもな。──妖魔は? やっぱり妖魔のなる木があるの?」   「だろう、当然。もっとも妖魔のなる木を見た奴はいねえけどな。どこかに妖魔の巣があるって話だし、きっとそこにあるんだろうなぁ」   「へぇ……」   陽子はうなずき、ふとした疑問を感じたが、あまりにはしたない質問なので|訊《たず》ねるのは思いとどまった。|遊郭《ゆうかく》があったりするのだから、まぁそういうことなのだろう。   「どうした?」   「なんでもない。連れてきてくれてありがとう。なんだか嬉しかった」   陽子が笑うと楽俊も破顔する。   「なんでもない。連れてきてくれてありがとう。なんだか嬉しかった」   陽子が笑うと楽俊も破顔する。   「そいつはよかった」   中庭にいる若い夫婦はまだ枝に向かって手を合わせていた。   3   楽俊はちゃんとした宿をとるべきだと主張したが、陽子はそんな無駄をすることはないと主張した。   「仮にも|景《けい》王をこんな安宿に泊められるかい」   「わたしが景王だなんて、楽俊がひとりで言ってることだ。楽俊は友達だからいちおう言い分を信じるけれど、確かにそうだと決まったわけじゃない」   「確かにそうだと決まってら」   「だとしても、関係ない」   「……なあ、陽子」   「わたしが持ってる路銀じゃ、このくらいの宿が分相応だ。役所から呼び出しが来るまで、どれだけの日数がかかるかわからないんだし、高い宿に移って日数が延びたら宿代を払えない」   「おまえは景王なんだから、払えないはずがねえだろう。だいいち、王から宿代をとる亭主がいるもんかい」   「だったら、なおさらここでいい。泊まって代金を払わないなんてフェアじゃない。ましてや、最初からそれをあてにするのはいやだ」   そんな口論のすえに選んだ宿は、格で言うなら下の上だった。四畳ていどの小部屋だが、ちゃんと寝台がふたつある。中庭に面して窓があり、窓の下には小さなテーブルまですえてある。そんな部屋に自分の金で泊まれるのだから、陽子にとってこれ以上|贅沢《せいたく》なことはない。   |祠《し》から帰るとすでに夕刻で、とりあえず部屋で湯を使い、服を着替えてそれまで着ていたものを選択する。毎日湯を使って、着替えられるのだから、ほんとうにこれ以上の贅沢はなかった。   食堂に降りてそこで待っていた楽俊と食事をとった。立ったまま屋台で食べるのではなく、ちゃんとした食堂でたべられるのだから、これだってかなりの贅沢だと思う。ゆっくりお茶を飲んで、そろそろ部屋へ戻ろうかと言っていた矢先だった。   ──宿の表で悲鳴が聞こえたのは。   |尋常《じんじょう》でない悲鳴に陽子はとっさに剣をにぎる。かたときも剣をそばから離さない|癖《くせ》だけは、どうしても身にしみついて落ちなかった。|柄《つか》をにぎって表に飛び出すと、通りの向こうがざわめいてる。遠くの角で道をいく人々があわてふためいて逃げるのが見えた。   「──陽子」   「まさか、ここまで」   なんとはなしに妖魔は|雁《えん》国にまでは追ってこない気がしていた。よく考えてみれば確たる根拠があったわけではない。   そもそも雁国には妖魔が少ない。夜には宿をとり、昼間だけ歩く旅だから妖魔に会わないのは当然だが、陽子の敵は夜に山の中で出会う妖魔ばかりではなかったはずだ。ひょっとしたら今日まで襲撃を受けずにすんだのは恐ろしく好運なことかもしれなかった。   「楽俊は宿のなかにいて」   「けど、陽子」   逃げる人々の悲鳴の色に陽子は聞き覚えがある。最大級の悲鳴。それは命を危険に|曝《さら》された者のあげる声だ。悲鳴に混じって赤ん坊が泣き叫ぶような声が聞こえた。これは必ず妖魔の声だと、陽子はそう学んでいる。   手に下げた剣を抜いて、|鞘《さや》を楽俊におしつけた。   「楽俊、さがってて。お願い」   返答はなく、ただそばにいた楽俊の気配が離れるのを感じた。   どっと人の波が押し寄せて、陽子はその向こうに小山のような黒い影を見た。恐ろしく大きな|虎《とら》に似ている。バフク、と誰かが叫ぶのが聞こえた。   陽子はにぎった剣の切っ先を下げたままかるく構える。刀身が左右の店のあかりを受けてきらめいた。駆けてきた人々がぎょっとしたように左右に割れる。   人々をなぎ倒しながら駆けてくる巨大な虎。その背後に、大きな牛に似た生き物が見える。   「二頭……」   少し身体が緊張する。久しぶりの感覚に恐怖よりも奇妙な高揚感がある。   路地を逃げまどう人々が左右の店に転がり込んで、敵との間があいた。かるく走って勢いをつけ、剣を構える。   最初は虎だった。跳躍するようにして飛び込んでくる巨体をぎりぎりでかわして、切っ先を大きな頭の後ろに突き立てる。抜きざま構えなおしてさらに突っこんでくる青い牛に振りかぶった。   身体が大きいので|止《とど》めを刺すのに手間がかかるが、数は少ないので造作はない。余裕をもって二頭を相手にしているところに突然楽俊の声が響いた。   「陽子、キンゲン!」   ふと顔をあげると鶏大の鳥が群れをつくって飛んでくるところだった。十か、二十か、実数は分からない。   「刺されるな、毒がある!」   楽俊に言われて陽子はかるく舌打ちをする。小さく、速く、数がある。やっかいなことになった。鳥の尾は鋭利な小刀の形をしている。二羽を|斬《き》り落とし、虎に止めを刺した。   足元を取られないよう、死体の脇を駆けぬけて宿屋を背に足場を探す。二太刀を受けた青牛は狂ったように暴れている。足元の石畳は妖魔の血で滑りやすい。   狭い、あかりのとぼしい路地、しかもまだ群れをなしている鳥。左右の店からもれる灯火しか、たよりにするものがない。なまじあかりがあるから、かえって暗がりの闇が深かった。鳥は気がつけば間近にいる。暗闇からふってわいてくるように思われた。   頭を突きあげてくる青牛をかわし、さらに一羽の鳥を落としたところで、|錆《さ》びた金属がきしむような奇声が無数に入り乱れて近づいてくるのが聞こえた。   「まだいるのか……っ」   背筋に汗が浮いた。   鳥に気を取られて即座に止めを刺せなかった青牛は、やっかいな相手と化している。路地の入り口から流れこむように|猿《さる》の群れがやってくるのが見えた。   それに一瞬気を取られた。気がついたときには目の前に鳥の鋭利な尾があった。よけることしかできずに身をかわして、構えを失ったところに次の一羽が来た。その尾はまっすぐ陽子の目を示していた。   これは避けられないという確信があった。   ──毒。どのていどの毒だろうか。   ──それより目が。   ──見えなくては、戦えない。   ──腕でかばってもまにあわない。   一瞬にも満たないあいだの思考。本当に|瞬《まばた》きする間もありはしない。   ──だめだ。刺される!   目を閉じようとしたときに、突然向かってきていた鳥が消失した。   誰かが横から鳥を叩き落したのだった。   それが誰だか確認する間もなかった。   さらに襲ってきた鳥を斬り捨て、突進してきた青牛をかわす。かわしたその牛の後頭部を誰かが|鮮《あざ》やかな手つきで突きとおした。あまりの鮮やかさに気をとられた陽子に突っこんできた鳥を、その誰かが引き抜いた剣で|薙払《なぎはら》う。   陽子よりは頭ひとつはゆうに大きい男だった。   「気を散じるな」   男は言って、最後の鳥を無造作に切り捨てる。   うなずくと同時に襲いかかってきた猿をたたきつけるように斬り捨て、そのうしろから飛びたしてきた次の一頭を突き通し、陽子は速やかに戦闘のなかに没頭していく。   男の腕は陽子よりも数段たしかで、しかも腕力が|桁《けた》ちがいだった。群れの数は多かったが、路地が死体で埋まり静まりかえるまで、いくらの時間もかからなかったように思えた。   4   「良い腕をしている」   |血糊《ちのり》を払って剣をおさめた男が言った。すこしも息を乱していない。|体躯《たいく》は大きいが巨漢という印象はなかった。堂々たる|偉丈夫《いじょうぶ》とはこういう人間のことを言うのだろう。陽子は肩で息をしながら黙って男を見あげる。男はただ笑った。   「これを聞くのは無礼かもしれんが。──ぶじ」   だまってうなずくとかるく片|眉《まゆ》をあげる。男はただ笑った。   「しゃべる体力も尽きたか?」   「……どうも、ありがとう、ございました」   「礼を言われる筋合いのことではないな」   「助けていただきましたから」   返答に|窮《きゅう》していると、背後から上着を|掴《つか》まれた。   「──陽子、だいじょうぶか?」   楽俊だった。足元の死体を気味悪そうに見やった。その楽俊から|鞘《さや》を受け取り、|露《つゆ》を払った剣をおさめる。   「だいじょうぶ。楽俊こそ|怪我《けが》はない?」   「おいらはだいじょうぶだ。──そこの人は?」   さあ、と陽子は肩をすくめてみせた。男はただ笑っただけで陽子の背後の建物に視線を向ける。   「その宿に泊まっているのか」   「──ええ」   そうか、とつぶやいてから男は周囲を見わたす。   「人が集まってきた。おまえ、酒は飲めるか」   「いえ……」   「おまえは」   男は楽俊を見る。楽俊は困惑したように|髭《ひげ》をそよがせながらうなずいた。   「では、つき合え。役人と話をするのは面倒だ」   言うなり背中を向けて歩き出す。陽子は楽俊と顔を見合わせ、どちらからともなくうなずいてその後を追った。   男は集まってくる人混みをかき分けて道を歩いていく。特にあてがある様子ではなかった。ちらちらとあたりに視線を向けながら雑踏を歩いて、気が向いたように一軒の宿に入っていった。華やかな店構えの大きな宿だった。あとをついていく陽子と楽俊には目もくれず、男は宿の入り口をくぐる。それを見ながら、陽子は楽俊をふり返った。   「……どうする?」   「どうするって、ここまで来たもんをむ   「そうじゃなくて。わたしは彼と話をしてみたい。楽俊は宿に帰ってる? ちょっと用心しといたほうがいいかもしれない」   「構うもんか。行こう」   石段をあがってドアを入ってていく楽俊のあとを陽子も追う。店のなかでは男が店員と階段の下で待っていた。陽子たちを認めると、かるく笑って階段を昇っていく。   店員が男を案内したのは三階の部屋だった。ふた間続きで、中庭に面してベランダがある。部屋は広く、|贅沢《ぜいたく》なつくりで内装も|凝《こ》っていた。置かれた家具までが贅を凝らしたもので、陽子は若干|気後《きおく》れを隠せない。かつて陽子が足を踏み入れたどんな宿より格段に高級な店だった。   男は店員に|酒肴《しゅこう》を命じるなりソファ風の椅子に腰をおろす。こういった格式の店になれている風情があった。無数に|灯《とも》された|蝋燭《ろうそく》のせいであかるい部屋の中で見ると、着ているものもかなり高価なものであることがわかる。   「あの……」   入り口で立ちつくす陽子に男は笑う。   「|座《すわ》ってはどうだ?」   「……失礼します」   陽子は楽俊と顔を見合わせ、うなずきあって腰をおろした。どうにも落ちつかない感じだった。男はそんな|様子《ようす》をほのかに笑ってみるばかり、特になにを言うでもない。対応に困って部屋の中を見回していると、店員が酒肴を調えて運んできた。   「|旦那様《だんなさま》、ほかにご用は」   聞いてくる店員を手をふって下がらせる。店員が部屋を出るときドアを閉めるよう命じた。   「飲んでみるか?」   問われて陽子は首を横にふる。楽俊もまた首を横にふった。   「あの……」   なにを話しかけていいのかわからないなりに、とにかく会話を持ちかけようとした陽子の言葉を男がさえぎった。   「みごとな剣を持っているな」   陽子の右手に視線を向けて男が手をさしだす。なんとなくあらがいがたいものを感じて、陽子は剣を手渡した。男はかるく|柄《つか》をにぎって引く。難なく抜けた。   そんな、と声をあげた陽子にはかまわず、男は|鞘《さや》と剣とを検分する。   「──鞘が死んでいるな」   「鞘が、死んで?」   「妙な幻を見なかったか」   聞かれて陽子は|眉《まゆ》をひそめた。   「……なに」   緊張した陽子を笑って、男は刀身を鞘におさめる。|丁寧《ていねい》な手つきで陽子に剣をさしだした。陽子はそれをうけとってかるく柄をにぎりしめる。   「どういうことです」   「言葉どおりの意味だが。それがどういう|代物《しろもの》だか知らないのか」   「どういう代物、って」   男は勝手に水差しのようなガラス瓶から液体を杯に満たす。少しも構えたところのない動作だった。   「それは|水禺刀《すいぐうとう》という。水をして剣を|成《な》さしめ、|禺《さる》をして|鞘《さや》を成さしめ、よって水禺刀というそうだ。剣としても傑物だが、それ以外の力も持っている。刃に燐光を生じ、水鏡をのぞくようにして幻を見せるそうだ。うまくあやつる術を覚えれば過去未来、千里のかなたのことでも映し出すという。気を抜けばのべつまくなし幻を見せるそうだ。それで鞘をもって封じるとか」   かるく杯をかたむけて陽子を見る。   「鞘は変じて禺を現す。禺は人の心の裏を読むが、これもまた気を抜けば主人の心を読んで惑わす。ゆえに剣をもって封じると聞いた。|慶《けい》国秘蔵の|宝重《ほうちょう》だ」   陽子は思わず腰を浮かせた。   「しかし、この鞘は死んでいるな。鞘の封印をなくして、さぞかし幻が暴れたろう」   「……あなたは」   「党に書状を出したろうが。──用件を聞こう」   「まさか、|延台輔《えんたいほ》でいらっしゃいますか」   男は人の悪い笑みを浮かべた。   「台輔は|留守《るす》だ。用件ならば俺が聞く」   陽子は落胆を抑えきれない。やはり台輔その人ではないらしい。   「要件なら書状に書きました」   「書いてあったな。|景《けい》王とか」   「わたしは|海客《かいきゃく》です。こちらのことはよくわかりません。ただ」   陽子は楽俊を見た。   「この楽俊が、わたしを景王だと」   「どうやらそのようだな」   男はあっさりうなずいた。   「信じるんですか」   「信じるもなにも。水禺刀は慶国の宝重、そもそも魔力甚大な妖魔を滅ぼすかわりに封じ、剣と鞘に変じて支配下に押さえこみ宝重となしたものだ。ゆえにそれは正当な所有者にしか使えん。すなわち、景王でなくてはな。封じこんだのは何代か前の景王だから、そういうことになる」   「──でも」   「互いに互いを封じるゆえ、本来ならば主人にしか抜けぬ。今は鞘が死んでいるので俺にも抜けたが。たとえ抜き身の剣をにぎったところで|藁《わら》一本|斬《き》れん。ましてや幻を引き出すことは断じてできんな」   陽子は男をまっすぐに見る。   「あなた、なにもの」   ──ただものではない。これほど慶国の事情にあかるいからには。   「先に名乗る気はないか?」   「|中嶋《なかじま》、陽子です」   男は視線を楽俊に向けた。   「では書状を出した|張清《ちょうせい》とはおまえか」   はい、と楽俊があわてて居住まいを正した。   「|字《あざな》は」   「楽俊です」   「──で? あなたは」   陽子はにらんだが、男を威圧することはできなかった。   「俺は|小松《こまつ》|尚隆《なおたか》という」   まったくかまえる様子を見せずに答えた男を、陽子はまじまじと見返した。   「……海客?」   「|胎果《たいか》だな。ショウリウと音に読む者が多い。多いといってもたかがしれているが」   「……で?」   「で?」   「あなたは何者? 台輔の護衛かなにか?」   ああ、と男は笑った。   「称号でいうなら俺は|延《えん》王だ。──|雁《えん》州国王、延」   5   陽子はしばらく身動きができなかったし、楽俊にいたっては|髭《ひげ》も|尻尾《しっぽ》も立てたままで硬直してしまった。   まじまじと見つめられたほうは笑う。彼がこの状況を楽しんでいるのは明らかだった。   「……|延《えん》王?」   「そうだが。|台輔《たいほ》が留守で申しわけないが、俺でも役に立つだろうと思って参じた。それとも台輔でなくてはならんか」   いえ、と言ったきり陽子は二の句がつげない。彼は薄く笑って、それから杯の中に指を浸した。   「そもそもの話からはじめよう。一年前、|慶《けい》国の|景《けい》女王が|崩御《ほうぎょ》なされた。|予王《よおう》と申しあげる。これは知っているか」   「いえ」   陽子が言うと延はうなずく。   「|舒覚《じょかく》、というのが実際の名だ。これの妹に|舒栄《じょえい》という女がいる。これがなにを思ったか、勝手に景王を名乗った」   「勝手に……?」   「王には麒麟がいる。王は麒麟が選ぶ。聞いたか?」   「はい」   「予王は麒麟を残した。これが|景麒《けいき》だ。景麒のことは?」   「一度、会いました。彼がわたしをこちらへ連れてきたんです」   延は再びうなずく。   「予王がみまかり、慶国の|玉座《ぎょくざ》は空になった。すぐに景気は王の選定に入った。慶国から景王|践祚《せんそ》の報が入ったのは予王が崩御なされてふた月のことだ。……ところがこれがギオウだとか思えぬ」   「ギオウ」   うなずいて、延は酒に浸した指でテーブルの上に「偽王」と書く。   「王は麒麟が選ぶものだ。麒麟の選定なしに王を名乗れば偽王と呼ばれる。王の践祚にはそれに際して様々な|奇端《きたん》がある。ところが、舒栄にはそれがない。それどころか、妖魔はうろつく、|蝗害《こうがい》はおこる、どう考えても王だとは思えぬ」   「よく……」   わからない、と聞きかけた陽子を延は手で止める。   「これは偽王だろうということになった。調べてみれば景王を名乗ったのは予王の妹で舒栄という女。予王の妹とはいえ、ただの女だ。王宮には入れず、従って国を動かすこともできぬ。大事はあるまいと思ったのだがな」   よく|把握《はあく》できなかったが、とにかく陽子は耳をすませていた。   「ところがこれが、|州侯《しゅうこう》の城に陣を構え、そこから景王即位の報を流させた。国民には真偽を判定する方法がない。言われれば疑う理由があるまいというわけで、あっさり信じた。そうしておいて、諸侯が共謀し、城を封鎖して王たる自分を中に入れぬと言い出した。国民は信じて諸侯を責める。舒栄があえて立って|奸臣《かんしん》と戦うと宣じ、新たに|官吏《かんり》を|募《つの》り、兵を募ると志願者が殺到した」   言って延は少し渋い表情をする。   「もともと予王の即位までが長く、予王の在位は短かった。国は混乱から立ち直ることができぬままで、諸侯に対する|百姓《ひゃくせい》のうらみが深い。九州のうち、すでに三州が偽王軍によって落とされた」   「反論する人はいなかったんですか?」   「いたな。だが、麒麟がおらぬと言えば、景気は諸侯が隠したと言いはる。そのうち、ほんとうに景麒をさしだしたからたまらない。敵中に捕らわれた景麒を助け出したのだと言って、獣形の麒麟を出されては疑うほうが難しい。これで残った六州のうち、半数の三州が偽王側に寝返った」   「景麒を差し出した……。では、景麒は」   「捕らわれたようだな」   陽子を探しにこれなかったはずだ。最悪の事態ではないが、最悪に近い事態がおこっていたのだとわかった。   「では、その舒栄という女が陽子に死客[#入力者注:刺客のまちがい?]を送っているんですね」   楽俊が言うと、   「それが、そうもいかんのだ。妖魔が人を襲うという。これはよくあることだ。しかし特定の誰かを追い回して襲うなどということはありえぬ。シレイならば別だがな」   「シレイ?」   「王は|宝重《ほうちょう》の|呪力《じゅりょく》を使い、麒麟は使令を使う。妖魔を使って誰かを襲わせることができるものがいるとしたら、それは麒麟でしかありえんのだ」   では景麒のまわりにいた妖魔は景麒の使令なのだ、と陽子はただ納得したが、楽俊は明らかに|狼狽《ろうばい》した。   「まさか!」   延は重い仕草でうなずく。   「ありえぬことだが、ほかに考えられん。景王を襲ったのは麒麟の使令、使令よって召集された山野の妖魔だろう」   「そんな……。じゃあ」   「よくよく考えれば、舒栄が軍を維持できるほどの手づるや金を持っているはずがない。背後で誰かが大量の軍資金を流していると考えるべきだろう。そこへ指令が出てきたとなれば、裏にいるのはどこかの王」   陽子は延と楽俊を見くらべる。   「……どういう?」   これには延が答えた。   「麒麟がどういう生き物だか知っているか」   「霊獣で、王を選ぶ……」   「そのとおりだ。麒麟は|妖《あやかし》ではない。むしろ神に近い。本性は獣だが、常には人の形をしている。性向は|仁《じん》で慈愛の深い生き物だ。|孤高不恭《ここうふきょう》の者だが、争いを|厭《いと》う。特に血を恐れて、血の|穢《けが》れによって病むことさえある。決して剣をもって戦うことはできぬゆえに、身を守るのには使令をつかう。使令は妖魔、麒麟と契約を交わして|僕《しもべ》としたものをいう。どう転んでも自らの意志で人を襲わせることのできる生き物ではない。それは麒麟の本性に|悖《もと》る」   「それなのに?」   「それなのに、だ。王は麒麟の主人だ。麒麟は決して王には背かぬ。麒麟は断じて人に害意を抱くことのできぬ生き物だが、王が命じれば話は異なる。使令がおまえを襲ったからには、王が麒麟にそれを命じたからに他ならぬ。それ以外はおよそありえん」   「その……舒栄という人が麒麟を飼っているということは?」   「ないな□を主人に持っているか、王を探しているか、それ以外はない」   では、ほんとうにどこかの国の王が陽子の命を狙っていたのだ。   思って陽子は思い出した。   山道で会った、あの女──。   妖魔の死を|悼《いた》んでいるように見えた。それはあの妖魔が彼女の使令だったからではなかったか。オウムに陽子を殺せと命じられて、泣きながらそれでも逆らえずに刀を振った。もしもあのオウムが王であり、あの女が麒麟だとしたら、すべてのつじつまが合いはしないか。   「でも、どこの」   ──いったいどの国の王が。   延はあらぬ方向を見た。   「じきに答えが出る」   「慶応が我々の手の内にあるかぎり、もはや一指も触れさせぬ。問題は景麒だが、仮にも麒麟だ、そうたやすく殺されはすまい。だとしたら、そのうち景王暗殺を命じた王は明らかになるだろうよ。天がみすごすはずがないからな」   「よく、わかりません」   「放っておけばいい。国がかたむくゆえ、誰が命じたのかわかる」   ただ、と延は言って太く笑った。   「慶国に景麒が捕らわれている。あれだけはなんとしても救い出さねばならん。そのためにも御身を守るためにも、景王には安全な場所に来てもらう必要がある。出発できるか」   「今すぐ、ですか」   「可能ならばすぐに。宿に荷物があるなら、取りに戻るひまぐらいはある。俺の|住処《すみか》まで来てもらいたい」   陽子は楽俊を見る。楽俊はうなずいた。   「行ったほうがいい、陽子。それが何より安全だからな」   「でも」   「おいらのことは気にするな。行け」   楽俊の言葉に延は声をあげて笑った。   「客人がひとり増えたからといって困りはせんぞ。何しろ古いが部屋だけは|腐《くさ》るほどあるからな」   「と、とんでもない」   「不調法者揃いだが、それを気にせぬと言うなら来るがいい。景王もそのほうが気安かろう」   住処とは|関弓《かんきゅう》にある|玄英宮《げんえいきゅう》のことだろう。それをどこかの古屋のように言う延に内心|呆《あき》れながら、陽子は楽俊を見る。   「行こう。残していくのはなんだか不安だ」   楽俊はぎこちなくうなずいた。   6   |延《えん》は街のはずれに行くと、高く指笛を鳴らした。   |関弓《かんきゅう》までは歩いてあとひと月はかかる。そうして、夜には街の出入りができない。いったいどうやって街を出、関弓にいくつもりなのだろうかと陽子が考えていると、指笛に答えたように郭壁の上に影が現れた。淡く輝いているように見える虎が二匹、毛並みは黒い|縞《しま》に光線の加減よって色の変わる白、真珠に例えるほど淡くなく、油膜に例えるほど濃くもない。ブラック・オパールのような目が印象的で、すばらしく尾が長かった。   そもそも最初に|虚海《きょかい》を渡った夜のように、その虎に騎乗し、半月の浮かんだ夜空を駆けて陽子たちは関弓へ向かった。   ひどく懐かしかった。振り返ってみれば、どれほど長い時間が流れたことだろう。ヒョウキと呼ばれた|景麒《けいき》の使令に騎乗して海に向かったのはまだ寒かったころ。あのころの陽子はなにひとつわかっていなかった。景麒のことも、自分のことも。   そしていま、世界は夏。夜気に熱気がこもって、虎の周囲に風がないのが|寂《さび》しい。   宙を駆ける獣の足元には、虚海を越えた夜と同じように夜景が広がっている。|雁《えん》国の夜は明るい。里が|廬《ろ》が、小さな星団を作って虚海のようだった。   「陽子、あれが関弓だ」   背中にしがみついた楽俊が小さな前肢で前方を指さしたのは騎乗して二時間もしたころだったろうか。   楽俊が示した方向にはなにも見えなかった。街の明かりも見えず、ただ深い闇だけがある。どこに、と問い返そうとして、陽子は自分が見るべきものを誤解していたのを|悟《さと》った。楽俊は闇の中になにかを示したのではなく、闇そのものを示したのだ。   「……うそだ……」   半月の光を浴びて下界は深い海の色、森の輪郭がわずかに白い。まるで波のようだった。そして、点在する無数の灯火。──その夜景を黒々と切り取った深い穴。   いや、穴ではない。半月を背後にいただいて、それは黒いシルエットだった。夜景を切り取り、穴のように見えるが穴ではない。むしろそれは隆起で──。   「……山」   ──こんな山があるものか。   里が天にしか見えないほどの高空にいて、それはなお仰向くほどに高い。   ──天に届く山、とかつて楽俊は言った。   だがしかし、本当に天に届くほどの山があろうとは。   一瞬、自分が恐ろしく小さな生き物になった気がした。   |屹立《きつりつ》し、転地を貫く柱のようなその山。ゆるやかな山地のあいだから空に向かって伸びた姿は、長さのちがう筆をたばねて立てたようにも見える。細く険しい山頂はほとんどが雲をまとわりつかせていて、その形状を隠していた。   その影になった岩肌が。──まるで巨大な壁のようだった。   「……あれが、関弓? あの山が?」   足元と山までを見比べるとまだ信じられないほどの距離があるのが分かる。なのに、あの巨大さ。   「そうだ。あれが関弓山。王宮のある山はどこの国でもあんなふうだ。あの山の頂上に|玄英宮《げんえいきゅう》がある」   わずかに月光を浴びた崖の線が白い。それは垂直に近いほど鋭かった。城の姿を探したが、|頂《いただき》は雲に隠れて定かではない。   「あの光が関弓の街だ」   首都ならば烏号より大きな街だろう。それが光ひとつにしか見えないほど遠い。   しばらく陽子は呆然としていた。   こんなに近くに見えるのに空飛ぶ獣の足をもってしても、関弓は逃げているように近くならない。やがて細い山が近づいてきて、首を動かさなくては山全体を視野に収めることができなくなり、ついには完全に上を向いても頂上を見ることができなくなって、それでようやく関弓の街の輪郭が見えた。   関弓は途方もなく高い山の麓に盛りあがったなだらかな丘陵地帯に、|弧《こ》を描いて広がっていた。これだけ巨大な山が背後に控えていれば、夜は恐ろしく長いだろう。   そう楽俊に聞くと、そうだと言う。   「|巧《こう》国の|傲霜《ごうそう》に行ったことがあるが、そんな感じだったなぁ。傲霜は山の東にあるから、|黄昏《たそがれ》がうんと長いんだ」   「……そうか」   上空から見れば、関弓は巨大な街だった。足元一面に光の海が広がる。そして目の前には見わたす限りの崖。垂直に細い山が幾重にも重なってできた岩肌は、樹木の一本も見えずただ夜目にも白い。   先を行く延が山の高いところ、断崖に張り出した岩場に舞い降りた。   岩場の広さは小さな体育館ほどの面積で、ちょうど大きな岩の塊を平坦に削ったように見えた。延に続いて陽子たちを乗せた虎が岩場に降り立つ。先に降りた延が振り返って笑顔を見せた。   「どうやら落ちずについてきたな」   揺れもしなければ風を切る感触もない獣の背からどうやれば落ちるのだろうと思っていると、思考を読んだように延は笑う。   「高さに目を回す者やら、心地よすぎてうたた寝をする者やらいるからな」   なるほど、と陽子は苦笑する。   岩場の白い石は平坦に削られ、滑り止めだろうか、深く細かい模様が|彫《ほ》りこまれている。岩場の周囲に手すりはなく、ちょっと端に寄ってみる気にはなれない。地上からここまでどれほどの高さがあるのか、陽子には想像もつかない。   岩場に続く崖には大きな両開きの扉があった。延はきびすを返してその扉に向かう。そこへたどり着く前に扉が内側へ開いた。   身の丈の倍はある一枚の白い石でできているらしい、どう見ても重そうに見える扉を開いたのはふたりの兵士だった。本当に兵士なのかどうかは知らない。厚い革の胸当てを身につけているので、兵士だろうかと思っただけの話だ。   彼らにうなずいてから、延は陽子たちを振り返る。自らも中に踏み込みながら、入ってくるよう視線でうながした。陽子と楽俊が扉をくぐると、二人の兵士は軽く頭をさげ、そのまま外に出て行く。岩場の上に休んでいる二頭の虎に駆け寄った。ひょっとしたら馬のようにこれから水と餌をもらって、ブラシでもかけてもらうのかもしれない。   「──どうした? こちらだ」   延は陽子を見る。あわてて延のあとを追うと、中は広い廊下だった。   上にシャンデリアのような灯火があって昼のようにあかるい。楽俊が驚いたように|髭《ひげ》をそよがせて天井を見あげていたから、やはり珍しいものなのだろう。   長くはない廊下を抜けるとちょっとした広間で、そこからトンネルのようなアーチの中を白い石の階段が上へ昇っていた。楽俊がその階段を見あげてしおしおと髭をそよがせる。先に足を駆けた延が降り返った。   「どうした。遠慮ならいらんぞ」   「いえ」   楽俊の顔は少しひきつっている。その気分が陽子にはよくわかった。   「なあ、陽子」   声をひそめて楽俊が言ってくる。   「やっぱりこれを昇るのかな」   「じゃないかな」   答えながら、陽子も少々ウンザリしている。降り立った岩場は山のずいぶんと高いところにあったが、それでもなお頂上までは超高層ビルに匹敵する高さを残している。その距離を昇るのだとしたら、これは大変な苦行かもしれない。   それでも不満のいいようがなく、陽子はだまって階段に足をかける。なんとなく楽俊の手を引いた。段差は低いが階段字体は長い。延の後についてそれを昇り、昇りきったところにある大きな踊り場で九十度方向を変え、もう一度階段を昇ると小さな広間に出た。広間の奥にはみごとな彫刻をほどこした木製の扉がある。   厚い木に|鮮《あざやか》やかな浮き彫りを施したその扉を出たとたん、ゆるやかな風が吹きつけてきた。濃く|潮《しお》の匂いがした。   「……あ」   思わず陽子は声をあげる。扉の前は広いテラス、そうしてそこが、もはや雲の上だった。   どんな不思議かはしらないが、たったあれだけの階段を昇っただけで、すでにあの高さを上昇していたらしい。白い石で床を張り、同じく白い石で手すりを設けたテラスの下に白く雲の波が打ち寄せている。   ──いや、本当に白い波が打ち寄せていて陽子は目を見開いた。   「楽俊、海がある……!」   思わず声をあげて手すりに駆けよった。崖に張り出したテラスの足元に波が高く打ち寄せている。見わたせばここは海の上、潮の匂いがする道理だった。   「あるさ、空の上だもん」   楽俊に言われて陽子はふりかえる。   「空の上に海があるのか?」   「海がなかったら雲海とはいわねえだろ?」   海上には濃く潮の匂いを含んだ風が吹き渡っている。みわたすかぎりの暗い海、テラスの下まで打ち寄せる波。手すりから乗り出すようにしてのぞきこんだ海の底には光が見える。|虚海《きょかい》のようだが、その光がはるか下方にある関弓のあかりだとわかった。   「不思議だ……。どうして水が落ちないんだろう」   「雲海の水が落ちたらみんな困るじゃないか」   くつくつと笑ったのは延だった。   「気にいったのなら、|景《けい》王には露台のある部屋を用意させてもらおう」   「あの……」   なんと呼んでいいのかわからずに陽子はそう声をかけた。   「その景王、っていうの止めていただけませんか」   延は面白そうに片眉をあげた。   「なぜ?」   「なんとなく……。他人ごとみたいで」   言うと延はかるく笑った。なにかを言いかけてふと空を見あげる。視線を追っていくと白く細い光が流れるのが見えた。   「|台輔《たいほ》が戻ったな。──では、陽子」   言って延は背を向ける。露台の左奥に上へ昇る短い石段がある。先をいく男に習って足をかけ、そこで陽子は|呆然《ぼうぜん》と前方を見あげた。   中央に険しい山を配した島のような地形の、月光を受けて白い断崖に無数の建物が配されていた。水墨画に見るような山には奇岩が続き、岩肌には樹木が枝を張り出し、細い滝がいくつも見える。   その山の崖に、あるものは|塔《とう》を形作り、あるものは|楼閣《ろうかく》をなし、それらの建物を縦横に回廊がつないでひとつの建築物を造っている。   まるで山を取りこんだ巨大な城のような、それが|雁《えん》国の中心、延王の居宮である玄英宮だった。   7   建物に入って男女の召し使いらしい人間に取り囲まれた陽子たちは、|延《えん》と引き離されて奥まった部屋に押しこまれてしまった。   「あの……」   「ええと」   狼狽する陽子と楽俊に女官が無感動な顔を向ける。   「こちらで、お召し替えを。今お湯をお持ちします」   どうやら汚い格好で宮内をうろつくなということらしい。困惑しながらもうなずいて、運ばれた|桶《おけ》で体を洗う。楽俊と交互に|衝立《ついたて》の陰で湯を使って次の部屋に行くと、広い部屋の広いテーブルの上に新しい着物が用意されていた。   「これを着るのか……?」   いやな顔をしてつまみあげた華やかな織地の着物を楽俊が検分する。   「こりゃ男物だなぁ。陽子が男だと思ったのか、女だとわかって延王が命じたんならしゃれた方だな」   「楽俊の分もあるみたいだな」   陽子が言うと楽俊は肩を落とす。   「いまさらとも思うけど、貴人に会うのにこのナリじゃ失礼だろうなぁ」   そりゃあ、いわば|裸《はだか》だもんね、と思いながら陽子は着がえを渡す。街道で出合った獣の姿が目に|蘇《よみがえ》る。服を着た獣の数は少なくなかった。楽俊はいやそうだが、想像するとほほえましい。   肩を落とし、|尻尾《しっぽ》を引きずって衝立の影に入った楽俊を見送って陽子も用意されたものに着がえた。|寛《ひろ》い柔らかな薄布のズボン、薄いブラウスと同じく薄い着物、鮮やかな模様を織りこんだ長い上着で一揃いだった。   素材はぜんぶ絹だろう、滑らかな感触が粗末な服になれた肌にはくすぐったい。|刺繍《ししゅう》のある帯を結んだところに扉を開けて老人が姿を現した。   「お召し替えはおすみですか」   「わたしは。……連れは」   もうすこし、と言いかけたところに衝立が動いた。   「だいじようぶだ、すんだ」   答えた声が低い。陽子はぽかんとする。衝立の陰から現れた姿を見てしばらく声が出なかった。   「どうした」   「……楽俊……だよね」   「そうだ」   うなずいてから、彼は破顔する。   「ああ、この格好は初めてか。おいらはまちがいなく楽俊だ」   陽子は頭を抱えた。以前楽俊を抱きしめたとき、|慎《つつしみ》みがないと言われたわけがようやくわかった。   「ここが、常識を越えたところだって忘れてた」   「そのようだな」   彼は笑った。年のころなら二十とすこしの、立派な人間の若者だった。中背でどちらかというと|痩《や》せぎすだが、いかにも健康そうな体つきの男。「正丁」とはそういえば、成年男子の意味だった。   「ただの獣ならしゃべるかい。半獣だといっただろうが」   「……たしかに」   顔から火が出るとはこのことだ。半獣だ、正丁だと何度も言われたにもかかわらず。抱きついただけでなく、宿だって同室だった。はるか昔に寝間着に着がえさせてもらったこともあったような気がする。   「陽子はしっかりしているようで、ウカツだなぁ」   「自分でもそう思う。……どうしていつも人間形でいないわけ」   思わずうらみをこめて言うと、楽俊は朱の着物を着た肩を落とした。   「着飾っているようで、肩が|凝《こ》る。おまけにほんとうに着飾らされた日にゃ……」   ぶつぶつ言う声がほんとうに情けなさそうで、陽子はかるく笑った。   老人に連れられて長い廊下を歩かされて、ようやく陽子たちは広い部屋に案内された。潮の匂いがするのはフランス窓が開いているからだ。海に面したテラスにいた延がふり返った。彼もまた着るものをあらためていたが、陽子たちが着ている|袍《ほう》と大差がない。陽子たちの着物が良すぎるということはないだろうから、延の服装が粗末なのだろう。よほど気取らない性分なのだと思われた。   延は部屋に入ってきながら苦笑する。   「着がえがすんだか。うちの家人は格式張るのが好きでな。うっとうしいがおとなしく言うことをきかないとやかましい。すまないな」   延がくだけすぎているのではないかと思ったが、口調がほほえましかったので陽子は|微笑《わら》うにとどめた。   「楽俊、そんなもの脱いでもかまわんぞ」   そういわれて楽俊である若者はひきつった笑いを浮かべる。   「お気遣いなく。──台輔《たいほ》は」   「もう来るだろう」   言ったところに扉が開いた。扉が開くと風が通って潮の匂いが部屋に満ちる。   「戻ったな」   扉の内側には必ず衝立がある。その影から姿を現したのは金の髪をした十二、三の少年だった。   「どうだった」   「さすがに王宮へまでは登れてねえみたい。……珍しいな、客か」   「俺の客ではない。おまえの客だ」   「オレの? 知らねえ顔だな」   少年は顔をしかめて陽子たちに目を向ける。   「そんで? あんた、何者だ」   「その品のない言葉づかいをあらためよ」   「よけいなお世話って言葉を知ってるか?」   「おまえが後悔するのだぞ」   「へぇ。あんたもついに|嫁《よめ》さんをもらう気になったか」   「冗談ではない」   「……んじゃ、あんたのかーちゃんか?」   「おまえは俺の|妻《つま》か母でなければ礼儀を思い出せんのか」   ためいき混じりに言ってから、延は|呆気《あっけ》にとられている陽子をふり返る。   「礼儀を知らぬ奴で申しわけない。これが|延麒《えんき》だ。|六太《ろくた》、こちらは|景《けい》女王でいらっしゃる」   「げ」   一声言うなりその場を飛び|退《の》いて、少年は陽子を見あげる。がまんがならずに陽子は噴きだした。声をあげて笑ったのは|虚海《きょかい》を渡ってからはじめてのことかもしれない。   「早く言えよ。ったく、根性が悪いな」   「おまえに言われたくはないな。お隣が楽俊殿」   かるく笑ってから延は表情を引きしめる。   「で、|慶《けい》国の様子は」   問われて少年のほうも顔を引きしめた。   「キ|州《しゅう》がさらに落ちたようだな」   紀州、と楽俊が文字を書いてくれた。勝手に|翻訳《ほんやく》がなされるので、筆談はどうしてもやめられない。しゃべるぶんには翻訳に任せて問題がないが、それでは文字を読むことができなくなる。   「これで残ったのは北の|麦州《ばくしゅう》だけだ。|舒栄《じょえい》は相変わらず|征《せい》州にいる。軍は|膨《ふく》らんで、あれじゃ王の軍は太刀打ちできない」 王師、と楽俊は書いた。「王の軍」のことだろう。   「すでに偽王軍が麦州に向かってる。麦候の軍が三千、とうてい対抗できないだろうな。多分時間の問題だ」   言ってテーブルの上に座り、そこにあった木の実をかじる。   「──で、どこで景王を見つけてきた」   延がかいつまんで事情を話す。延麒はだまって耳をかたむけ、渋い顔をした。   「|痴《し》れ者が。|麒麟《きりん》に人を襲わせたな」   「黒幕のほうは放っておいても問題がない。ただ、|景麒《けいき》だけは返してもらわねばならぬ」   延麒がそれにうなずいた。   「急いだほうがいいぜ。景王がこっちにいることを悟られたら殺されかねない」   「あの」   と、陽子は口をはさんだ。   「わたしにはよく理解できません」   延はただ片眉をあげてみせた。   「わたしはなにひとつわからないまま、こちらへ連れてこられました。延王がわたしを景王だというのならそうなんだろうし、どこかの王がわたしを狙っているのだと言うのなら、そうなんでしょう。ただ、わたしは景王になんかなりたいとは思いません。景王だと認めてほしくて連絡をとったわけじゃないんです。妖魔に追われるのがいやで、|倭《わ》に帰る方法を知りたくて延王に助力をお願いしたかっただけなんです」   延と延麒は顔を見合わせた。すこしのあいだ、沈黙が降りる。口を開いたのは延だった。   「陽子、かけなさい」   「わたしは」   「|座《すわ》りなさい。そなたには長い話を聞いてもらわなくてはならない」   8   なにから話したらよいのか、と言って|延《えん》はしばらくあらぬほうを眺めた。   「人がいて、国がある。国をたばねるものが必要になる。そうだな?」   「はい」   「こちらでは王をおく。国主は|政《まつりごと》を行う。政を行うのは国主だから、その施政が必ずしも民の望みにかなっているとは限らない。むしろ権は人を|奢《おご》らせる。往々にして国主とは民を|虐《しいた》げる者だ。国主ばかりが悪いとは言わん。国主は権をにぎったときから民ではない。民の気持ちはわからなくなる」   「延王は希代の名君だと聞きました」   延は苦笑した。   「そんなことが言いたいのではない。|急《せ》くな。──国主は民を虐げる。では、民はどうすれば救われるのか?」   「そのひとつの形がミンシュシュギとかいうやつだろう」   言ったのは|延麒《えんき》だった。   「民が自分たちのつごうで王を選び、つごうに合わなくなればやめさせる」   「そうですね」   延が再び語る。   「ここではもっとべつの方法が行われている。国主が民を虐げると言うのなら、民を虐げないものを国主にすえればよい。そこであるのが|麒麟《きりん》だ」   「麒麟が民を代弁して王を選ぶ……?」   「そう考えても誤りではない。ここには|天意《てんい》というものがある。天帝がいずこかにかおわし、地を造り国を造り世の|理《ことわり》を定めたという。麒麟は天意によって王を選ぶ。天命の下った、それが王だ」   「天命……」   「王は国を守り、|百姓《ひゃくせい》を救って|安寧《あんねい》をもたらすべきだという。それを可能にするものを麒麟が選ぶ。選ばれたそれが|玉座《ぎょくざ》につく。天が麒麟を介して名君を玉座にすえるというわけだ。俺を名君などと呼ぶ|輩《やから》もいるが、それは嘘だ。王はすべて名君たる資質を持っている」   陽子には相づちの打ちようがなかった。それでだまっている。   「しかしながら、|倭《わ》にも|漢《かん》にも名君などというものはいくらでもいた。それでも総じて国が安らがなかったのはなぜだと思う?」   陽子はすこし首をかたむける。   「名君と言われた人でも、なにかのはずみで道を踏み外すことがあります。たとえそれがなくても、どんな名君でもいつかは死ぬ。死んだあとを継ぐものが名君だとは限らない。──だからじゃないでしょうか」   「そのとおりだ。では、名君が死なぬよう、これを神にすえればいい。そうすれば問題の半分が解決する。たとえ死んでも、子に玉座を継がせず、必ず麒麟に選ばせれば良い。道を踏み外すことがないよう監視すればいい。──ちがうか」   「それは……そうですが」   何に対してか、延はひとつうなずく。   「俺は今、この|雁《えん》州国を任されている。俺を王に選んだのは延麒だ。誰がどのように望もうと、どれほど努力しようと、麒麟に選ばれなければ王にはなれん。麒麟は王を直感で選ぶ。男が女を選ぶのに似ている。あるいは、女が男を選ぶのにな。俺は|胎果《たいか》だ。こちらで育った人間ではない。そんな俺やおまえのように王のなんたるかを知らずとも、麒麟に選ばれればそれが王だ。天命は下った。これを変えることはできん」   「わたしも……? 帰るわけにはいかないんですか?」   「帰りたくば、帰るがいい。それでもおまえは|慶《けい》東国の王だ。それだけは否定することはできぬ」   陽子はただうつむいた。   「麒麟は自らが選んだ王と盟約を交わす。決してそばを離れず、命に背かぬという誓約だ。王が玉座についたあとは、王のそばに控えて|宰相《さいしょう》を努める」   「延麒も? 宰相なの?」   陽子がテーブルの上に|胡座《あぐら》をかいている延麒を見ると、延はかすかに笑った。   「こう見えてもな。しかも延麒を見たあとでは得心がいかぬだろうが、麒麟は本来慈悲の生き物だ。麒麟は正義と慈悲とでできている」   延麒は顔をしかめた。それに主人は苦笑して、   「|台輔《たいほ》の進言することは、正義と慈悲の言葉ばかりだ。だが、正義と慈悲だけで国は治まらん。延麒が止せというのを無視して無慈悲なまねをすることもある。国の正義のためには止むをえぬ。延麒の言うままになっていては国が滅ぶからな」   「……そう……でしょうか」   「例えばここに罪人がいる。金目当てに|殺生《せっしょう》をした罪人だ。罪人には|飢《え》えた妻子がいたとする。すると延麒は助けろと言う。だが、罪人を見逃しては国が成りたたん。哀れには思うが罪人は断罪せねばならん」   「……はい」   「もし俺が仮に罪人を殺すよう延麒に命じたとする。延麒はそれをできぬ生き物だが、結局奴は文句を言いながらも罪人を殺してくるだろう。麒麟は王の言葉には絶対に服従する。絶対に、だ。麒麟は王の言葉に逆らうことができぬ。たとえ死ねという命令でも、真実命じれば逆らわぬ」   「じゃ、選ぶたけ選んでもらって、選ばれたあとは勝手にやってもいいんですか?」   「難しいのはそこだな。正義と慈悲は天の意志だ。天は正義と慈悲によって国を治めてもらいたいと思っている。それを代弁するのが麒麟だろう。だが、正義と慈悲だけでは国は治まらぬ。不正だ、無慈悲だと思いながらもやらねばならぬことがある。ただ、正義と慈悲だけでは国は治まらぬ。不正だ、無慈悲だと思いながらもやらねばならぬことがある。ただ、それが度を越すと天命を失う」   陽子はただ延を見る。   「国のために無慈悲なまねもするが、無慈悲が過ぎると王の資格を失う。しょせん王は天から玉座を借り受けているに過ぎん。王が道を見誤り、天命を失うと麒麟が病む。この病を『|失道《しつどう》』という」   延が宙に書いた文字を陽子は目のなかに取りこんだ。   「王が道を失ったために麒麟がかかる病だ。王が性根を入れ替えればよし、さもなくば麒麟の病は治らぬ。だが、問題が性根ではな、入れかえようと思うて入れ替えられるものでもない。麒麟が『失道』にかかって、王が治してやった例は少ない」   「治らないとどうなる……?」   「そのままでいれば死ぬな。そうして、麒麟が死ねば王も死ぬ」   「……死ぬ」   「人の命は短いな。王が死にもせず、年老いることもないのは、神籍に入ってているからだ。王は神だ。だから死なぬ。王を神にしたのは麒麟だ。だから、麒麟が死ねば王も死ぬ」   陽子はうなずく。   「麒麟を治す方法が、性根を入れ換えることのほかにもうひとつある」   「それは?」   「それは、麒麟を手放してやることだ。最も簡単なやり方は王自らが死んでやればよい。王が死んでも麒麟は死なぬ」   「すると、麒麟は助かる?」   「助かるな。……景麒がそれだ」   言って延はかるく息をつく。   「慶国の先王は|予王《よおう》という女王だ。王といえども本性は人、資質はともかく決して道を誤らぬわけではない。予王は景麒に恋着した。景麒のそばに女を寄せぬ。女房を気取って|悋気《りんき》見せる。果ては度を越して、城から女を追放し、国から女を追放しようとした。景麒がかばうのでさらに度を越す。国に残った女を殺そうとして景麒が病んだ」   「それで……?」   「女王が道を失ったのは景麒恋しさの故だ。景麒を死なせて|嬉《うれ》しいはずがなかろう。少なくともそれほど度は失ってなかったということだな。予王は|蓬山《ほうざん》に登った。登って退位を申し出た。天はこれを許し、景麒は予王から解放された。そういうことだ」   「その人は……?」   「王になるということは死んで神に生まれなおすということだ。王でなくば生き続けることができぬ」   それで、慶国の先王はそのことによって死んだのだ。   「おまえはすでに景麒によって王に選ばれた。玉座に|就《つ》くには蓬山に登って|天勅《てんちょく》をいただかねばならんが、契約を交わしてある以上、玉座に就いたと大差がない。天命は下った。おまえが景王だ。これだけはどうあっても変えることができぬ。……わかるか」   陽子はうなずいた。   「王には国を治める義務がある。おまえが国を見捨てて|倭《わ》帰るは勝手だが、王を失った国は荒れる。国が荒れればまちがいなく天はおまえを見捨てるだろう」   「すると、景気が失道にかかる。そうしてわたしは死ぬわけですね」   「おそらくな。ただ、きれいごとを言えばそれだけではない。問題は慶国の民なのだ。王は統治するだけではない。災異を|鎮《しず》め、妖魔を鎮める役目を担っているのだからな。妖魔が出没する。嵐がおこり、日照り、水が荒れる。疫病が|流行《はや》り、人心は惑う。国土は荒廃して民は|苦吟《くぎん》[#入力者注:苦吟って詩歌ができずに悩むことだと思うのだが]をなめることになるだろう」   「国が滅ぶ……?」   「そうだ。景気はなかなか予王を見つけられず、長く空位の時代があった。そのあいだに国土は荒れ人民は|疲弊《ひへい》している。やっと王を見つけて玉座にすえたが、これの治世は六年しか続かなかった。しかも末の何年かは失道で国の安寧を失っている。そこでまたこの騒ぎだ。|雁《えん》国や|巧《こう》国に近いものは国を捨てて逃げてきたが、慶国には未だ大多数の民が残っている。こうしているあいだにも妖魔と災異によって苦しんでいるだろう。救う方法はひとつしかない」   「一刻も早く正当な王が玉座に就くこと……?」   「そのとおりだ」   陽子は首をふった。   「とてもむりです」   「なぜだ? おまえはまさしく|王気《おうき》を備えていると思う」   「まさか……」   「おまえはおまえ自身の王であり、己自身であることの責任を知っている。それがわからぬ者に王者の責任を|説《と》いたところで|虚《むな》しいだけだし、自らを統治できないものに国土を統治できようはずもない」   「わたしは……だめです」   「しかし」   「|尚隆《しょうりゅう》」   と延麒が|咎《とが》める声を出した。   「むり|強《し》いするな。景王が慶国をどうするか、それは王の勝手だ。行ったことの責任を取る覚悟さえあれば、好きにしていいんだ」   雁はためいきをついた。   「そのとおりだ。──だが、これだけは景王にお願いする。慶国の民を可能な限り救おうと心がけてはきたが、雁の国庫も無尽蔵ではない。王の国を救っていただきたい」   「……考えさせてください」   陽子はうつむいた。今はとうてい顔をあげていることができなかった。   「失礼ですが」   口をはさんだのは楽俊だった。   「陽子を狙っている王が誰だか、それはおわかりなんですか」   延は延麒を見、延麒は視線をそらした。   「……誰だと思う?」   「なんとなく……。おいらは|塙《こう》王じゃねえかという気がしています」   陽子は楽俊を見た。難しい顔をした若者は一拍おかないと気のいいネズミにむすびつかない。   「どうして?」   「確証があるわけじゃないけどな。陽子は山を走りまわってボロボロになってたろう。襲ってきた妖魔がぜんぶ麒麟の使令だとは思えねえ。かといって山に住む妖魔があんなにいてたまるもんかい。半分を使令だと考えても多すぎる。おいらには巧国がかたむいている気がしてならねえんだ」   楽俊が言うと、延がうなずく。   「だろう。実は巧国から延へ逃げこんだ|海客《かいきゃく》を渡すように塙王から強い要請があった。巧国はああいう国だから、逃げだしてきた海客が過去にもいなかったわけではない。だが、こんなことははじめてだ。これはおかしいと延麒に調べさせると、どうやら|舒栄《じょえい》に金を運んでいるのは巧国の誰か、しかも巧国は荒れている|様子《ようす》。これはいよいよ塙王が怪しいと目算をつけたところに、昨日|塙麟《こうりん》失道の報が入った」   「塙麟、失道」   楽俊はつぶやく。若い|闊達《かったつ》な顔に苦いものがよぎった。   「……では、巧国は終わりだ……」   「なんとかすることはできないんですか」   陽子が言うと三人は暗い顔をした。   「塙王に知人として忠告することは簡単だが、当の塙王が面会に応じない。たとえ会えても塙王が己の非を自覚しなければどうしようもできぬ。唯一方法があるとすれば、正当な景王が天命を受けて|空《から》の玉座を埋めることだ。なにを思って塙王が慶国に干渉をはじめたかはわからぬが、|傀儡《かいらい》の王を立て、慶国を|牛耳《きゅうじ》ることが目的ならばそれで野望ついえておろかなまねを止めるやもしれん」   言外の言葉を載せた視線を向けられて陽子はうつむいた。   「……時間をください」   八章   1   陽子が与えられたのは、天井の高い|豪奢《ごうしゃ》な部屋だった。内装はもちろんのこと、家具からテーブルの上に揃えられた水差しやグラスに至るまで、|贅《ぜい》を|凝《こ》らした|風情《ふぜい》がある。部屋は広く、ガラスの入った窓は大きい。花が生けられ、香が|焚《た》かれて、|巧《こう》国の辺境に住む農夫なら目を回しそうだ。   貧しい旅に|馴《な》れた陽子も同様で、どうにも落ちつかない。部屋に下がってひとりになって、すこし考えごとをしてみたかったが、錦張りのふかふかした|椅子《いす》は|座《すわ》りづらいし、|漆《うるし》に|螺鈿《らでん》をほどこしたテーブルは、|触《さわ》ればくっきり指紋がついて|頬杖《ほおづえ》をつくのも|憚《はばか》られる。   部屋を見回すと一方に四畳半ほどの小部屋が見えた。そこなら落ちつけるだろうかと近陽子はかるくためいきを落とした。   間仕切りの、|繊細《せんさい》な|透《す》かし|彫《ぼ》りの入った細い扉は折りたたまれている。中は一歩入ったところが高くなって、そこには絹のカーテンが下がっている。そのカーテンも半分が開けてあって、台の上には|錦《にしき》の布団が敷かれているのが見てとれる。四畳半ほどもあるこの大きな台が寝台だというのなら、これは悪い冗談だとしか思えない。ここで横になっても、ものを考えることはできそうになかったし、ましてや眠れるとも思えなかった。   所在なくて陽子は大きな窓を開ける。フランス窓は床から天井までの高さがある。医科学模様の|桟《さん》に色ガラスを入れた窓の外は広い露台だった。   |延《えん》は予告どおり、陽子に雲海に張り出したテラスに面した部屋を与えたのだ。   窓を開けると潮の匂いが通った。香の匂いよりもよほどいい。陽子は外に踏み出した。白い石を敷かれたテラスは建物の周囲をめぐって、ちょっとした庭ほども広さがある。   陽子はテラスを歩き、|手摺《てす》りにもたれてぼんやりと雲海を見た。月は大きく傾いて天上の海に沈もうとしている。   じっと足元の岩場に波が打ち寄せるのを見ていると、背後でほたほたと足音がした。ふり返ると灰茶の毛並みをした生き物がやってくるところだった。   「散歩?」   声をかけると、楽俊は苦笑する。   「まあな。──寝られねえか?」   「うん。楽俊も?」   「あんな部屋で寝られるかい。宿屋に残ってりゃよかったと、ほとほと後悔してる」   「同感」   陽子が言うと、ネズミは声をあげて笑った。   「おめえがそんなことを言ってどうする。陽子にもこんな王宮があるんだぞ」   楽俊に言われて陽子の顔から笑みが引いた。   「……やっぱり、あるんだろうね」   楽俊は横にきて並ぶ。陽子と同じように海を見おろした。   「|慶《けい》国の王宮は|瑛《えい》州、|堯天《ぎょうてん》にある。|金波宮《きんぱきゅう》っていうな」   あまり興味を誘われなかったので、陽子は気のない相づちを打った。楽俊はちょっとのあいだ、黙りこむ。   「──なぁ、陽子」   「うん……」   「|景麒《けいき》は|舒栄《じょえい》とかいう偽王に捕まっているだろう」   「らしいね」   「もしも|塙《こう》王が絶対に陽子を|玉座《ぎょくざ》につけまいと思ったら、ひとつ有効な方法がある」   「景麒を殺すこと、だね」   「そうだ。景麒が死ねばおまえも死ぬ。|蓬山《ほうざん》に登って|天勅《てんちょく》を受けたわけではねえから、実際にどうなるかはわからねえが、どっちかというとそうなりそうだな」   陽子はうなずいた。   「そう思う。景麒と契約を交わしてしまったせいで、わたしは人ではなくなったんだから。|怪我《けが》をしにくくなったのもそのせいだろうし、言葉がわかったのも、剣が使えたのも、そもそも|虚海《きょかい》をいっしょに渡れたのも、ぜんぶそのせいなんだろう」   「たぶんな。景麒は敵の手の中だ。身を守るためには──」   「聞きたくない」   陽子は|遮《さえぎ》る。   「陽子」   「ちがう。|駄々《だだ》をこねてるんじゃない。王がどういうものか、|麒麟《きりん》がどういうものか、よくわかった。だから、自分の命を守るためだとか、そんなことで決断をしたくない」   「でもな」   「|自棄《やけ》で言ってると思ってほしくないんだけど」   陽子は|微笑《わら》う。   「わたしはこちらに来て、いつ死んでもおかしくない状況だったんだ。なんとか生きてこられたけど、それは運が良かったんだと思う。こちらに来たときになかったも同然の命だから、そんなに|惜《お》しい気がしない。すくなくとも、そういう惜しみかたをしたくない」   楽俊はきゅうぅ、と|喉《のど》を鳴らした。   「だから命を惜しんで軽はずみな選択をしたくない。みんながわたしに期待してるのはわかってる。でもここでみんなの都合に負けて自分の生き方を決めたら、わたしはその責任を負えない。だから、ちゃんと考えたい。そう、思ってる」   楽俊の真っ黒な目が見あげてきた。   「おいらには、どうして陽子がそんなに迷うのかよくわからない」   「わたしにはできない」   「なんでだ?」   「わたしは、自分がどれだけ|醜《みにく》い人間か知ってる。王の|器《うつわ》じゃない。そんなたいそうな人間じゃない」   「そんなことは」   「楽俊が半獣だというなら、わたしも半獣だ。一見して人間のようだけれど、内実は獣でしかない」   「陽子……」   陽子は露台の手摺をにぎる。|華奢《きゃしゃ》な石の感触がいかにも繊細で美しい。眼下には透明な水、それを透かして見る|関弓《かんきゅう》のあかりは夜光虫のようだ。波がゆるやかに打ち寄せて穏やかな音を立てていた。みごとに美しい景観だが、自分がそれにそぐわない。堯天という街にあるという金波宮も同じように美しい城だろう。そこにいる自分を思うと|気後《きおく》れよりもおぞましさを感じた。   そう言うと楽俊はためいきをつく。   「王は麒麟に選ばれるまではただの人だ」   「わたしは麒麟に選ばれても、そんな人間でしかいられなかった。盗もうとした、|脅《おど》そうとした、実際に生きるために人を脅した。人を疑った、命を惜しんで楽俊を見捨てた、殺そうとした」   「延王はおまえにならできると言ったろう」   「延王はわたしがどれだけ浅ましく生きてきたか知らない」   「おまえならできる。|止《とど》めを刺されそうになったおいらが言うんだからまちがいねえ」   陽子は楽俊を見おろした。陽子の|鳩尾《みぞおち》のあたりまでしか背丈のないネズミは、手摺のあいだから顔を出してじっと空の上にある海を見つめている。   「わたしには、できない……」   雲海を見ながらつぶやいた声に返答はない。小さな手が陽子の腕をかるく|叩《たた》いて、それにふりかえるとすでに灰茶の毛並みは背中を向けていた。   「楽俊」   「おいらでも迷うだろうから、迷うのが悪いとは言わねえ。よく、考えな」   ネズミは背中を向けて遠ざかりながら手をあげた。そのままふりかえりもしない影を陽子は見守る。   「……楽俊だって、ぜんぶを知ってるわけじゃない……」   低くつぶやいたときだった。   ──わたしは知っている。   それは陽子の独白ではなかった。|弾《はじ》かれたように顔をあげて周囲を見渡したが、耳が聞いた声でもない。   ──あなたはずっとひとりではなかった。わたしはぜんぶを知っています。   「……ジョウユウ……?」   ──玉座を望みなさい。あなたになら、できるでしょう。   陽子には返答ができない。離しかけられたことに驚いたせいでもあるし、話しかけられた内容のせいでもある。   ──あえて主命に背きました。お許しを。   主命、という言葉にいつか景麒が言った「ないものとしてふるまえ」という言葉を思い出した。それで今日まで一度も会話に応じてくれなかったのか。   ──ばけものと呼び、取ってくれと駄々をこねた。そのせいなのだから、これは陽子の|咎《とが》だ。   「わたしは、ほんとうにおろかだ……」   つぶやいた声にはもう返答がなかった。   2   翌日、女官に起こされて朝食の席に行った陽子は、問うような視線に首を横にふって答えた。今日はネズミのままの楽俊は、ただうつむいて|髭《ひげ》をそよがせる。|延《えん》も|延麒《えんき》もわずかに落胆した表情を見せた。   「おまえの国と民のことだ。好きにすればいいが……」   延は苦笑混じりに言う。   「何にしても|景麒《けいき》だけは迎えに行かせてもらいたい。王が|玉座《ぎょくざ》を捨てると言うならなおのことだ。せめて|宰輔《さいほ》だけでも、国のために残してやってほしい。──どうだ?」   延の言葉に陽子はうなずく。   「まだ、結論を出したわけじゃないし、景気を取り戻すことには異存ありません。──でも、どうやって?」   「力でもぎとるしかないだろう。景麒は|征《せい》州にいるらしい。偽王軍の真ん中だからな」   「景気を取り戻すことができれば、わたしは帰れますか? これはたんなる疑問ですけど」   延はうなずく。   「|麒麟《きりん》は|蝕《しょく》をおこすことができる。おまえは|虚海《きょかい》を渡れる身体になったのだから、造作はない。もしもおまえが是が非でも帰りたいのなら、景麒が否と言っても延麒に送らせると約束しよう」   フェアな人物だ、と陽子は思う。王にならないのなら帰さないと脅迫することもできるのに。   「オレはやだからな。そのときはちゃんと景麒を説得してくれよ」   延麒が声をあげて、延は少年をねめつけた。   「|六太《ろくた》」   「知らないようだから、知っておいてもらいたい。蝕が起これば災害になる。麒麟だけならちょっと風が吹く程度だけど、王がいっしょだとなると大災害になる。あちらにだって被害は出るんだからな」   「|倭《わ》にも?」   「そう。あっちとこっちは、本来混ざってはいけないもんだからな。あんたがこっちにきたときの蝕で|巧《こう》国にずいぶん被害があったらしいが、王が虚海を渡ったにしちゃ、たいしたことがなかったうちだ。今度はそうはいかないだろう。オレはそういうことに手を貸すのはいやだからな」   「もしも帰ることになっても、延期には迷惑をかけないようにする」   「くれぐれも、よろしく」   苦笑気味にうなずくと、今度は延が堅い声を出した。   「だが、陽子。あちらに帰ったからといって安全になるわけではない」   「──わかっています」   塙王があきらめない限り、あちらにも妖魔はやってくるだろう。帰るときには災害を起こし、戻れば妖魔の襲撃で巻き添えを食う人間がきっといる。陽子は疫病神だ。こちらにとつてもあちらにとっても、陽子の帰国は迷惑な話だが、それをわかっても、決心はつかない。   「わたしがあちらに帰る前に、塙王を|討《う》っておくというのは?」   「それはできん。少なくとも俺は協力しない」   「できないんですか?」   延はうなずく。   「これだけは覚えておけ。王には決して犯してはならぬ罪が三つある。ひとつは、天命に逆らって仁道に|悖《もと》ること、いまひとつは天命を|容《い》れずに自ら死を選ぶこと。そうして最後のひとつが、たとえ内乱を収める為であろうと、他国に侵入すること」   陽子はうなずき、   「でも、あなたたちは? 慶国に景麒を奪取に行くのは?」   「|景《けい》女王が先頭に立つのであれば、親征だな。我らは景王の請願に従って助力をするだけ」   「なるほど」   延は太い笑みを浮かべた。   「景麒奪取のためにわが|雁《えん》国の王師をお貸ししてもいいが、いかがなされる」   陽子は苦笑して頭を下げた。   「よろしくお願いします。──失望させるようなことばかり言って申しわけありません」   延期は顔をしかめて笑った。   「|尚隆《しょうりゅう》は胎果の王が増えてほしいんだ。気にしてやることはない。何しろ、今までひとりだったからな」   「今現在、ひとり?」   「今現在、ひとりだな。過去に何人かいたようだけど、そんなに数は多くない」   「延麒も|胎果《たいか》なんでしょう?」   「そう。オレと尚隆と|泰麒《たいき》と。陽子で四人目だな」   「泰麒、ということは|戴《たい》国の麒麟?」   「そう。戴極国の|雛《ひな》さ」   「雛、って」   「成獣じゃなかった」   「延麒は?」   「オレは成獣だよ。麒麟は成獣すると外見の成長が止まる」   「と、いうことは、延期のほうが景麒よりも早く成長したんだ」   「そおゆうこと」   なんだか得意そうに言うのがおかしかった。延はただ苦笑している。   「泰麒は成獣じゃなかった?」   「そう」   「過去形?」   陽子が聞くと、延麒は難しい顔をして延と顔を見合わせる。   「──泰麒は死んだ。少なくとも死んだと伝えられてる。いま戴国は騒乱の渦中だ。泰麒も泰王も行方が知れない」   陽子はためいきをついた。   「たいへんなんだね、こちらも」   「人がいるとややこしい。そういうものさ。──名を|高里《たかさと》……なんといったかな。歳のころならあんたと同じぐらいだろう」   「男の子?」   「麒というのは|雄《おす》のことだな。きれいな黒麒麟だった」   「黒麒麟?」   「麒麟を見たことがあるか?」   「人の形なら」   「毛並みは|雌黄《しおう》、背が五色、|鬣《たてがみ》は金が普通だな」   「延麒の髪みたいに?」   「そう。どうやらこれは髪じゃない。鬣だ」   そうだったのか、と陽子は思う。   「泰麒は黒だ。磨きあげた|鋼《はがね》の色をしてた。毛並みは|漆黒《しっこく》、背が銀……というのか、すこし変わった感じの五色だな」   「珍しい?」   「珍しいな。歴史の中でも黒麒麟はめったいにいない。赤麒麟というのも、白麒麟というのもいるらしいが、オレはお目にかかったことがない」   「へぇ……」   「泰麒が死んだのだったら、泰王も生きてないはずだ。だったら|蓬山《ほうざん》に|泰果《たいか》──泰麒の果実──が実っていいはずだが、その|様子がないんだな」   「泰果?」   「麒麟のなる樹は蓬山にある。麒麟が死ぬと、同時に次の麒麟が入った卵果がなる。泰麒が死ねば、次の泰麒だな。|雌《めす》なら|泰麟《たいりん》。これを号を冠して泰果という。──しかし、まだ蓬山に泰果がない。ということは、生きているはずなんだが」   「麒麟に親はいないの?」   「いない。胎果ならともかく、だから麒麟には名前がない。号だけだ」   「景麒も?」   延麒はうなずく。それはなんだか悲しいことに思えた。陽子の思考を読んだように、延麒はわざとらしい渋面を作ってみせた。   「麒麟てのは哀れな生き物さ。王のために生まれてきて、親もなければ兄弟もない。名前さえなくて、王を選べばこき使われる。そのあげく、死ぬときは王のせいだからな。そのはてに、墓もない、と」   延麒がちらと延に視線を向けると、彼の主人はそっぽを向いた。延麒は顔をしかめてためいきをつく。   「お墓がない?」   陽子が問い返すと、延麒はしまったというように視線をそらした。   「墓を作ってもらえない?」   延が苦笑して答えた。   「墓がないわけではない。王といっしょに合葬されるな。ただし死体はない」   「……どうして」   不可思議な生き物だから、死体を残さないのだろうか。   「よせって」   「隠すことでもないだろう。──麒麟は妖魔を|僕《しもべ》としてつかう。妖魔に契約を持ちかけるのだな。契約を交わした妖魔は麒麟に服従して使役される。そのかわりに麒麟が死んだあとは、その死体を喰っていい」   陽子は目をあげて延を見、それから延麒を見た。延麒が肩をすくめる。   「そういうこと。うまいそうだぞ、麒麟は。まぁ、死んだ後だからどうでもいいけどさ。……哀れに思うなら、景麒を大事にしてやれ。奴を失望させないでくれ」   陽子には答えられなかった。かわりにふと、   「|塙《こう》王は|塙麟《こうりん》を失望させることが怖くなかったんだろうか……」   さてな、と延は苦笑した。   「塙王がなにを考えているのかはわからん」   延麒もまた肩をすくめた。   「他国に干渉すれば天命を失うことになるのは確実だろうな。それがわかっていても、塙王はバカをやらずにはおれなかった。それほどの理由があったんだろうな」   「そうかな」   「バカをやって、それが自分の損になるだけだとわかってても、人はあえて罪に踏みこむことがある。人はおろかだ。苦しければなおおろかになるってことだな」   陽子はふと胸を|衝《つ》かれ、それでただうなずいた。   「……怖いな」   「怖いか?」   「うん。わたしにはとうていできないという気がする」   延がかすかに笑った。   「麒麟は王に|背《そむ》かぬ。だからといって、なにを申しつけてもいやな顔ひとつせぬというわけではない。自分がおろかな人間だということを忘れぬことだ。そうすればおまえの半身が助けてくれる」   「……半身?」   「おまえの麒麟がな」   陽子はただうなずき、それから自分の右隣の席を見た。   そこには一ふりの剣がおかれている。   ──|水禺刀《すいぐうとう》は過去未来、千里のかなたのことでも映し出す。   延はそういわなかったか。だとしたら水禺刀を支配できれば、塙王がなにを考えたのか知ることができるのではないだろうか?   3   国には二軍ある。ひとつは|州侯《しゅうこう》に|委《ゆだ》ねられ、各地に配置されている州侯師、もうひとつが王が直接掌握する|王師《おうし》。   |慶《けい》国|征《せい》州の州都である|維竜《いりゅう》まで騎兵が到着するのにひと月がかかる。|景麒《けいき》救命を考えるとひと月では|心許《こころもと》ない。それで、特に天馬その他を使って宙を駆けることができるものをかき集めて百二十騎の精鋭部隊を作り、これで維竜を急襲することになった。   |延《えん》も|延麒《えんき》も、その準備に出ていったきり昼食にも夕食にも戻ってこない。   陽子は所在なげな楽俊を残して部屋に戻った。剣をテーブルにおいてその前に|座《すわ》る。   陽子は剣の主人だ。理屈としてはできるはずだが、王であることに迷いがある。難しいとは思うが、迷っているからなおのことやってみる価値はあるように思えた。   意識的に幻を引き出す方法はわからない。きっと難しいことではないと思う。   陽子はこちらに来る前、長いあいだ水の音のする夢を見たが、その話を延にしたらそれはこの剣の見せた幻にちがいないと言われた。おそらく剣は敵襲のあることを予見して、主人である陽子に警告を発していたのだろうと。   しかしながらあのときの陽子は、まだケイキに会っていなかったし契約も交わしてはいなかった。それでも剣は陽子を主人だと知っていたのだ。   ──天命が先か、選定が先か。   陽子は延にそう聞いた。   陽子は天命を|担《にな》って生まれてきたのだろうか。それとも、景麒が選んだから王座を背負うはめになったのだろうか。   わからない、といったのは延期自身だった。   「おれにも、どうしてこんな奴を選んだのか、さっぱり理由がわからない。ただ、なんとなく、こいつだろうなと思ったんだ」   王を選ぶことは、|麒麟《きりん》の本能なのだろうと延麒は言う。   いずれにしても、陽子にとって剣と意志を通じることはそんなに難しいことではないはずだと思う。   陽子はあかりを消した部屋の中で剣を抜き、刀身を見つめる。   ──|塙《こう》王を。   剣はこれまでずっと故国の幻ばかりを見せつづけてきたが、それは陽子が帰ることだけを考えていたからなのではないかと、そういう気がする。   ──塙王の真意が知りたい。   まだ決心がつかないから、おろかな王のことを知っておきたい。   刀身が淡く燐光を浮かべはじめた。光のなかに薄い陰が浮かぶ。水の|滴《したた》る音が聞こえはじめた。じっと影を見つめて、それが形をなすのを待つ。   白い壁が見えた。ガラスの入った窓と、そこから見えている庭。その庭には見覚えがある。陽子の家の庭だった。   ──ちがう。これじゃない。   強く念じると幻が消える。目の前に光を失った刀身が見えて、陽子は失敗したのを知った。   「一度でできるはずがない」   声に出して言い聞かせて、もう一度刀身を見つめる。一夜に何度も幻を見たことはなかったが、思いのほか簡単に刀身が再び光を浮かべはじめた。   だがしかし、次に見えたのもやはり陽子の家の庭で、軽い落胆を抑えきれない。意識を幻から話さないように注意して、これではないと念じると水面を乱したように幻が揺らいだ。   ついで見えたのは陽子の部屋だった。   ──ちがう。   その次は学校。   ──ちがう。   何度試しても見えるのはあちらの世界ばかりだった。家を、学校を、友達の家の風景まで見せておきながら、剣はこちらの世界を映さない。   まるで|鞘《さや》のようだ、と陽子は思った。鞘の|蒼猿《あおざる》のように|御《ぎょ》しがたい。   同時にこれは故国へのこだわりを捨てきれない陽子のせいだ。それをわかっているから、あきらめない。   |辛抱《しんぼう》強くくりかえして、陽子はやっと幻のなかにこちらの街を見つけた。   やった、と喜ぶ間もなくそれがどこかの街の門前で、そこにたくさんの人間が倒れているのがわかる。   門へ向かった街道は血を吸ってぬかるんでいる。倒れた人々と、苦しげな|呻《うめ》き声、そのなかに立って暗い目つきをしている少年。   ──いや、陽子自身。   「……よせ!」   あわてて幻を切り放した。   あれは|午寮《ごりょう》だ。あそこで陽子は楽俊を見捨てた。   自分のことながら|愕然《がくぜん》とした。あんなに陰惨な顔をしていたのか。   陽子は剣を放り出す。まるで剣を恐れたような自分の仕草に気がついて|自嘲《じちょう》の笑みが漏れた。   ──ほんとうのことじゃないか。   蒼猿が生きてたら、きっとそう言うだろう。   それはまったくの事実だ。目をそらす資格はない。むしろちゃんと直視しなければいけない。おろかな自分から目をそらしたら、きっとどこまでもおろかになる。   あらためて|柄《つか》をにぎった。息を整えて刀身をのぞきこむ。すぐに目の前に午寮の門前が見えた。   幻のなかの陽子はほんとうに暗い眼をしていた。|荒《すさ》んだ色が一目でわかる。陽子はその目で楽俊を見ている。   (戻って|止《とど》めを刺すべきか迷った……)   午寮の街から人が駆け出してきて、幻のなかの陽子はあわてたようにその場を逃げた。逃げだした後ろ姿が揺らいで、今度は山道が現れる。陽子はじっと自分が親切な母子に背を向けるのを見ていた。   |達姐《たっき》がいて、|海客《かいきゃく》の老人がいた。陽子を護送しようとして命を落とした男たちの家族が泣くのも見えた。海客のせいで、とうらむ声を陽子はじっと聞いていた。   |河西《かさい》の街の妖魔に襲われたあとの惨状が映った。午寮の街で、広場に寝かされた死体の列を見た。どこかの街の外壁の下でうずくまる|慶《けい》国の難民たちの姿も見える。   陽子はそれらの幻をただ見つめた。見つめながら、幻を拒絶すればかえって暴れるのだと悟った。ただ受け入れて見つめていれば、幻は陽子の見たいものに近づいていく。   王宮が見えた。そこには|痩《や》せこけた女がいる。   「|堯天《ぎょうてん》に女はいらないのです」   「ですが」   異論を|唱《とな》えようとしたのは景麒で、その女が死んだ先帝|予王《よおう》だろうと想像がついた。   「勅命に|背《そむ》いて残ったのは罪人、罪人を裁くのに|躊躇《ちゅうちょ》する必要があるのですか?」   言い放った予王の|双眸《そうぼう》だけが生気を宿していた。肌は死人のよう、|痩《こ》けた頬にも筋の浮き出た首筋にも病的な|風情《ふぜい》を隠せない。彼女の|苦吟《くぎん》が見えた気がする。あんなに痩せてしまうほど彼女は苦しかった。苦しくて苦しくて、おろかなこととわかっていながら罪を犯さざるを得なかったのだ。   荒廃した慶国が見えた。|巧《こう》国も貧しかったが、慶国の貧しさは巧国よりさらにひどい。妖魔に襲われる里が見え、戦乱に焼ける|廬《ろ》が見える。|蝗《いなご》や|鼠《ねずみ》に襲われて荒地になった田、|氾濫《はんらん》した川から押し寄せた水で沈んだ田には死体が幾つも浮いている。   ──王を失っただけで、こんなに国が荒れるのか。   何度も聞いた「国が滅ぶ」という言葉が実感を伴ってよみがえってきた。故国で暮らしていれば現実感のない言葉が、ここで盛んに言われるわけがわかった気がした。   そして次に見えたのが、どこかの山道だった。   4   道にいたのはふたりで、一方は死神のように暗い色の布をかぶっている。もう一方は金の髪をしていた。周囲に何頭かの獣が見える。   「お許しを」   言って顔を|覆《おお》ったのは金の髪をしたほうで、そしてそれはいつか山道で会った女だった。   (やはり、あれが|塙麟《こうりん》……)   「それはもちろん、|儂《わし》に対して言っておるのだろうな」   死神のような人物が頭にかぶった布を落とした。現れたのは|老《ふ》けた男の顔だった。|皺《しわ》は深いが、体が大きいので老人という言葉はそぐわない。その肩には色鮮やかなオウムがとまっている。   「無力そうな娘だ。殺しそびれたのは口惜しいが、山に迷いこんでしまえばそうそう長生きができるとも思えん。──だが、すでに契約を交わしていたとは誤算であったな」   男は淡々と言う。そどく感情の欠落した声だった。   「まあ、良い。そのうち山で|野垂《のた》れ死ぬか、里に紛れこんで捕まるだろう。いずれにしても、|台輔《たいほ》」   「はい」   「次にはこんなことでは困る。儂のために、是が非でもあの娘をしとめてもらう」   男が言っている「あの娘」とは、おそらく陽子のことだろう。だとしたら、この男は。   (……|塙王《こうおう》……)   「しかし、気の弱そうな小娘だの。たいした王の器量とも思えぬ。わざわざ|蓬莱《ほうらい》まで出向いたが、あんな主人しか見つからなんだか」   そう言って、男が無表情にふり返ったのは一頭の獣だった。   外見は|鹿《しか》に似ていたが、|角《つの》は額に一本だけ。|強《し》いて言えば一角獣に近いかもしれない。|鬣《たてがみ》は濃い金、毛並みは落ちついた黄色、背中には鹿のように模様があって、そこが不思議な色に薄く輝いて見える。   「よくよく主運がないと見える。のう景台輔」   (景台輔……ということは、あれが|景麒《けいき》)   あれが|麒麟《きりん》という生き物なのか。   これは|配浪《はいろう》から護送される途中、山の中での風景だろう。すると陽子が景麒だと思ったのは塙麟、ジョウユウは景麒であるこの獣を見て「台輔」と呼んだのだ。   「小娘とおっしゃるのなら、捨て置けばよろしいのではありませんか」   言ったのは塙麟だった。   「|巧《こう》の民がふたり、死にました。どうか、こんなことはおやめください」   涙をこぼして塙王を見あげる顔は、いつか山道で見た表情と同じものだ。   「人というのは死ぬものだ」   対する主人の言葉にはどこまでも感情が|窺《うかが》えなかった。   「天はお許しにならないでしょう。きっと巧は報いを受けます。主上とて例外ではないのですよ」   「すでに報いを受けるだけのことはした。いまさら言うても始まらぬ。儂の命運は尽きた。巧は沈む。ならば|慶《けい》にも沈んでもらう。必ず|景《けい》王には同行してもらうぞ」   「そこまで|胎果《たいか》が|憎《にく》いのですか」   塙王はかるく笑う。   「憎くはないが、きらいではある。あちらでは子供は女の腹から生まれるのだぞ。知っておるか」   「知っております。それがなんだというのです」   「汚らわしいとは思わぬか」   「思いません」   「儂は思うな。女の腹から生まれた以上、胎果はすでにこちらの人間ではない。こちらにいるべきではないのだ」   「天はそのように思ってはおられません。だから胎果の王がいるのではないですか。天の意志に|背《そむ》くことこそ、汚らわしいことです」   塙王はしのび笑う。   「儂とおまえは気が合わんようだの」   「そのようです」   「だが、おまえの|主《あるじ》は儂だ。儂の命には従ってもらう。小娘を追って必ずしとめよ。生かして巧から逃がしてはならん。──そうだ、慶との国境に王師を置かねばな。きっと小娘は景に戻ろうとするであろう」   「汚らわしい小娘など、捨て置けばよろしいではありませんか。小娘と言い、たいした器量ではないといいながら、どうして殺してまでも|玉座《ぎょくざ》から遠ざけようとなさるのです」   「胎果の王は巧の周囲には要らぬ」   そっけなく言われて塙麟は深いためいきを落とした。   「……それで、景台輔をどうなさるおつもりです」   「景麒は|舒栄《じょえい》にくれてやる。麒麟がおれば諸侯も異論なかろう」   「当座はそれでだまされても、必ずじきに怪しみます。角を封じられて景台輔は人の姿になれない。|喋《しゃべ》ることさえできません。そんな|宰輔《さいほ》がどこにおります。もうおやめなさいませ。天がこのような|過《あやまち》ちを見逃すはずがございません」   「見逃してくれとは言わぬよ」   「みごとなお覚悟ですが、主上は民のことをお忘れです」   「巧の民は運がなかったのだ。儂が死ねば、次に賢帝が立つやもしれん。そのほうが長い目で見れば民のためかもしれんぞ」   「なんということをおっしゃる・・・・・」   塙麟は再び顔を覆った。   「儂は王の器量ではなかったのだろうよ」   塙王は淡々と言う。表情の欠落した声は、ひょっとしたら彼がすべてをあきらめているからかもしれない。   「おまえも天も王を選び損ねたのだ」   「そんなことはございません」   「そういうことだ。儂の在位は五十年で終わる。|雁《えん》が五百年、|奏《そう》が六百年近く。雁と奏に比べればほんの短い治世だが、儂にはこれが限界だった」   「今からでもお心を変えられれば、もっと長くなりましょう」   「もう遅い、台輔」   塙麟は深くうつむく。   「儂はこの大役につまずいたのだ。地方の|衛士《えじ》で終わるはずだった儂が法外の好運に恵まれたものだが、儂にはそれをうけとるだけの器量がなかった。たかだか五十年しか持ちこたえられなんだ」   「たかだかなどとおっしゃらないでください。短命の王はいくらでもおります」   「おるな。例えば|予《よ》王だ。予王に限らず慶は常に波乱の国、巧よりも国も数段貧しい。不心得な民は雁や奏と比べて巧は貧しいなどと言うが、もののわかる者は慶に比べればましだと言う」   「雁国や奏国とて、最初から豊かだったわけではございません」   「わかっておるよ。そう思うて儂とてできる限りのことはした。だが、儂が進んだだけ延も|宗《そう》も先に進む。それで誰もがいつまでも言うのだ、巧は雁よりも奏よりも貧しい、とな。これは言いかえれば、儂が延や宗に及ばぬということだ」   「そんなことは、決して」   「延や宗にいまさら張り合おうとも思わぬよ。だが、慶は別だ。慶は巧よりも貧しい。これで新王が|践祚《せんそ》して、巧よりも豊かな国になったらどうする。巧だけが貧しいままで、儂だけが|愚帝《ぐてい》といわれることになったら」   「それで天命を失うほどおろかなことをなさるのですか」   塙王は塙麟の問いに返答しなかった。   「|倭《わ》は豊かな国、それは|海客《かいきゃく》の話を聞けばわかる。そして倭より帰還した延の国もまた豊かだ。胎果は儂たちこちらで生まれた者とはちがう。その胎果の延の国があそこまで豊かで、どうして景王を恐れずにいられようか。胎果はなにか国を治める秘訣を知っておるのかもしれん。だとしたら、どこまでも儂だけが」   「なんというおろかなことをおっしゃるのです」   塙王はほのかに苦笑する。   「まったくだ。おろかなことよな。──だが、もういまさらあとには|退《ひ》けぬ。いまさら退いたところで、巧の命運は変えられまいよ。どうせ巧は滅び、儂は死ぬ。ならば、慶の胎果にも同行してもらう」   ──バカな。   「なんて、おろかな!」   思わず声をあげて、はたと幻が途切れた。陽子は力なく剣をおろす。   「……バカなことを」   自分だけが取り残されたくはないから、でも自分が周囲にあわせるよりは、周囲を引き留めたほうが楽だから。よくあることだ。ほんとうによくある。だけど。   「仮にも一国の|主《あるじ》が国民の|辛苦《しんく》も|顧《かえり》みず、そんなおろかなことのために犯してはならない罪を犯したのか」   どれだけの人が巻き添えになって命を失ったか。これで巧国が滅べば、被害はその比ではないだろう。   ──人はおろかだ。苦しければ、なお、おろかになる。   |延麒《えんき》の声がよみがえった。   雁国と奏国にはさまれて。延王を宗王を意識して。たかだか五十年と彼は言ったが、彼にとってはどれほどに長い歳月だったのだろう。   そしてこれは陽子がいつ踏み込んでもおかしくない道だ。雁国と奏国にはさまれたのは慶国も同じ。塙王と同じことを陽子が考えないと言えるのか。   「……怖いな」   陽子はつぶやいた。   「ほんとうに怖い・・・・・」   5   夜風を吸いにテラスに出ると、そこには先客がいた。   「楽俊」   声をかけると雲海を見ていたネズミがふり返る。かるく|尻尾《しっぽ》をあげてみせた。   「また、寝られない?」   「いろいろと考えることがあってな」   「考えること?」   聞くと楽俊は大きくうなずく。   「どうやって陽子の気を変えようか、とか」   陽子はただ苦笑した。   昨夜と同じように楽俊の隣に並ぶ。|手摺《てすり》にもたれて雲海をみおろした。   「ひとつ、聞いてもいい?」   「なんだ?」   「なぜ、わたしを王にしたい?」   「王にしたいんじゃねえぞ。陽子は王だ。もう|麒麟《きりん》に選ばれてるんだからな。なのに玉座を捨てようとしてる。だから止めたいと思っているだけだ。王が国を見捨てると、民も王も不幸になる」   「わたしが王になったら、もっと不幸になるかもしれない」   「そんなことはない」   「なぜ?」   「陽子にならできると思うからだな」   「……できない」   「できる」   短く言ってから楽俊はためいきをつく。   「どうしていまさらそんなに卑屈になるんだ」   「自分ひとりのことじゃないから」   陽子はただ打ち寄せる波を見おろす。   「自分ひとりのことならやってみる。自分で責任のとれることなら。失敗してもわたしが死ぬだけならいい。でも、そうじゃないだろう」   「|慶《けい》国の連中は国に帰れる日を待ってんだぞ」   「そう。豊かな、平和な国にね。わたしがそれを与えてあげられるとは思えない」   「麒麟に選ばれた以上、誰でも名君の資質があると、|延《えん》王は言ったろう」   「ほんとうにそうなら、どうして慶国が荒れる? どうして|巧《こう》国が荒れるわけ? たとえ資質はあっても、資質を生かしていくことが難しいからじゃないか」   「陽子ならだいじょうぶだ」   「根拠のない自身は|奢《おご》りというんだ」   きゅうぅ、と楽俊はうつむいた。   「卑屈になってるんじゃない。根拠のない不信なら卑屈と言われてもしかたないけど、わたしの不信には根拠がないわけじゃない。わたしはこちらで沢山のことを学んだ。その最たるものが、平たく言えば、わたしはバカだということだ」   「陽子」   「自分を|卑下《ひげ》して満足してるんじゃない。わたしはほんとうにおろかだった。そんな自分をわかって、やっとおろかでない自分を探そうとしてる。これからなんだ、楽俊。これからすこしずつ努力して、すこしでもマシな人間になれたらいいと思っている。マシな人間であることの証明が麒麟に選ばれて王になることなら、それを目指してみるのもいいかもしれない。でも、それは今のことじゃない。もっとずっと先の、せめてもうすこしおろかでない人間になってからのことだ」   そうか、と楽俊はつぶやいて手摺を離れた。ほたほたと広い露台を歩き回る。   「陽子は怖いんだ」   「怖いよ」   「大きな責任が肩にかかってきて、それですくんです」   「……そう」   「早く|景麒《けいき》を取り戻しに行け、陽子」   陽子がふり返ると、楽俊はひとりで自分の影を踏んでいる。   「おまえひとりでやるんじゃねえぞ。なんのために麒麟がいるんだ。天が麒麟を王にしなかったのはなぜだ。おまえは自分を|醜《みにく》いと言う。浅ましいと言う。自分で言うんならそうなんだろうさ。だがな、景麒がおまえを選んだ以上、景麒にはおまえの醜さや浅ましさが必要なんだ」   「そんなこと」   「足したらちょうどよくなるんだろうさ。おまえだけでもたりねえ、景麒だけでもたりねえ。だから王と麒麟と、ふたつで生きるように作られてるんじゃねえのか。麒麟もいわば半獣だ。半獣の陽子と、半獣の麒麟と、それでちょうどいいんだろうさ。きっと延王も|延麒《えんき》もそうなんだと思う」   陽子はただうつむいた。   「王になるってんで|有頂天《うちょうてん》になる人間だっているだろう。民のことを考えて|怖《お》じ|気《け》づく分別があるだけでも、おまえは玉座につく資格があるよ」   「そんなことじゃない」   「景麒を信じろ」   「でも」   「もっと自分を信じてやれ。五年あとに王の器になれるなら、今から王でもいいじゃねえか。ここですくむ必要がどこにある?」   「でも……」   「景麒はもうおまえを王に選んでるんだぞ。今この地上に陽子以上に景王に向いた人間はいねえ。天意は民意だ。今この地上に陽子以上に慶国の民を幸せにできる王はいねえんだ。もっと|呑《の》んでかかっちゃどうだ。慶国の民はおまえのものだ。おまえが慶国のものであるのとおんなじにな」   「だけど」   「マシな人間になりたいんだったら、玉座に|就《つ》いてマシな王になれ。それがひいてはマシな人間になるってことなんじゃねえのかい。王の責任はたしかに重い。いいじゃねぇか。重い責任でしめあげられりゃ、さっさとマシな人間になれるさ」   「なれなかったら?」   「マシになる気があれば、いやでもなれる。麒麟と民がおまえの教師だからな。それだけの数の教師がいて、バカでいられるはずがねえ」   陽子は長いことだまって海を見ていた。   「……王様になったら帰れないね」   「帰りたいか?」   「わからない」   「わからないのか?」   陽子はうなずいた。   「正直に言うと、あちらがそんなにいいところだったとは思えない。こちらも前ほどいやじゃない」   「うん」   「でも、こちらに来てからずっと、帰ることだけを考えてきた」   「……それは、わかる」   「両親がいるの。家があって友達がいるの。ほんとうに絶対いい両親でいい友達だったか聞かれると困るけど、それはあの人たちだけの責任じゃない。わたしは貧しい人間で、だから貧しい人間関係しか作ってこられなかった。でもここで帰ったら、もっとちゃんとやれると思う。ぜんぶ一からやり直して、自分が生まれた世界に自分の居場所を作れると思う。おろかだった自分がほんとうに悔しいから、あそこでちゃんとやり直してみたい」   手摺をにぎりしめた手に滴がこぼれた。   「たとえやり直すことなんかできなくても、あそこはもうわたしのいるべき世界じゃないのだとしても、それでもやっぱり|懐《なつ》かしい。わたし、別れの言葉も言ってこなかった。前もって心の準備をするひまがあってちやんとお別れができていたら、こんなに苦しくなかったかもしれない。でも、なんの準備もなくて、なにもかも放り出したままで」   「……そうだな」   「それでなくても、今日までずっと帰りたいって、絶対に帰るんだって、それだけで頑張ってきたことをあきらめるのはすごくつらい……」   「うん」   「ここで帰ったらきっと後悔すると思うけど、帰らなくてもきっと後悔すると思う。   どちらにいても絶対に片方が懐かしい。どっちも取りたいけど片方しか選べない」   そっと暖かいものが頬に触れた。それが頬をつたったものをぬぐってくれる。   「……楽俊」   「ふり向くなよ。今ちょっと|障《さわ》りがあるからな」   笑みがこぼれて、それといっしょに涙がこぼれた。   「笑うな。しかたねえだろ。ネズミのまんまじゃ手がとどかねえんだから」   「……うん」   「あのなぁ、陽子。どっちを選んでいいかわからないときは、自分がやるべきほうを選んでおくんだ。そういうときはどっちを選んでも必ずあとで後悔する。同じ後悔するなら、すこしでもかるいほうがいいだろ」   「うん」   「やるべきことを選んでおけば、やるべきことを放棄しなかったぶんだけ後悔がかるくてすむ」   「うん……」   頬をかるく叩いてくれるてのひらが暖かい。   「おいらは陽子がどんな国を作るのか見てみたい」   「……うん。ありがとう……」   6   |維竜《いりゅう》襲撃のその日、陽子が騎馬に借りたのは|吉量《きつりょう》という生き物だった。吉量は白い|縞《しま》のある紅い|鬣《たてがみ》の馬、金の目が美しい。乗馬の方法はジョウユウが知っている。   「陽子は|関弓《かんきゅう》にいてもいいのだぞ」   |延《えん》は言ったが、陽子はうなずかなかった。維竜を守る兵は六千あまり、一機でも多いほうがいいのはわかっている。ましてやことが|景麒《けいき》のことで、ひいてはそれが|慶《けい》国のことで、陽子が隠れていていいはずがない。   五百年もの長いあいだ、一国を支え続けた延と|延麒《えんき》に向かって、やってみますとはっせいするのにはおそろしいほどの勇気がいった。こちらの世界のすべてを知っているわけではない。国のしくみも政治のしくみも知らない。王を名乗る器量もないとわかっている。   だからもう、自分にやれることを、とにかくがむしゃらにやってみるしかなかった。今、戦うことが必要だから戦う。とにかくそこから取りかかるしかないから、|玄英宮《げんえいきゅう》に隠れているわけにはいかないのだ。   陽子のほかにもうひとり隠れていることを拒んだ者がいる。楽俊だった。楽俊には関弓に残るよう強く言ったが、彼は承服しなかった。ならば手伝えと延期が言って、彼に伴われて出ていった。|麒麟《きりん》は血を|厭《いと》うので、戦場には連れていけない。彼は楽俊とともに慶国各地で偽王軍に下った|州侯《しゅうこう》を説得するために慶国へ向かっている。   百と二十の獣が雲海の上を駆ける。偽王軍は二万あまり。そのうち五千が|征《せい》州に結集している。百二十騎で戦える相手ではもとよりないと延は言う。   「目的は景麒だけだ。景麒さえ奪還できればとりあえず時間をかせげる。さらに、偽王軍の連中に、自分たちが|後生大事《ごしょうだいじ》に守っているのが偽王ではないかと疑わせることができれば上々。州侯の三人ばかりが目を覚ませば、一気に形勢は逆転する」   景気を取り戻すことは第一歩に過ぎない。   「百二十で勝算はあるのか?」   陽子がきくと、延は笑う。   「いちおう、一騎当千とはいかずとも、一騎当十程度の者を集めたつもりだ。しかも雲海の上は守りが薄い。空の上に昇れる者には限りがあるからな。連中はまだ|景《けい》王が我々のところにあることを知らないはずだ。知られぬよう、わざわざ俺が迎えに出向いたのだから」   それで延がたったひとりで|容昌《ようしょう》まで迎えにきたのか、と思う。   「まあ、景王がどんな人物だか興味もあったのだがな。──だから、|舒栄《じょえい》もまさか|雁《えん》が出てくるとは思っておるまい。わずか百二十騎にしろ、雲海からやってくるとは思ってもみないはずがだか。──あとは景王しだいか」   「──わたし?」   「おまえが偽王軍を威圧できれば、話はもっと早いな。偽王のために戦う民などおんからな。おまえがまちがいなく王だとわかれば、兵のほうから景気を差し出すだろう」   それができれば、と陽子は溜息をつく。   「迷うなよ。おまえが王だ。それを忘れるな。王など|体《てい》のいい下男のようなものだが、それを民に気取られるな。自分がいちばん|偉《えら》いのだという顔をすることだ」   「どうすれば、そういう気分になれるんだろう」   陽子はふたたびためいきをつく。   「自信があればできるだろうけど、自信の持ちようがない」   「そんなもの」   延は笑う。   「麒麟が選んだのだから、文句があれば麒麟に言え、と思うことだな」   陽子は少し|呆《あき》れた気分で延を見返す。   「それが名君になるコツ?」   「そうだろう、きっと。少なくとも俺はこれでやってきたからな。文句があれば延麒にいえ。それでも不服なら自分でやってみろ、と」   「……なるほど。覚えておこう」   実際に自分の眼で見た慶国は、剣の幻以上に荒れていた。雲海の透明な水を|透《す》かしてみても荒廃のほどがわかる。すでに田は穂が見えていなければならない時期だが、耕作をあきらめたように放置されたものが多かった。|廬《ろ》も|里《り》も、死に絶えたかのように静まり返って道を歩くものの姿は見えない。ほんとうに焼け落ち、黒々とした焼け跡だけが残っているところもあった。   |巧《こう》国を貧しいと思ったが、慶国の貧しさはその比ではない。城壁の下に身を寄せ合った難民の姿と重なって胸が痛い。きっとみんな家に帰りたいだろう。眠る家を持たない苦しさは身にしみて知っている。   雲海越し、眼下に地上を見て飛行すること半日で、陽子たちは征州都維竜に到着した。維竜もまた雲海の上に頂上を突き出した高い山だった。頂上にある建物が州侯の城、この城のどこかに景麒がいるはずだった。   遠目に州城を見たところで鳥が飛び立つように黒い影が城から飛び立つのが見えた。城を守る空行騎兵の集団だろう。   戦うということは、人を殺すということだ。これまで人を|斬《き》ったことだけはなかったが、それは人の死を心に背負う勇気を持てなかったからだった。いっしょに行くといったときに覚悟は決めた。大儀のために人の命を軽んじようというわけではない。切った相手とその数は必ず忘れず覚えておく。それが陽子にできる最大限のことだと、そう納得していた。   「だいじょうぶか?」   延にきかれて陽子はうなずいた。   「迷うなよ。せっかくその気になってくれた景王をここで失っては、目もあてられぬからな」   「そう簡単に死にはしないと思う。わたしは|往生際《おうじょうぎわ》が悪いから」   陽子が答えると延は|怪訝《けげん》そうにした。それに目線で笑ってみせる。   駆けつけてくる騎兵に向かって陽子は剣を|鞘《さや》走らせた。吉量は|躊躇《ちゅうちょ》せず空を駆ける。城から飛び立った騎兵の群れに陽子は突っこんでいった。   7   ──城の奥深く、厚い包囲網の内側にあったその部屋に捕らわれていたのは、一頭の獣だった。   「……|麒麟《きりん》」   これが、麒麟なのか。   |雌黄《しおう》の毛並みの一角獣。鹿の類ならではのほっそりとした脚には鉄の鎖が巻かれていた。麒麟は深い色の眼で陽子を見る。そばに寄るとすこしまろい形の鼻先を陽子の腕にあてた。   「……|景麒《けいき》?」   言うとまっすぐに陽子を見あげる。四肢を折って陽子の足元に|体躯《たいく》を伏せた。   |屈《かが》み込んで手を伸ばしても逃げない。金の|鬣《たてがみ》をなでると眼を閉じた。   ──これがわたしの半身なのか。   陽子をこの運命に投げ込んだ、あちらでは伝説にしか|棲《す》まない獣。   「探した」   陽子が言うと、景麒は陽子の膝に|頤《おとがい》を寄せる。何度もお辞儀するようにして|擦《す》りつけた。   もう一度鬣をなでると、足元で硬い音がした。獣を|戒《いまし》めた鎖がなった音だった。   「待って。今放してあげる」   陽子は立ちあがり鎖に向かう。剣の切っ先を鎖にあてて真上から突いて断ち切った。麒麟は立ちあがる。体重を感じさせない動きだった。そうして何度も陽子の腕に頭を擦りつける。正確には、その角を。   「……どうした?」   角をのぞき込んで、陽子はそこに妙な模様があるのに気がついた。てのひらほどの長さのそれに赤褐色の文字。それはひどく乾いた血の色に似ていた。   「これが、どうか?」   麒麟はただ角を擦りつける。そのじれたような仕草に陽子は異常に気づいた。半獣の楽俊がしゃべる。|妖《あやかし》さえしゃべるこの地で、最高位の霊獣と呼ばれる麒麟がしゃべれないはずがあるだろうか?   そういえば剣の幻の中で「角を封じたので人の姿になれず、しゃべれない」といっていなかったか。   かるく角を擦ると、麒麟はおとなしくされるままになっている。服の裾で強くぬぐうとすこしだけかすれたが、それ以上の変化はない。いぶかってよくよく見ると、細かな文字が角に彫り込まれているのだとわかった。   傷ならば役に立つかもしれない、と陽子は|珠《たま》を|懐《ふところ》から取り出した。そっと当てながらぬぐうと明らかに薄くなる。何度かくりかえしてごく薄くなったとき、突然腕の中で声が響いた。   「ありがたい」   声は懐かしい音をしていた。   「……景麒?」   麒麟はわずかに眼を細めて陽子を見あげる。   「いかにも。ご苦労をおかけしたようで申しわけございません」   陽子は|微笑《わら》う。すこしも悪びれない口調がただ懐かしかった。   「おひとりか?」   「|延《えん》王がご助力くださった。|雁《えん》国の王師が外で偽王軍をとどめている」   「なるほど」   うなずいて麒麟は強い声をあげた。   「ヒョウキ、ジュウサク」   壁からすべり出てくるようにして、二頭の獣が姿を現す。   「ここに」   「いって延王をご助勢申しあげよ」   深々と一礼して、二頭の獣の姿が消えうせた。   「ぶじだったんだ」   「無論」   麒麟はうなずいてみせる。そのほんとうに悪びれない声がおかしかった。   「角を封じられると、使令も封じられる?」   麒麟が気まずそうに小さく|唸《うな》った。   「ずいぶんと学ばれたようだ。……そのとおりです。ご迷惑をおかけして申しわけない」   「ジョウユウは封じられずにすんだから、わたしには影響がない。カイコとハンキョは?」   「ここにおります。お呼びしますか」   「いや。みんなぶじならいい。あとでゆっくり会えるから」   「はい」   「ああ、そうだ。お願いがあるんだけど」   「なんなりと」   「ジョウユウにした命令をといてほしい。まだ離れてもらっては困るけど」   麒麟は陽子を見つめて二、三度|瞬《まばた》きをする。   「ずいぶんとお変わりになった」   「うん。景麒にもお礼を。|賓満《ひんまん》をありがとう。ジョウユウにはほんとうに助けてもらった。お礼も言いたいし、聞きたいこともあるから」   「お聞きになりたいこと?」   「そう。ジョウユウって、どういう字を書くのか」   獣は目を見開いた。   「──おかしなことをおっしゃる」   「そうかな。でもずっとほんとうの名前を聞いてないみたいで、気になっていたから」   陽子がそういったときに、ふいにぞろりとした感触が手をつたった。   指があるかなしかに動いて宙に文字を描く。   ──冗祐。   陽子はかるく|微笑《ほほえ》んだ。   「ありがとう、冗祐」   ──使令は麒麟に仕え、ひいては王に仕える。礼をいっていただくにはおよびません。   陽子はただ|微笑《わら》った。そんな陽子を見ていた麒麟は眼を細める。   「ほんとうにお変わりになった」   「うん。たくさん勉強をさせてもらった」   「正直申しあげて、もう一度お目にかかれるとは思っておりませんでした」   陽子はうなずく。   「わたしもだ。──人の形にはならないの?」   「裸で|御前《ごぜん》にはまかりかねる」   その|憮然《ぶぜん》とした声がおかしくて、陽子は小さく笑った。   「では着るものを調達に、とりあえず帰ろう。|金波宮《きんぱきゅう》に戻れるまではしばらく|玄英宮《げんえいきゅう》に|居候《いそうろう》だけど」   陽子が笑うと麒麟はもう一度目をしばたいて、その場に身を伏せる。動きにつれて背が不思議な光沢を放った。   「天命をもって主上にお迎えする」   首を垂れてその角を陽子の足に当てる。   「御前を離れず、詔命に|背《そむ》かず、忠誠を誓うと誓約申しあげる」   陽子は薄く微笑んだ。   「──許す」   これが陽子にとっての、物語の始まりである。   予青六年、春、宰輔景麒失道、疾|甚《はなは》だし。堯天に大火|疫癘《えきれい》続く。|政《まつりごと》、|節《せつ》無く、|苞苴《ほうしょ》|讒夫《ざんぷ》|昌《さか》んなり。民憂えて歌う、天|将《まさ》に景を|亡《ほろ》ぼさんとす、と。   五月、|上《しょう》、蓬山に赴き許されて位を退く。上、蓬山に崩じ、|泉陵《せんりょう》に葬る。景王たること六年、|謚《おくりな》して予王と曰う。   予王崩じて舒栄立つ。偽して自ら景王を号して堯天に入る。国大いに乱れる。   七年七月、慶主景王陽子立つ。   景王陽子、姓は中嶋、字は|赤子《せきし》、胎果の生まれなり。七年一月、蓬莱国より帰り、七月末、乱を救い、雁国延王尚隆に請うて偽王舒栄を|伐《う》たしむ。   八月、蓬山に天勅を承く。神籍に入りて景王を号す。堯天に予王を祀り、六官諸侯を新たに任じて政を正し、元を|赤楽《せきらく》とあらため、赤王朝を開けり。